human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

Gestalt Climbing その2、あるいは高齢化社会におけるクライミング文化立ち上げの理路

 
住み始めて半年経つ離島生活。
半官半Xをやりながらクライミング文化の立ち上げに奔走(というほどでもないが)し、
そちらは紆余曲折あって、今日、とある区民体育館を使うために区議会で話す機会となりました。


その区の住民は全戸140人ほどのうち、半数以上が60歳を超える。
ボルダリングが「ムキムキ若者のイケイケスポーツ」といった一般的印象を持たれているとすれば、
区民の方々が、自分たちがそれ(ボルダリングウォール)を使うという発想を持つことはありえない。
 
若者全盛のプロスポーツではなく、生涯スポーツや武道としてボルダリングを実践する。
これまで町のいろんな人に計画をアピールするうえで、この路線を強調してきました。
といって、口で説明するのは容易でなく、長文の書類にそういった文脈を混ぜてきた、という意味ですが。
 
つまり、僕が島でやろうとしているボルダリング事業の思想を対面で直接戦わせたことはまだありません。
そして、その最初の機会が今日の区議会、ということに、なるかもしれません。
「なるかも」というのは、そういう込み入った話以前の実際的なレベルに終始する可能性も高いからです。
 
区立体育館は公共施設で、「活用」はほとんどされていないが、「利用」は普段からちょくちょくある。
施錠せず自由開放されていて、子どもや他区の部活動など、好きな時に使えるようにしてある。
区民はもちろん、町民はみな「区費」を支払っていて、回り回ってそれは体育館の管理費に充てられる。
 
その現状の区民の自由利用が、僕が個人の営利事業のために一部制限されてしまう、という話なのだ。
中身を問わずこのように問題の大枠だけ捉えれば、マイナスな印象を持たれるのは当然に思われる。
だから僕は、「これまでの自由の制限」というマイナスと、「事業によって可能となる活動」のプラスを具体化して説明し、区民の一人ひとりに比較考量してもらえるようにしなければならない。

 × × ×

まず、マイナスをなるべく少なくする事業の方法の検討。

鍵の管理を事業側(僕)が担うことになると、常時開放ができなくなる、これは恐らく認められない。
他の事業(カフェとか)も同時に入って、共同管理くらいになれば開放維持のハードルは下がろうが、あまり現実的ではない。
この点は、体育館をウォールで分割し、非常口の1つで施錠管理の方法を提案する。
 
次に、公共施設を個人が私的事業に用いる点について。

現状、活用(規模の大きな利用)がほぼないという意味で、区民体育館は「遊休施設」といえる。
遊休施設の活用のために、当初は町(教委)や共創基金の協力を得て公共施設としてのウォール設置を検討したが、
予算規模や立地の面で可能性はないと町からは判断が下された。
この経緯があっての、営利事業展開の提案である。

ウォール設置はじめ、事業に関する施設は全て私財の投入によって賄う。
体育館は区のものだから、区民として利用の優遇があるべきと言われれば、無論、その内容(利用無料など)を検討する。
あるいは、設置費がペイできたら区民利用は無料にする、それまでは事業側へのカンパとして使用料が頂ければ有難い。

区が管理する体育館ゆえ、そこで起こる問題を区が負わねばならない事態を、管理者(区長など)は懸念している。
施設部品の破損については、事業側がすべて設置したものなら、区がその責任を負う必要はない。
利用者の怪我については、正規の利用時には「利用注意書き」の一読とサインを利用者にお願いする(一般的なジムと同様)。

正規以外の利用(営業時間外に触れるなど)で怪我が発生した場合、それを区に訴えるクレーマーが、いないとも限らない。
と、区側は怖れるが、事業者側は、利用者の顔が見える小規模の区だからこそ「匿名者」に振り回される必要はないと考える。
不慮の事故が起こらないレイアウトと利用方法を決めたうえで、それでも起こりうる非正規利用について具体的に話し合えばよい。
 
また、感覚的な内容だが、事業者は「細々と生計が成り立つ」ように運営できればよいと考えている。
だから、事業で得た利益を、区民に還元できる方法があれば、検討・実行したい。
体育館の賃料を払う、館内に区民が要望する別の施設を設置する、等々。

 × × ×

さて、ようやく、「プラス側」の話。

基本的に、この事業は島全体からの来客を期待している。
小学校低学年から、高齢者まで、五体満足で歩くことができ、梯子や脚立に登れる人全員を対象としている。
テレビ番組やオリンピックなどで膾炙しているボルダリングとは違うイメージで、ぜひ捉えてもらいたい。

キーワードは、最初に挙げた、生涯スポーツ、武道(武術)、また、
フィットネス(ヨガ、太極拳など)、木登り、アスレチック、全身運動、等々。

すべてに共通するテーマは、「身体性の賦活」、自分の身体に関心をもち、身体感覚を敏感にすること。
「見ている世界」と「自分の運動について知っている世界」の安定した幸福な結合(J・ピアジェ)。
自身の運動能力に関する、脳と身体の齟齬をなくし、自分の身体と「仲良くなる」こと。


いや、この話はちょっと一時休止して、区民の方への別の関心について考えよう。
体育館のボルダリング利用によって、島からこの区へ人が集まることから描ける未来について。
まず、人が区に多くやってくるようになることを、区民の方々は歓迎するのかどうか。

歓迎してくれるとして、ではそこから、区民が増える、別の事業が生まれる等の展開を描けるかどうか。
ボルダリングは教育にも有益である、授業の一環にも、レスリング等の強化訓練にも使える。
ホテルや観光促進課と提携すれば、観光客を呼び込めるかもしれない。

まず、僕自身は体育館で事業ができるとなれば、この区に住んで住民として事業をしたいと考えている。
ジム運営以外にも、便利屋や古本屋、図書館事業など、区のためにできることは他にもある。
そして、僕はジム事業も含め全て、生涯現役で(あと50年くらい?)続けたいと思っている。
 
こんな人間が現れて、もし現状維持ではなく、僕を巻き込んでの新たな区の未来が区民の方々に描けるなら。
僕はその未来を一緒に実現したいと考えています。
 
 
「プラス」の話に戻る、そしてゲシュタルトライミングについても。

ゲシュタルトライミングのキーワードは「アフォーダンス」(前に書いた記事参照)。
動きに合わせて変化する周囲環境と、身体との相互作用としての運動を考える。

平たい地面に立っている、束縛のない状態がいちばん自由に身体を動かせる……
という常識は怪しく、束縛は「導き」でもあるから、その自由は茫漠としている。

動作の経路や方法に制限があるからこそ、その制限を活かすための身体動作の工夫が生まれる。
その工夫は、茫漠な自由からは得られない発見をもたらし、新たな身体部位の賦活も共にもたらす。
つまり、動作可能性の多様度と自由が相関するなら、多様な制限を伴う動作の工夫の経験こそが、自由を高めてくれる。
この「多様な制限」は、ボルダリングにおける自由な課題設定が最も得意とするものである。

