human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

デフォルメについて

写実主義でないマンガの描き方をデフォルメと呼んでみます。
やたら頭が小さい、足が長い、あるいは手が丸、足が棒、などなど。
マンガのほとんどは何がしか描写がデフォルメされています。
ここで考えたいのは、特殊な場面でのみ適用されるデフォルメについてです。

例えば登場人物がコマの中で遠くにいる場合、単純化されることがあります。
あるいは、フザケ・トボケの演出として登場人物が単純化されることもあります。
山名沢湖藤崎竜はこれをとても効果的に使います。
(『封神演義』では太公望がよく「棒人間」になります)

上は分かりやすい、あるいは意識的なデフォルメの例です。
これとは反対に、分かりにくい、あるいは無意識的なデフォルメもあるのではないか。
写実的ではなく、登場人物の主観やコマの視点の主観に基づいた描写。
パッと見で、作者の絵のバランスが悪いのでは、と思ってしまうような絵があります。

例えば、コマの中で一人だけウデが長かったり、目が大きかったりする。
その登場人物の他のコマと比べても、ウデや目のバランスがおかしい。
上で「無意識」と書いたのは、敢えてバランスを崩すことの効果を狙ったのではなく、
マンガの世界に没入して、登場人物になり切って描いた結果かもしれないからです。

恐らくマンガ家にとって、人物をバランス良く描くのは欠かせぬ基礎力かと思います。
けれどこのバランスというのは、写実的なバランスのことなのです。
二頭身キャラみたいなデフォルメの度合いが大きい絵ではまた別の話になりますが、
もともとが写実的に近い絵を描く人にとっては、このバランス感覚は大事なはずです。

ところが、このバランス感覚を追求し過ぎると、マンガ全体がのっぺりしてくる。
躍動感がないというのか、始終が「同じ躍動」をもって進行することになる。
登場人物が走ったり格闘したりするコマが、人のいないコマと同じ風景画に見える。
そういう描き方によって映えるマンガも、もちろんあると思います。

しかし、躍動感が売りのマンガは、時にそのバランス感覚を崩す必要が生じる。
最初に書きたかったのは、こういうことです。
「躍動的なマンガは違和感があるかないかのギリギリの線を狙ってくる」と。
つまり、それは読み手の力量を要求するマンガでもあるのです。

僕はブックオフで立ち読みするマンガは高速でページを繰るように読むことが多く、
買って家で読むマンガは1ページを、いや1コマをじっくり読むことが多い。
立ち読みした結果買うことにしたマンガは上の両方の読み方をするわけですが、
そういった高速で読んだマンガをゆっくり再読する時に、色々気付くことがあります。

その気付きの中に、上で書いたウデが長いとかが含まれるわけですが、
この「写実的ではない」という違和感について考えていくと、また気付きがあります。
上で「登場人物の主観に基づいて」と書いたのですが、
必ずしもそれは「登場人物の目が見るままにマンガに描き起こした」とは限らない。

考えれば当たり前ですが、
マンガを読むことと、そのマンガの登場人物になり切ることは違います。
マンガに没入するとあたかも自分がマンガを読んでいることを忘れることはあります。
ただそれは、行為とその結果であって、両者をイコールでは結べない。

何が言いたいかというと、例えば、
「登場人物の主観」とは別のルールに基づいた描き方で、読む人の没入感を、
(「登場人物の主観」に依拠するより)さらに亢進させることも可能だと思うのです。
何だか自分が描き手のような言い方ですが、読み手の立場で言い直すとこうなります。
一つのマンガを色んな読み方をしていく中で、その都度「違和感」が生じるが、
その「違和感」をなくすような読み方を見つけることに読み手の「技」がある。
その読み方は必ずしも、我を忘れて没入するという一つの理想型に限らない。
「読み方を見つける」というくらいだから、分析的な読み方を含めても良い。
非常にゆっくり読む、最初とは違う読み方で再読する、などは分析的な要素が入る。

きっと、一つのマンガに対して「最適な読み方が一つある」なんてことはない。
マンガを読む理由が一人ひとりで違うのだから当然です。
このことは言い換えると、仮にある人がそのマンガの「最適な読み方」を見つけても、
それは時間をおいて再読する間に変わって行くということです。

マンガについて当てはまることが、小説について当てはまることがあります。
上に書いたことは、きっと小説にも当てはまります。
そして自由度が高いのは、小説の方です。
ただマンガは、実生活よりは自由度が高いのだと思います。

自由とは、面倒なものです。