human in book bouquet

本格的に本と関わっていきます。

また引っ越しました

ご無沙汰です。

2014年に入ってから全く書いていませんでしたが、
会社が遅まきながらGWに入ったので再開することにしました。
ただ諸事情あって「深爪」及び「これまた」は引き続き休止して、
はてなダイアリーに新ブログを開設しました。
今のところ仮住まいのつもりです。

仕事の話

ここでは仕事の話は書かないつもりですが、最初だけ少し書きます。
社会人5年目にしてR/DからIPに所属部署が変わりました。
仕事で扱う内容はそのままに、アプローチががらりと変わった印象です。
R/Dはモノを扱っていましたが、IPでは文書作成が主な仕事です。

半年近くブログを書かなかった原因はここにあります。
ブログに書く文章とIPの仕事で書く文書は全く性質が異なります。
前者は僕が好きで書いていますが、後者は単純にそうとは言えません。
今回だけ仕事の話を書くのは、このことについて書きたいがためです。

IPでは発明等の権利を守るための明細書を書きます。
それは法律文書のようなもので、決まり事がたくさんあります。
 どの一文も、それが意味するところをはっきりさせること。
 誰が読んでも同じように読めること。つまり解釈の余地がないこと。
 会社が必要とする権利を取得するために、遺漏なくかつ遅滞なく書くこと。
その文書の性質上、また会社で仕事として書くにおいて、以上は当然のことです。
そしてこのことと無関係に、僕が好きで書く文章はこれらと全く逆の性質を持ちます。

一言で言えば僕が好んで書ける文章とは文学のことです。
文学だと固いイメージがあるので、小説と呼んでもよいです。
小説といっても物語に限定されません。
というより、現実もある意味「物語的である」と言った方がよいでしょう。

文学は、簡単には言葉で表せないことを表現するために延々と文字を綴ります。
つまり文学を構成する一文にははっきりと分かる意味がありません。
正確には、その一文が直接意味することと文学が意味することが違うということ。
ここからその一文を読み手がどう読むかという解釈の余地が生まれます。
誰もが同じように読むことを文学は最初から想定していません。
なぜなら、文学には「宛て先」があるからです。
文学を書く人は、誰かに向けて文字を綴る。
同時に「その誰かには自分の言いたい事が伝わらないかもしれない」とも思っている。
「言いたいことが伝わらない」とは「想定とは別の意味で伝わる」ということです。
書き手はそのことも了承済みです。
読み手も,実は書き手と同じように考えています。

言葉について

話が別のところで深くなりそうなので戻ります。
僕は「解釈の余地がある文章」を書きたいと思っています。
読む人によって、受け取る意味が異なる。
それは、同じ人が読んでも、時間が経つと別の意味を受け取ることを含みます。
僕はそれを肯定したいのです。
 つまり、人は変わるということです。
 これはこの次に書きますので今は戻ります。

言葉はふつう、伝えたいことを人に伝えるために用いると考えられています。
けれど、言葉の機能はそれだけではありません。
というより、それは機能ではなく「言葉に関する決めごと」に過ぎません。
言葉の本質的な機能とは、用いたそばから肌理が変わることです。
会話だと実感が湧きやすいですが、文章を書く時も同じです。
思ったことを書こうとして、いざ書いてみると「何か違うな」と思う。
それに気付かない場合が多いというだけで、言葉とはそういうものです。
その「肌理」を、もっと細やかに感じ取りたいと僕は思っています。
それこそが、コミュニケーションの目的であり、創発性の源なのです。

コミュニケーションは意思疎通と訳されます。
この意思とは、言葉ではありません。
「言葉によって伝えたいこと」です。
難しい言葉を使えば、ここで僕の言うコミュニケーションとは、
「事実認知的」ではなく「行為遂行的」の方のコミュニケーションです。

コミュニケーションの話をしたいのではありませんでした。
「言ったそばから変わる言葉を追い続けたい」と思うのです。
知識も、そのためにある。
文学的営為は、理系の最先端の研究と通じるものがあると思います。
既知のものを用いて未知なるものを探求すること。

自分が文理横断的なテーマに興味がある理由がここにあるかもしれません。
僕の大雑把な印象ですが、文系、理系に関わらず、
専門分化が進むほど「既知で外堀を埋める」ようになると思えます。
本来は、何かを知れば、知ったこと以上に分からないことが増えるのに。

書くことについて

とりとめがないですが、上で途中で放り出したことの続きを書きます。
人は、時間が経てば変わります。
体はもちろん、考え方も変わります。
しかし、社会はその「変わる」ことから目を背けているように思う。