決められた石を使って上(横)に移動する、その多種多様な「壁と身体の対話」の繰り返しによって、
身体のアフォーダンス感度が賦活されると、それは日常生活の感覚も変化させる。
階段の上り下り、布団の上げ下ろし、子どもを抱きかかえたり、買い物袋を手に提げたり。
坂道の上り下り、山道の土を踏みしめる、自転車の漕ぎ始めやカーブ、ぬかるみを歩く。
これまで意識もしなかった、日常生活の動作において、各々の状況における環境との相互作用に意識が向かう。
その相互作用は、自分のその各々の動作の微調整への関心を呼び起こし、試す、やってみるようになる。
 
ちょっとした時の身体の使い方に関心が向かうことは、身体を使うことそのことの喜びと繋がる。

 × × ×

では、行ってきます。
 

GRAVITY LOVERS(後)

えーと、前半の内容はさておき、早速本題に入ります。

まず、件の動画を貼ります。
以下の話は、動画HP中に書いた文章と重複する部分もあります。
 

 
これは月一で通う近所のジムで撮ったものです。
いつもそういう動画は古本屋のインスタアカウントにアップするんですが、
最近は撮ってから上げるまでの時間差が開いてきたので、
今回の話題のためにニコニコ動画に上げてみました。

さて。
登璧の後半はバテて登りが雑なので、主に前半部分への言及になります。

(結論というか要点を先に知りたい方は飛んじゃってください)
 
<目次>

まえおきとよりみち

ほぼ天井のような傾斜の壁で、それほどしがみつく感じでもなく、
所々では悠々と一手が出てすら見えるのですが、
これはパワーに余裕があるからというより(最低限は要りますが)、
身体にかかる力の配分が慣性とほぼフィットしているからです。

次の一手を取りに行く時に、
持っていたホールドから手を離して別のホールドを目指すわけですが、
手を離した瞬間に身体全体が動かないということは、
その手以外の三点による支持で完全にバランスがとれていることを意味します。

そのバランスをとる姿勢の維持のために、
腕の筋肉などを偏って使っている場合は、そこが疲れてきますが、
全身(の筋肉や骨)を均等に使えていれば(あくまで理想ですが)、
あたかも地上にすらりと立っているだけ、のように壁に張り付くことができる。


この、「全身を使う感覚を練ること、その賦活」は、
スポーツの中でボルダリングが優れて行いやすく(何せそれを技術と捉えるので)

また武道的身体操法と非常に深い縁を感じるところでもあります。

合気道でも、手裏剣術でもいいのですが、
武道の基礎訓練の中に、
「敢えて一部の身体部位を制限して動作を行う(開始する)」
という思想があります。

それには敵に腕を掴まれた状態から逃れる、等々、
実践的な意味もあるのでしょうが、
動きの「身体を割る」、末端だけでなくその中枢(体幹)においても、
身体部位を細かく分けてそれぞれ別の動きができるようにする。
そのために、動かしやすい手先や足などを敢えて制限して動く訓練、
という意味もあります。


実は、ボルダリングは競技ルールからして、この性質を備えています。

決められたホールドだけを使って、身体一つで自由に登る、その方法を探ること。
登るルートに制限があることが、間接的に自由動作の可能性を制限します。
そして、その制限の中で自由に試行錯誤することは、
まさに「身体を割る」ことで、制限された自由を拡張していくこととイコールです。

ただ、今言ったことは「方向性の一つ」であって、
身体のいろんな部位を使えるようになって上達していくやり方もあれば、
主要な登り方に動員される特定の身体部位を集中的に鍛えてレベルを上げていく、
そういうやり方もある。
…というか、プロスポーツという枠組み内では、後者の方向性は必須です。

「ムーブ」と呼ばれる、半分定型化しているボルダリングの基礎(だけではないが)技術の、
そのそれぞれに要する身体部位のパワー、またその組み合わせが(わりと明確に)あり、
課題のルートを作る人は、その明確さに依拠することで一般的な課題のレベルを設定できる。

わかりやすい能力基準があるから、それを大人数のなかで競うことができる。
これはスポーツ全般の性質です。

では武道はというと、武道はスポーツではありません。
…という一言が、当たり前に聞こえる人とそうでない人がいるはずで、
僕は前者ですが、そういう人にとっては、
現代の剣道も柔道も、武道ではない、ということになります。

それはよくて。
簡単にいえば、武道は人と競うことを(手段ではありえても)本質としない。
えーと、話が逸れつつあるので戻します。

よりみちはつづく

ボルダリングには武道と共通の性質がある、という話でした。
もう少し戻ります。
いや、違うな、武道の話をします。

「地面にリラックスして立っている」ように登る。
これは全身をうまく使うためのクライミングのコツ、の一つの表現なのですが、
そもそも立つ姿勢はリラックスできるのか?
という疑問もありえます。
 理想的な姿勢を、ビシッとした、海兵隊の敬礼姿勢のようなものと想定すれば、
 それはリラックスとは程遠いものとなります。
 それにそもそも、立っている時は足や腰だけを使っていてバランス悪いじゃないか、
 と思うかもしれない。
実は、「武道的な立ち方」というものがあります。
 足を肩幅より少し外側に広げて、
 膝を軽く曲げて、
 お尻を腰骨の真下に「収納」して、
 両肩を下げて、
 遠くを見る。
という、これはあくまで、本をいくつか読んで僕がイメージする姿勢ですが、
特にこの「お尻の収納」によって上半身と下半身がつながり、
立姿勢における腰への(上半身の荷重という)負担が足に流れていく。


重力は、あらゆる物質にその密度に応じて作用するわけですが、
もとは一体である人間の身体も、その名を付けて各部位にバラして考えれば、
各々の身体部位ごとにそれぞれ一定の重力を受ける。
その人の姿勢に関係なく。

寝ている姿勢がリラックスできるのは、
身体各部にかかる重力が、
その身体各部のすぐ下にある地面に逃げていきやすいからです。

いっぽうで立っている姿勢がなんだか体力を使うように思われ、
腰や膝に負担がかかるように感じられるのは、
上半身にかかる重力は地面からは離れていて、
地面に逃げる前に、下半身の(特に)関節各部に集中しがちだからです。

だから、立姿勢はそもそも(つまり物理的に)重力がアンバランスにかかるんですが、
その人体構造上の傾向(前者)と、ではその構造をどう扱うのか(後者)は、
イコールではない(妙な言い方)、というか、
前者は後者に従わざるを得ないのではなく、
前者を前提にして後者はいくらでも工夫できる、という関係にあります。

純化していえば、人体の動作能力の向上という目標に対して、
筋力トレーニングや単純動作の反復練習は前者にアプローチし(増強、補強)、
武道的、古武術的な身体動作の開発探究は後者にアプローチします。


