human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

無垢について(2)

無垢という言葉から、いつも連想する人がいます。
『いつかソウル・トレインに乗る日まで』(高橋源一郎)の登場人物です。
自分の記憶に残るまま、書いてみます。
読んだのは、記録によると4年前のことです。

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ある場面で、主人公は隣に寝ている女性に自分の過去の話を聞かせます。主人公が大学生の頃、日本では学生運動が盛んでした。党派に分かれて対立し、ヘルメットを被り棒切れを手に暴力行為を繰り返していました。ある時、党派間の衝突があり、主人公の友人が捕虜として対立する学生達に捕まりました。敵の学生達は、対立する主人公属する党派の内部情報を得ようと、その友人を拷問にかけます。友人は黙秘を続け、拷問はエスカレートしていきます。

友人は画家を目指していました。自分の目に映るものの細部を見つめ、絵にすることを喜びとしていました。友人にとって、目に映るもの全てが、感動の対象でした。

友人は病院のベッドの上で、主人公と言葉を交わしています。友人の目には包帯が巻かれています。友人は拷問の果てに、コンパスの針で両眼を突かれてしまったのです。友人は主人公に言います。──針が自分の目を貫く瞬間まで、僕はその針先をじっと見つめていた。あんなに一つのものをじっくり見たのは初めてだった。なんと綺麗で美しいのだろう。金属を構成する原子の一つひとつが見えるかのようだった──友人に後悔の色は全くなく、言葉は淡々と語られます。そして最後に、ぽつりと呟きます。──どうしてみんな、見ようとしないのだろう。

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最初に連想する人、と書いたのはこの主人公の友人のことです。
僕の「想像上の無垢」の、原型かもしれません。
ここで想像上の、としたのは、実生活と比較することはできないからです。
それは相手の無垢を感じる主体が違うからです。

誰かが人の何かを感じる時、その「感じ」は二者の相互作用から生じます。
例えば同じ人に対して、優しいと思う人と、冷淡だと思う人がいる。
つまり、生活の中での他者と、物語の中での登場人物を、同じに感じられるかどうか。
同じなわけがない、と思うのが普通です。

ただ、無垢の「感じ」については、同じだと思っています。
日常の他者の無垢性と、物語内の人物の無垢性に、共通するものがある
また、無垢を感じるにおいて、相手の性質と同時に、それに感応する自分がいる。
飛びますが、これは僕の、読書における実践の一つなのだと気付きました。

それは「一冊読み終えるごとに、自分の何かが変わる」という実践です。