いきなり社会が出てきましたが、ここではこれは掘り下げません。
ここで書きたいのは、なんとなく周りに合わせて漠然と過ごしていると、
「変わらないのはよいことだ」と自然に思われてくるということです。
それは簡潔に言えば「生の否定」なのですが。

また書くことになると思いますが、自分は「身体性」に興味があります。
脳には、時間の概念がありません。
脳は自分の思考の枠組みのリアルタイムな変化を感知できません。
過去の一地点と今といった、「点と点」の比較しかできません。
また、計算機が脳の比喩となるのは、脳には身体がないからです。
脳という本体は身体なのに、脳自身はそれを見ないことにしている。

身体性を意識するということは、変化を意識するということです。
僕は生活の中でその変化を感じる工夫を思い付きで実行していますが、
それを文章にしておくことには一定の意味がある。
「脳と身体のバランス」という時の、脳への歩み寄りかもしれません。

最初に書こうとしたこと

書いている途中である要素を掘り下げると、元に戻れなくなります。
文章が上手く書ければ、話を突然切らずにスムーズに戻れるのでしょう。
自分には「文章を上手く書きたい」という欲求はありません。
書くことは手段であり、目的ではない。
後で読み返すことを考えると多少は体裁を整えねばならぬという程度。

先ほどの話にもありましたが、このことは「宛て先」を限定します。
つまりこの文章を読んで、よく分からない、面白くないと思えたら、
その読み手はこの文章の宛て先に含まれていなかったということです。

手紙とは、書いて送りさえすれば相手が読むというものではありません。
相手の家に届いても、その相手が差出人のことを嫌いだったり、
宛名の文字が気に食わない等の理由で破り捨てられる可能性もある。
コミュニケーションは一方通行では成り立たない、ということですが、
「自分がその文章の宛て先に含まれるかどうかに自分が関わっている」
と、上の話に沿って言い換えるとこうなります。

新聞を読んでいて何度か気になったことですが、
新聞は「誰もがこの文章を読むべきだ」という姿勢で書かれています。
それをその通りに読み手が受け取ってしまうと、
全ての新聞記事の宛て先に自分が含まれているという勘違いが起こる。
そして、本来自分が宛て先に含まれていないはずの文章を、
「これは自分が読むべき文章だ」と思って読むことは不快なのです。
これは「好きか嫌いか」という単純な嗜好に留まらない話ですが、
いずれ掘り下げて書きたいテーマではあります。

最初に書こうとしたこと…?

また戻ります。
なぜ仕事の話をしたのかについてですが、要するに、
自分が好きで書く文章が仕事で書く文書に影響すると思ったのです。
ただ、考え直してみると、それでもいいかなと思えてきました。
ここで少し、エクリチュールの話をします。

つまり文体のことですが、自分に心地よい文体を大事にすると共に、
それをさらに活かせるように別の文体を学ぶと考えてもよいかなと。
僕は機械系の学部を出ましたが、国語がダメで理系に進んだ人間で、
そのコンプレックスをいまだに引きずっています。
つまり文章がちゃんと書けないということで、
ちゃんと書こうと意識すると指が止まってしまうのです。

この点で今のIPの仕事にもわずかながら苦労があるのですが、
その苦労がいまいち改善されない理由が自分の心持ちにあります。
上で書いた「用いた途端に肌理の変わる言葉」というのがそれで、
これを意識していたらIP文体の習得を阻害するのは当たり前です。

肌理を大事にしたいという心持ちを変えるつもりはありませんが、
一方で「意味のかっちり決まった文書」が全く書けないとなると、
そもそも文章を書くことすらままならないのも当たり前です。
単語と文法を覚える前の子どもに、まともな文章は書けない。
つまり、IP文体の習得が「肌理の変わる言葉」を用いた文章の、
伸びしろを大きくすると考えてもよいだろうということです。

そして、前の僕のブログを読まれた方はお気づきかと思いますが、
上記のことを意識してかしないでかは実は定かでありませんが、
ブログに好きに書くという文体が「また」変わっています。
書きながらいくつかルールを思い付き、そのまま実践しています。
このあたりも、おいおい書ければと思います。

仮住まいから元に戻るかも未定ですが、
どうぞよろしくお願いします。

chee-choff

もとの住所

今年の年明けまでは、以下の2つのブログを運用していました。
何となく使い分けていましたが、その説明は省略します。
これも諸事情により、こちらからのみリンクを張っておきます。

深爪エリマキトカゲ
これもまた過ぎ去る