話が進まんな…また戻します。
重力の話をしたいのでした。

重力に自然に従って動けるようになるために、
重力を理解する必要はありません。
むしろ、頭での理解は、自然な動作を妨げる方に進みやすい。
というか、ジャングルの木々を飛び回る猿の動きを「自然動作の理想」と考えれば、
頭で考えることはその状態から離れていく(進化論的にも)ことといえる。

身体の大きさ、身体各部の相対重量、筋肉や骨の比率など、
違うところはいくらでもありますが、
ボルダリングにおける理想は「猿の木登り」であると考えて大きく過たない。

進化によって頭で考えることをやり過ぎてしまった人間は、
その理想的な動き、自然な動きを目指す(取り戻す…という言い方は怪しい)ために、
あらためて「考え直す」必要がある。

脚立が使えれば、ハシゴがのぼれればボルダリングはできる、といいますが、
登璧の身体運用を掘り下げていくと、ある段階から、
日常動作のシンプルな延長ではなく、それとは別のフェーズへ進んでいくことができます。

(注意ですが、先の「筋力トレーニング的身体観」は日常動作のシンプルな延長であって、
 それでいくら身体を鍛えて登れるグレードが上がっても、あくまで日常動作の延長です。
 もちろん、方向性の問題であって、良し悪しはそれを採用する個人が判断することです)


話を戻します(何度目だ)。

立姿勢には、重力の負荷を全身に散らす立ち方もある。
それには、身体を割って、身体各部への感度を上げる必要がある。
そのような立ち方の実現への道は長くとも、
そういうものがあるとして、
そのような立ち方ライクな登り方もまたある、
ということを同時に探究していく。
これは、立ち方が登り方のヒントになり
その逆、登り方が立ち方のヒントになることもある、ということです。

そして「立ち方」のほうは、至極シンプルながら、
武道の基本の型のごとく何十年続けても完全な会得にたどり着かない、
かもしれない。
一方で、「登り方」のほうは、バリエーションがふんだんにある。

やっと本題

何の話かというと、「重力のバリエーション」です。

ふつうは「慣性」と言いますが、
あらゆる身体の動きが重力の統制上に成立するということは、
その動きのプロセス(真っ只中)において身体が受ける任意方向の加速度、
つまり身体動作に伴うあらゆる慣性は重力のバリエーションである
と考えることができます。

やっと話が本題に入ったのですが、
今ここに書いたことが、
この動画の自分の登りを何度か見ている間に思いついたことです。

そして、
「重力研究」というジムの名前の話を本記事の前編に書きましたが、
武道的なボルダリングとは、重力を対象化するのではなく、
いかにその身に引き受けるか、重力との一体化を実現するか、
いわば「重力を愛する人(Gravity Lover)」になれるか、
という方向性を持つものではないかとも思いました。

この、
「重力を愛する」という表現を、僕はいま初めて使うのですが、
こんな言い方をこれまでまるで思いつかなかったところ、
口にしてみれば実は全く違和感はないのだと教えてくれたのが、
サン=テグジュペリ(『人間の土地』)だった、ということです。


ボルダリングにおいて、
身体に対していろんな方向にかかる負荷、そして慣性(加速度)、
これらに、いかに抵抗せず、従順になれるか。

頭上に伸びる壁を登ること、
この、そもそもが重力に反する動きである営み、
それを「重力への抵抗」ではなく、「重力への従順」によって実現すること。

哲学的に考えれば大いなる矛盾として楽しそうですが(まあ単なる言葉の綾ですね)、
その言葉に惑わされず、いや、言葉の(気付きという)助力を得ながら、
この「武道的ボルダリング」を探究していこうと思います。
 
 × × ×

p.s. 1
冒頭に貼った動画の、ニコニコ動画HPでの説明文に、

「静中動、動中静」

ということを書いています。
この武道の言葉を、ボルダリングに応用(転用?)してみます。

この記事の最初の方で、
一手を取りに行く時に身体が振られる話を書きました。

両手両足の4点支持の状態から、いずれか1点を放して、別の位置へ移動する。
この移動が、残り3点を維持したまま行える動きを「スタティックムーブ」、
また、1点どころか数点放し、全身の動きを伴う動きを「ダイナミックムーブ」、
正式な用語はちょっと違うと思いますが、たとえばこのような言い方があります。

スタティックムーブなら、全身を大きく動かさずに一手を進めることができます。
とはいえ、残りの3点をホールドに置いたままではあっても、
その3点にかかる負荷のバランスが(大きく)変われば、
一手を取りに行く間に(変化した負荷バランスの再配置のために)身体が振られます。

この、
「スタティックムーブにおいて『身体の振られ』を(体感上)ゼロにすること」
これを、
ボルダリングにおける「静中動、動中静」と呼んでみたいと思います。

ワンムーブのプロセス全体において身体が全く振られないということは、
「そのあいだずっと身体の重心位置が変化していないこと」と近似できます。

身体の(壁に対する)相対位置、それと身体姿勢も変化している中で、
身体の重心位置を維持するためには、
身体のいろんな部分をいろいろな方向に動かす必要があるはずです(表現が雑)。
(でもこう書けば、甲野善紀氏の「多方向異速度同時進行」の術理と親近します)

そして、そのような動きを実現することで、
外から見た人には身体が全くブレていないように見える。
以上のことは、「必然的な動線」という概念を導入すれば、
ダイナミックムーブにおいても同様に考えられます。

うーん、とても武道的な話ですね😊
 

p.s. 2
「言葉の助力を得て」とい言い方をしましたが、
いわば人間は、猿(というか動物一般)だった頃は自然な身体動作だったのが、
言葉によって自然な動作に様々な偏見がくっついてしまった。
(まあ「手で道具を使う」も偏見ですけど、おかげでいろいろ便利になりました)
その、言葉によって得た偏見を、同じく言葉によって解除していこう、ということです。

時代小説家で居合道・手裏剣術を探究されている多田容子氏は、
古武術は「目からウロコを剥がし続ける営みである」と新書に書いてましたが、
人間にとって、
自分の目にウロコをどんどん貼り付けていくのも言葉だし、
そのウロコをひとつずつ丹念に剥がしていくのも言葉である、
ということです。

なので、身体動作について、
とにかくいろいろ言葉にして表現してみることは大事なことです。
もちろん、その言葉は実動作を伴うものであったほうがいい。
 

GRAVITY LOVERS(前)

ちょっとしたきっかけがあって、
テグジュペリの『人間の土地』を五年ぶりに読み返していて、
童話でも小説でもなく、おそらく体験記だと思うのですが、
つまりジャンル的にはドキュメンタリーと言えなくもないはずですが、
そうだとすれば、この本の哲学と詩の成分は異常なほど濃密です。

一度目に読んだ時に傍線を大量に引き、
今回はその追加にくわえて付箋を新たに貼ったりなどして、
家の本棚もオフィスの書庫も、未読の積ん読本は増える一方なのに、
いつも再読はさらりと済ますつもりで取り掛かり、
その心積もりが序盤で折られなかったためしがありません。

