human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「引き算」の感覚について(1)

過剰と不足を選べと言われれば、不足を選びます。
モノであれ、情報であれ、それは変わりません。
適度を超えれば、過剰も不足も不都合となります。
しかし何にせよ、過剰か不足かしかありません。

飽食の時代と言われています。
食べ過ぎに気を付ける、調理された食品が手を付けられずに捨てられる。
あるいは、情報化社会、消費社会と言われています。
モノも情報も、選ぶより圧倒的に捨てる量の方が多い。

描写の薄いミステリィを最近好んで読むようになりました。
登場人物の特徴や、物語の舞台に関するディテールが少ない。
伏線に見えるものや、明らかな謎がそのまま放っておかれる。
そういった状況に対する不安や不満が少なくなったように思います。

物語を読むことは、想像力を発揮することです。
その発揮の仕方は、二種に大別することができます。
書いてあることを想像することと、書いていないことを想像すること。
両者においては、想像の仕方が全く異なります。

描写の薄い物語を読む場合、書いていないことを想像する比重が増します。
この時に感じる不安の一つは、その想像の正しさが担保されない点にある。
けれど少し考えると、この場合の「正しさ」が何を指すのかが分からない。
そしてなぜ、書いてあることを想像する内容が「正しい」と言えるのかも。

この「正しさ」は、消費者にとっての正しさではないかと思います。