(↓Amazonでタグ検索したら、堀口大學訳の新潮文庫版がありませんでした。
 絶版なのかな…訳もすごいし、宮崎駿の解説もすごいのに)

それはよくて、
再読でやっぱり連想することが所々でいろいろあって、
そのいちいちを展開したい欲求を、
その場で好きなだけ膨らませることで解消してなんとか読み進めるのですが、
いかんせん、クライミングにまで連想が及んでしまい、
こういう機会もなかなかあるまいということで書いて掘り下げようと思い、
ちょうどその連想のきっかけにもなった最近の登璧動画を、
以前しょーもない動画をアップするためのニコニコ動画のアカウントがあったので、
それを利用して投稿してこの記事に貼っつけようと思い、
そのためのあれこれ、また動画の説明文章を書くなどして、
この記事を書くための体力と関心を入り口前でそちらに持っていかれたので、
本題に入る前から疲れています(展開としてはいつも通り)。

さて、タイトルのことにどこまで触れられるか。

 × × ×

テグジュペリが飛行機乗りであった頃、
どこぞの砂漠に不時着して、
近くの砂丘のてっぺんに寝転び、
夜空を仰ぎ見ていた時のこと。

 眠りからさめたとき、ぼくはあの夜空の水盤以外の何も見なかった。(…)自分の目の前のこの深さが何であるかまだ気づかないうちに、ぼくは眩暈にとらわれた。この深さとぼくとのあいだに、身をささえる木の根もなければ、屋根一つ、木の枝一本ありはしないので、いつしか拠所を失って、ぼくはダイビングする人のように墜落に身をまかせていた。
 とはいえ、ぼくは落下はしなかった。頭の先から足の先まで、ぼくは自分が地球に縛りつけられていると気づいた。ぼくは自分の重量を地球にまかせている事実に一種の慰安を感じた。引力がぼくには恋愛ほど力強いものに感じられた。
 ぼくは地球が、ぼくの腰を受け止め、ぼくをささえ、ぼくをもち上げ、ぼくを夜の空間へと運び去るような気がした。ぼくは自分がぴったりこの地球に寄りかかっているのに気づいた、ちょうど操縦しながら、方向を変えるとき、全身にのしかかってくるあの重さと同じ重さで、ぼくはこのがっちりした肩を組みあわせた気持、あの堅実感、あの安全感を味わうのだった。そしてぼくは、自分の体の下に、自分の乗船地球の、円味のある甲板のあることを感知したものだ。

「飛行機と地球」p.75-76
サン=テグジュペリ『人間の土地』新潮文庫、1955

この引用部分だけで連想がいくつも働いたんですが、
まずは脇道からいきましょう(そこで力尽きるかも…)。

ある年齢以上の人(たぶん僕より年上)なら、
「自分の乗船地球」という表現から、
フラーの「宇宙船地球号」を連想しない人はいないでしょう。

が、フラーの方は「思想」であって、
ここでのテグジュペリの言葉は「体感」を表現したものです。

同じ文章の前半は、飛行機の操縦における体感の比喩ですが、
一般的な現代人であれば、車の運転における車体との一体感と同じです。
カーブを曲がる時に、あるいは狭くて障害物の突き出た路地を通る時に、
車体が自分の身体であり、車体表面に運転車の触覚が宿ったような感覚。

砂丘で仰向けに横たわるテグジュペリは、
自分と地球との(介在者なしの)一体感を、そのように感じた。
…ということの絵面を想像すると、
ボカロ作曲者はるまきごはん氏の初期作品を連想しました。
彗星に乗っかる少女(彗星の擬人化?)の歌だそうです。
(いや、思い出してみれば、
 『星の王子さま』が元いた星も、
 王子の身体と比べて、そう巨大なものではなかったはず)

「(地球が)ぼくを夜の空間へと運び去るような」というテグジュペリの表現、
これは、ここだけ見れば夜空に放り出されるように読めなくもありませんが、
その前後の、自分と地球の結びつきの強さを表す多くの言葉と合わせれば、
「夜」というのは実際は夜でも、イメージとしては「宇宙」であって、
地球という球体にまたがった彼が宇宙を旅している情景がぴったりで、
体感と、それに合わせた地球のサイズ感のイメージとしても、
この歌はなかなかフィットするのではないかと思います。
www.nicovideo.jp

さて、本論です。
本記事タイトルの出所は、ここです(引用一部再掲)。

ぼくは自分の重量を地球にまかせている事実に一種の慰安を感じた。
引力がぼくには恋愛ほど力強いものに感じられた。
(…)
あの堅実感、あの安全感(…)。

日本全国に点在するクライミングジムの名前の中には、
ライミングという営為そのものにかけたものが多い。
その有名どころの一つに「グラビティリサーチ」がある。
重力探査、あるいは重力研究。
いい名前だなと思うし、
ライミングの探求とはやはりそういう目線で見るものだよなと思う。

いや、クライミングに限りませんが、
一般的に…

(今、時計を見て、急激に眠くなりました。
 というか朝になると寝られなくなる…
 というわけで急すぎますが一度筆を措きます。
 以下、後半に続く。
 執筆意欲が残ってたらいいな☆
 動画も上げたし、たぶん大丈夫だと思います)
 

3tana.stores.jp

「井桁崩し」のクライミングへの応用

まえおき

今住んでいるアパートの部屋にはロフトがあって、
ロフトに上がるハシゴをバーにひっかけて登りますが、
そのバーが手を伸ばせばぎりぎり届く距離にあって、
ちょっと体を伸ばしたい時に日常的に掴むことがあります。

この部屋には二、三年は住んでいて、
その最初の頃から上記の習慣があったのですが、
初期は片足立ち背伸びで、
・左手はぎりぎり指が上向きの4本中3本(小指除く)掛かり、
・右手は掌が若干バーから浮くけどまあ握れるかな、
という届き具合だったのですが、
それが今になると、ちょうどさっきバーに手を伸ばしてみて、
右手も左手も、バーをしっかり握れるようになりました。

「背が伸びた」という可能性もないことはないですが、
年齢から考えてあまりないでしょう。
「腕が伸びた」という可能性も同様に考えられます。

というわけで身体の使い方が変わったのだとすると、
(1)つま先立ちがよりシビアにできるようになった
(2)肩関節がゆるくなって腕の(長さ方向の)可動域が広がった
(3)胴体部分の骨(肋骨ー鎖骨)が「井桁崩し」然に動けるようになった
といったあたりが思いつきます。

実際にありそうなのは2と3で、
このうち掘り下げると面白そうなのは3です。
用語解説も要りますね。

本題

「井桁崩し」は古武術研究家・甲野善紀氏の術理用語です。
四角形の各頂点が(位置可変の)ヒンジ運動の支点となれば、
その四角形は「ひしゃげる」変形により平行四辺形になれる。
剣術・棒術・手裏剣術などの身体運用において、
「肩や肘や手首など各関節のヒンジ運動」といった部分分解ではなく、
身体全体の(「鰯の群泳」のような)同時協調的な動きの表現のために、
身体のある範囲において「井桁崩し」的動作が行われていると仮定する。

その「ある範囲」というのは確かいろいろありうると想定されていて、
その「いろいろ」の具体的なところは覚えていませんが、
一つだけ印象的で記憶に残っているのが「肋骨ー鎖骨」部分です。

ここが本記事の要点なんですが、
胴体を、左右を短辺とした縦長の長方形と見立てた時に、
その「長方形がひしゃげる運動」において決定的に重要なのが、
胴体の全体を貫いて張り巡らされている「肋骨ー鎖骨系」だということです。

冒頭に書いた、ロフト梯子のバーに背伸びして掴むという話に戻って解説すると、
「片足つま先立ち」とは右手でバーを掴む時には左足が接地(右足は浮き)で、
つまりその時の両手両足(先端)の配置は平行四辺形の各頂点に擬せるわけで、
その体勢における身体全体の「リーチ」は平行四辺形の(長い方の)対角線で、
その対角線に従う(沿う)ような左足ー右手間の身体各部の配置が望ましく、
「リーチ」の中間部にある胴体は、
それが長方形であるより平行四辺形である方が(リーチが伸びる意味で)望ましく、
その平行四辺形が大きくひしゃげるほど、身体全体のリーチも長くなる。

本題の本題

いや、そもそもその「長方形がひしゃげる運動」とは何なのか?
と言われると、武術的にはいろいろあるのでしょうが、
ここでやっとボルダリングの話になります。

「ダイアゴナル」と呼ばれる基本的なムーブがあります。
右手で取りに行く時は、右足を高い位置で踏み、
(取ったあとの)右手と左足が平行四辺形の対角軸となるように動くこと。
ここにもう、「平行四辺形」が出てきています。

が、僕自身が「肋骨の井桁崩し」を実感しやすいと思うのは、
ダイアゴナルよりはむしろ、「逆足」で取りに行くムーブです。


右手で右上にあるホールドを取りに行きたい、
しかし踏める足ホールドが左下にしかない場合、
右足で踏んでダイアゴナルで出ようとすると身体が大きく傾いてしまう。
安定性は変わらず高いのですが足が踏みにくくなる。
この場合、右足ではなく左足で踏むことで、
身体を壁に対して正面に向けたまま出ることができます。
ただ、左足と左手を支点として右手を出す(右足は壁か浮いた状態)ので、
身体の左端を支点とした(左右方向が軸の)ヒンジ運動が発生します。
この、右半身から壁から離れていく運動を抑えるためには、
浮いた右足を右側で壁と摩擦させる(スメアリング)、
もしくは左に流す(フラッギング)といったムーブがあり、
これらは「逆足」の場合に身体を安定させるうえで必須です。

さて、この逆足ムーブにおいては、
身体が大きく(上の例では、右に)傾きます。
…と、
ここまで書いてやっと気づいたんですが、
身体が傾くこと自体はダイアゴナルも逆足も同じですね。
…ややこしくなってすみません。

それでも僕自身の「井桁崩しの実感しやすさ」の差は両者にはあって、
それはなぜだろう…
と今あらためて考えてみると、
逆足のほうがムーブにおいて胴体部が動員されやすい、
あるいは少なくとも意識されやすいからではないかと思います。


変なたとえですけど、
トランポリンでハイジャンプをやるとして、
ひと跳びの長い滞空時間のあいだは、
手や足(の特に先端)にはほとんど意識が向かないはずです。
宙に浮いている間は手も足も「空を切る」わけで、
逆にその「わたわた」した動作をすると姿勢が乱れてしまう。
そう、滞空時の喫緊の課題は姿勢制御にあって、
その制御のために顕在意識が動員されるのは体幹のはずです。
(また、徒手空拳での綱渡りを思い浮かべると、
 腕振りでバランスを取るのは「奥の手」とするのがコツな気がします)

ハイジャンプと(この話のなかで)全く逆の場合を考えると、
たとえば今まさに僕がやっている、パソコンの打鍵操作です。
こまごまとボタンが並んだキーボードの表面において、
その一つひとつを指先が瞬間的に「ちまちま」と選び取っている。
手の先端部の細かい動作に意識を集中させることができるのは、
身体の姿勢がどっしりと安定しているからです。
この場合、体幹はもちろん使われているが、意識はされない。
注意力のリソースが末端に多く割かれるだけ、中枢は感知されない。
だから首や肩が凝ったり、背中がバキバキになったりする。

結論

これらのたとえを先ほどのムーブの話に引き寄せてみます。

ダイアゴナルより逆足ムーブの方が安定性が低いために、
ムーブ進行中の姿勢制御に身体操作のリソースが多く割かれる。
ところでその姿勢制御とは、身体の中枢部に対する意識的動員である。

それはたとえば、鎖骨や肋骨を意識することであったり、
それら胴体骨を全体として平行四辺形にへしゃげることであったりする。

そういうことではないか。

そういうことも、あるのではないか。

あったら面白いな。

という仮説ですが。

翻って、逆足ムーブで井桁崩しができるようになれば、
それはダイアゴナルにも返ってきます。
身体(胴体)が斜めになるのは同じなので、
安定した取りの一手においても肋骨の変形を動員できるようになる。
結果的に、スタティックムーブのリーチが伸びる。

といいな☆

 × × ×

「武道的ボルダリング」というテーマがいつも念頭にあって、
それは武道だけでなくヨガや太極拳といった身体操法も対象です。
といって武道は本の知識(とそこからの個人的実地)でしかないし、
ヨガと太極拳にいたっては単なるイメージの域を過ぎませんが、

おそらく共通して言えることは、
「身体全体をいかに使うか」、

その例としては上でも触れた、
「身体全体の協調的動作」や、
「身体の各部をいかに繊細に意識できるか」、
「日常生活では使わない身体部分をどれだけ使えるようになるか」、
など、いろいろ言い方はあります。


甲野氏はそのいくつもの著書で、
武術的な身体運用は日常生活のそれとは全く違っていて、
完全に習慣づいて意識されなくなった「普段の身体の使い方」を、
いかに(顕在意識化し、バラバラにすることで)解除できるか

それが大事だ、というか、
それによってようやくスタート地点に立てる
といったことを書いていたと記憶しています。

甲野氏の術理がバスケやラグビーや楽器奏法に応用されたり、
氏が主宰する研究会の出身者が「古武術介護」を立ち上げられたりしたのは、
武術的身体運用が現代社会の実利に結びついた一例ですが、
その現代的な実利の起点には「現代習慣(常識)の解除」があったことは重要です。
(別の話ですが、少子高齢化・経済成長鈍化の後退戦を迎える現代日本では、
 これを思想として多分野に活かしてゆくことは有効な生存戦略に思われます)

その可能性はあらゆる分野において潜在しますが、
僕自身はクライミングボルダリング)の中にそれがあり、
その認識と敷衍によって生計を立てることができるだろう、
と考えています。

「ゲシュタルトクライミング」 〜アフォーダンスがクライミングを進化させる〜

 
最近造語ばかりしてますね。
まあ、それが文章を書きながら考えてみようという動機の発端になってはいます。

 × × ×

先日出品したセットの作成過程で、佐々木正人氏の本を少し読み直しました。

3tana.thebase.in

前に読んだのは学生の頃なので10年以上前で、
その時はいろいろと衝撃を受けたんですが、
今読み返しても面白いし、発見も着想も多々あります。
そのうちのひとつ。


アフォーダンスとは、本書によれば「周囲環境に含まれる意味」のことで、
この概念のキーポイントは、環境が人の行為を発動させることにあります。
環境と言うと漠然とするので言い換えると、
人が動くにつれて、連続的に変化する環境情報。

アフォーダンス創始者ギブソンの用語には「包囲光」というものがあって、
人を取り囲む空間や物を客観的な静止物と見るのではなく、
視覚はそれらが反射する光の連続的な変化をとらえるのであり、
その光には連続面、境界、肌理(の細かさ・粗さ)などの分別が含まれます。

…という理論解説は用語が怪しいのでさておいて、
ライミングボルダリング)にアフォーダンスはどう応用できるか
という観点で、自分はあらためて読み直してみたのでした。
以下は、思いつき(というか、これから思いつくであろうこと)です。

 × × ×

ライミングに限らず、スポーツ全般において、
身体をどう動かすか、という観点で語られることが多い。
ライミングなら、指をどう使う、腕だけでなく肩や背中を使う、云々。
これらは全て、考察が人体の内部で閉じている。

ボルダリングでは、ホールドをいかに有効に使う(効かせる)かも重要です。
形状や表面粗さから、持ちやすい持ち方や効かせやすい方向を知ることができる。
これは、人体と対象物(ホールドや壁)の相互作用という観点です。
ただ、理論としては、力学(物理学)ですべてを語ることができる。


ここで、アフォーダンスを登場させます。
壁にあるホールドは、「クライミングアフォーダンス」を持っている。
真下に引きたくなる、横に押したくなる、踵を引っ掛けたくなる「佇まい」をしている。
個々のホールドだけでなく、周囲のホールドや壁(の形状、傾斜)との関係込みで。

自分がアフォーダンスについて考える時にいつも出てくる例を挙げるんですが、
地上の街を歩いていて、地下鉄の入り口の階段にさしかかった時、
それまで一定だった歩幅が、階段を降りる直前の数歩、狭まったり広がったりする。
むろん階段の降り始めで踏み外さないためですが、それはだいたいが無意識になされる。

行為において、人は周囲環境のアフォーダンスを無意識に(時には意識的に)活用している。
言い方を変えると、アフォーダンスの無意識的活用は「自然な動作」である。
これを逆に言えば、考え込んで解読を要する周囲環境は(その始めは)不自然な動作に帰結する。
自然と不自然の差は、一連の動作の持続が長時間にわたるほど、顕著となる。


ホールド一つの効かせ方と、ムーブ全体におけるアフォーダンスの把握は、恐らく次元が異なります。
ムーブに含まれる個々のホールドの有効活用の総和が、そのアフォーダンスとなるわけではない。
この観点からして、ライミングにおけるアフォーダンスは「ゲシュタルト的」であるとも言えます。
ゲシュタルトを簡単にいえば「還元的・部分分析的姿勢の正反対に位置するもの」でしょうか。

課題の個々のムーブをバラして登れても、通すと上手くいかないことはよくあります。
その原因が体力不足にだけあるのではないことと、今している話とは関係があります。
「ムーブの流れの良さ」と言えば、これは身体動作からの視点による表現となります。
同じことに見えそうですが、これを「アフォーダンスの有効活用」と言えば、違う意味が生まれます。

自然な動作は、アフォーダンスの無意識的理解が導くものだと先に言いました。
トライする課題に対して、こう登るのが自然だ、違和感がない、気持ちいい、という感覚。
それは、慣れないムーブを繰り返して習熟することと、完全にイコールではありません。
「ホールドがこう持てと身体に囁いている」、あの「ゴーストがそう囁くのよ(@攻殻機動隊)」というやつ。

…かどうかは知りませんが、身体と課題(=ホールドと壁)の心地よい協調に意思が従うということ。
もちろん、無理やりとか力づくで登る課題だってあります。
それは言い換えれば、特定部位(腕とか指)を激しく動員する必要のある課題です。
そのような課題でも、無駄な動きや、ホールドの活用ミスがあれば、さらなる違和感として表れます。


話を少し変えますが、佐々木正人氏の先の本の中に、J・ピアジェの理論の話が出てきます。
赤ん坊のリーチング(ものに手を伸ばす行為)の研究を通して、人間の動作の習得のことを、
「見ている世界」と「自分の運動について知っている世界」の、安定した幸福な結合と表現しています。
これを読んで僕は、ボルダリングの醍醐味が的確に表現されているなあと思いました。

リーチングにおいては、「見ている世界」とは周りの大人の動作を指します。
一方、それを真似しようとして手足をバタバタさせたり、頭が左右に揺れたりする、
思い通りかどうかに関係なく、赤ん坊の動きそのものが「自分の運動について知っている世界」です。
この前者と後者が一致する、目の前にあるおもちゃを掴む瞬間が「幸福」として体験される。

ボルダリングとは、この赤ん坊の「幸福な体験」をひたすら繰り返す営みだと言うこともできます。
スタッフさんや他の人の手本ムーブを見ることは、クライミング行為における「見ている世界」です。
その中には、どうやって登ろうかと頭の中で色々と想像するオブザベーションも含まれます。
そして、その通りに登れた時に、「自分の運動について知っている世界」がそれと一致する。


話はまた逸れますが、僕はこの点からすると、クライマーと観客は両立するのかと疑問を感じます。
両立と言うと変ですが、要は他人のムーブばかり見ていると「幸福な体験」から離れていかないか、と。
自分より上手な(強い)人の動きは参考になりますが、それが今の自分に明らかに再現不可能な場合、
「見ている世界」が肥大して「自分の運動について知っている世界」からどんどん遠ざかっていく

僕自身は、これからトライする課題の正解を自分で見つけようとするのが好きで、
最終的に知らないまま終わってもよく、従って(特に強い)人が登るのをあまり見ないタチなのですが、
これを「自分の感覚が狂うから」とだけ思っていたのですが、今こうして考えていてなるほどと思います。
自分はボルダリングの面白さを、多くの課題をこなせるようになるだけでなく、

赤ん坊が身体動作を習得するのと似た充実にも感じるのだ、と。


話をアフォーダンスに戻します。

ボルダリングアフォーダンスの概念を取り入れると、「良い課題」の考え方も変わってきます。
例えば、こう動けば自然だろうな、とオブザベで思わせ、実際そう登れば気持ち良く落とせる課題。
アフォーダンス的には、このような課題を「良い」(少なくとも「自然な」)課題と見なせます。
もちろん、見てすぐわかってしまう課題は、打ち込み甲斐がない意味ではマイナスでもあり得ます。

だとすれば、オブザベで散々悩ませ、いろんなムーブを試させるトライを重ねていくうちに、
ふと流れが繋がって、最初から最後まで(あまり力まずに)気持ち良く登れた。
そのような課題は、身体の自然な動きや身体とホールドの自然な相互作用を新たに発見させる、
クライマーのアフォーダンス把握能力を向上させてくれる「良い課題」だということになります。

この見方によれば、課題におけるホールドの使い方にも新たな意味を見出せます。
見た目からは想像もつかないホールドの使わせ方をする課題は、パズル解読としては魅力的です。
が、その使わせ方があまりに不自然であれば、アフォーダンス読み取りの違和感にもつながります。
身体動作の流れ(ムーブ)が自然であっても、その動作を課題に適用する段階で不自然な場合がある

…こともあるかなあと頭で考えてはみましたが、これも一概に言える話でもありません。
動作の実現においていっけん不自然に見える周囲環境を、着眼点を変えるなどして、
身体に自然に作用する環境に読み替えることを、アフォーダンス把握能力と考えることもできるからです。
ゲシュタルトライミングの探求には、力学だけでなく、生理学や心理学にも通じる必要があります。

 × × ×

思いつくまま脈絡なくバリバリ書いてしまいましたが、
ゲシュタルトライミング」という考え方は、掘り下げていけばとても面白そうです。
甲野善紀氏の著書に触発されて武道をクライミングに活かせないかと思いつき、
その時キーワードにした「武道的ボルダリング」ともリンクというか、相性の良さを感じます。

イワシの群れが方向転換するような身体運用」という比喩を甲野氏(や内田樹氏)はよく使います。
中枢(脳)からの命令ではなく、身体全体が同時瞬間に協調的に(一方向あるいは多方向に)動く。
これも、手や足や胴体の動きを足し合わせれば全身の動きになる、という単純総和とは異なる観点で、
つまりはゲシュタルト的な身体運用であると言えます。


今後は、古武術だけでなく、アフォーダンスも意識しながら登っていこうと思います。
 
 × × ×

ボルダリングジム遠征記録から何を生むか

ここ何週間か、忙しい日々が続いていたのが、今日でひとまず一段落つきました。

仕事が立て込んでいるうえ、長距離ランナーの早朝ジョギングのようにボルダリングが完全に生活の一部になっていて、デスクワーク続きで調子が悪くなる前に登りに行っていたので、週末も含めて一日家でゆっくりする日がしばらくありませんでした。

出ずっぱりの日が続くと、それはそれでどこかで風邪なり引いて調子を崩すのも以前の傾向だったんですが、今回なんとか持ちこたえたのは、適度に登りに行って身体周期(使ったり休んだりということ)がうまく流れたからだと思います。
あるいは、仕事の重圧感というか責任感のおかげかもしれなくて、こちらだと(一時的にせよ)開放された今日明日にでも風邪を引きかねませんが…

さておき。

文章を書くというか、頭の中で論理を組み立てることをしばらくしていなかったせいか、今こうして書きながらも頭の回転数が低いなあと感じています。

書く習慣も、書かない習慣も、どちらも続けば習慣と化す。
恐ろしいもので、気をつけていないと、ふと気付いたときには前の習慣のことがすっぽりと頭から抜け落ちることにもなる。
知らぬが仏、忘れたもの勝ち、と開き直るには、まだ(少なくとも身体は)若い。
脳年齢というのは、ひょっとして思い込みでどうにでもなるのでは…

飛躍してますね。本題に入ります。

 × × ×

今回のごとく忙しい時期もなんとかコンスタントに登っていて、オフィス近くのホームジム(大正区のガレーラ)の月パスを持っている期間はほぼそこに行きますが、パスが切れた時期や今月のようにホームジムの課題が少ない(先月末に壁一面ホールド替えがあって、今月末までマンスリー課題がないのです)時は別のジムへ行きます。

行ったことがあって、月イチくらいで行っておきたいジム(梅田のボールド、江坂のクラックス大阪、香里園のルクルなど)のほか、行ったことのないジムにも時々行きます。
ホームジムでいつも同じ時間帯に登る仲間が何人かいて、予定が合えば外ジムでも一緒に登ることもあります(自分が命名した「ガレーラ昼組遠征班」のメインは現在3人です)。

新しい所へ行くとみんなで情報交換をするんですが、ついさっきその仲間から「遠征記録をブログに書いてみたら」と言われて、ちょっと考えてみようかと思いました。


僕は技術的にそれほど上手いわけではありません。
登り始めてちょうど2年くらい経って、どこのジムへ行っても4,3級あたりがちょうどよいレベルで、スラブや垂壁のバランス系課題なら時々2級も登れる、という程度です。

だから、なのかどうかはわかりませんが、ジム紹介とか、特色の解説とか、そういったことを書くには未熟というか、たぶんクライミングスタイルが偏っているので(相対的に、体幹・足技系は強くて強傾斜や指酷使系は弱い。キャンパーを全く触らないので指パワーが不足気味)、どこのジムに対しても同じようなことを書きそうな気がする。

いや、内容どうこうより、僕がこのブログ全体で貫こうとしている、「書きながら考える、書くことで新しい何かに気付く」という意志に沿ったことを書きたい。

そうすると、知っていることを書くというよりは、よく分からないが考えてみると面白そうなことを書く方がいい。

自分が行ったジムに対してそういう意図で書いた文章を何と呼べばいいのか、うん、今書いていて、よくわかりません。

でも、そういうことこそ、書くに値することのようなのです。

 × × ×

身体感覚というのは、頭で考えたことよりも、ずっと深く残っているようで、あっという間に消え去ってしまうようでもある。
それが矛盾ではないのは、感覚としては身に刻まれていても、言葉にするには(時間が経てば)手応えがなくなりすぎている、といったことだと思います。

だから、以前の身体記憶を掘り起こして文章にするのは大変な作業だとはわかっているのですが、それでもとにかく、やれるものならやってみよう。


岩手のジム(花巻市クラムボン。もはや時も距離も遠いなあ)で始めて、1年は花巻に籠り(そのあいだに盛岡の2ジムにも行きました。正月のクラムボンでは帰省していた伊藤ふたばを見かけました。知らずに見ると普通の女の子でしたね)、大阪に来る前にドライブ旅行で全国(東北〜四国。新潟のクラウドナイン、滋賀のグッぼる、愛媛のイッテなど)のジムを巡り、鶴見区→北区と大阪に来てちょうど1年経つまでに大阪・京都・兵庫のジムへ行き。
単純にカウントすれば、20は超えて、30近くのジムへ行ったことになるでしょうか。

その数自体に価値があるわけではなく、数が意味するのは多様性、その多様性は言葉にする緒(いとぐち)の多さに結びけることができます。



と、意気込みだけだらだらと書いてきました。
思えば節目としてキリのいい時期でもあるので、ちょっと余裕ができるはずの来週から、ちょくちょく取りかかれればと思います。


…続き物の記事を初っ端から放り出すのが本ブログの習慣になってしまっていますが、「続けたくない習慣」はどこかで打ち破らねばなりません。

謎の異交通 - free dialogue in vivo 6

 
 言葉が通じているかが不明。
 返事がない、ただの独り言のようだ。
 問いかけた同じ数の沈黙が降り積もる。
 それでもこちらは言葉にするしかない。

 問いかけを自分で聞いている。
 答えを想像することはない。
 沈黙に耳を澄ませる。
 問いの反響が仮想域に長く谺する。


 ふと閃きが訪れる。
 静寂の欠片が幽かな燐光を帯びる。
 意想外の出力が眼前に現象する。
 光の残像は熱の記憶を跡に残す。

 決意の刹那。
 意図に紛れ込む無形の呼び水。
 偶然と決然が必然を導く。
 情報の奔流、大河の一滴


 眠りと覚醒の常態。
 言葉の単交通からそう解釈せざるを得ない。
 同時に相手の目を仮想構築。
 宛らこちらは唄う水飲み鳥か。

 粒子であり波動であるもの。
 不定であり螺旋であるもの。
 次元は座標軸を失いメビウスと化し。
 連想は既成を無視し量子跳躍を試み。

Red Research, Purple Physics 3/n

 
 "Colorless insight makes outsight colorful."

 × × ×

──クライミングをやっていて、体幹という言葉をよく聞くようになりました。腕の筋力とか指の把持力とか、そういう末端というか、局所的な力とは反対のものを指すようで、たとえば「体幹を鍛える」なんて言えば、僕の解釈ではそれは全身のバランスをとるためのエクササイズのことで、具体的には背中とか腹筋とか、あと股関節が体幹の指すイメージです。今挙げた部位も、身体の一部という意味では局所にあたるんですが、全身を動かすうえでの中枢となる部分です。鍛えるというよりは「うまく使う」と言った方がしっくりきますが、つまり身体が動く時にその中枢部をしっかり起動させる、指先や足先に負荷をかける時にそれを中枢部が支える。あるいは末端の負荷を全身に分散させる。体幹を活かせれば、末端が持つパワーや持久力に限定されないパフォーマンスを発揮できる。
 もちろん末端を鍛えれば鍛えた分だけ、より強く登れるようになりますが、それは線形というか、努力と効果の関係がはっきりしています。僕はそこにあまり興味はなくて、たとえば話は逸れますけど、昨日初めて行ったジムでオーナーさんがお客さんと話しているのを小耳に挟んでいたんですが、『今のクライミングの世界って、ひたすら鍛えることだけを考えていて、寝て起きて登って食って(で時々セックス)、っていう生活ができる奴が強いんだよね』なんてことを言っていて、要はお金とクライミング環境が実力に直結していて、クライミングだけに集中できる生活の余裕がない人間はトッププレイヤーにはなれない。これは別にクライミングに限らず、あらゆるジャンルのプロスポーツの現状に当てはまると思います。別にそれ自体は世界が豊かになったことの当然の帰結であって、良し悪しを判断することでもありませんが、僕はこういった予定調和な、やることをやれば思った通りの未来がやってくるという『ああすればこうなる』式の事柄には関心がありません。予想通り、という展開を人はよく好みますが、それは大体の予想が外れるからであって、確実な未来があるとしたら、それはもはや現在であって、想像の対象には入らない。

──なにか、現代は頭を使う人間が減ったという印象を勝手に持っているんですが、それはたぶん、想像をしなくなった、する価値がなくなったから。頭を使うのは、欲しいものを手に入れるとか、やりたいことをするために、何をすべきか、どういう手順でどれだけ時間がかかるか、といったこと。いや、これは現代に限ったことではありませんが、なんというのか、確実さ、「実現可能性の高さ」に対する格別の重み付けが、現代特有ではないかと思うのです。それができるのか、できないのかが、高い確度で判断できて、できるのならばやる、できないのならばやらない。博打をしない堅実さの現れという見方もできますが、僕はそれは一種の平和ボケ、人生がそもそも博打であることを忘れているだけだと見ます。別に僕は賭博に興味はないし、一か八かの人生の選択が生きる醍醐味だなんて思ってもいませんが、たぶん、想像に重きを持つ人間として、「こちら側」にいるんだろうなあと今考えて思いました。生活が常に未知に開かれていることを目指せば、自然と堅気から離れていく。変化のないルーティン的な日常が下地にあってこそ微細な変化に気づき、その色彩やかさを感知できる、という次元を上げた堅気というのもあって(内田樹氏はこれでしょう)、僕はこちらを目指したいですが、難しいのは「次元を上げること」を当然の認識とすることです。たぶん、生活のなかで具体性と抽象性を同時に追求する姿勢が必要で、そして具体的なところをしっかりさせると普通はそちらにかまけて抽象性が薄まっていくんですが、できる人間は具体性の充実をそのつど抽象性に昇華できる。個体→気体を昇華といいますが、この逆も昇華なので、ここでこの比喩を使うのはなかなか適切で、つまり具体性と抽象性の循環のことを指しています。今の僕はこの「同時追求」を実行しつつも、具体性の側に堅気の安定が不足しています。これは別に、抽象性の側に求めてもいいのですが。なんだか、すごく抽象的な話になってしまいました。

──話がズレたので戻します。何度も言ってきたことですが、僕は単純にクライミング技術向上を目指してボルダリングをしているわけではありません。では何のためか、というと、一つは身体性の賦活であると。こう言って、身体性について言葉にしていく難しさがあっていつも挫折してきたのですが、今回は少し頑張ってみようと思います。昨日はジムに8時間近くいて、ほとんど休憩もしなかったので最後の方はよれよれだったのですが、ヨレて登りながら、ふと身体に感じるところがありました。
 ヨレるというのは、これもクライミング用語で、指や腕に力が入らなくなって、元気な時に登れるコースが全然登れなくなる状態を指します。ふつうはヨレてから登ると思わぬケガにつながったり(手のコントロールが利かなくてホールドにぶつけたりとか、変な落ち方をして足や腰を痛めるとか)、筋肉疲労以上のダメージを身体に与えたりするので推奨はしませんが、一方では、無理をしないで軽めのコースを登ることで「力の使わない登り方」を探索することができます。これは体幹を活かした登り方に通じるところがあるので、僕はヨレてからも課題のグレードを下げながら継続的に登り続けることにしています。
 ここからちょっと詩的な表現が多発するかもしれませんが、まあ書きます。力を使わない登り方、つまり変に力まないということですが、これができると、意識が身体の中心にありながら手足を動かせているような気がします。たとえば、これはヨレている時に限りませんが、初級課題だと普通にできるんですが、ホールドを取りに行く時に、手は大雑把に次のホールドの方に向けながら、細かい位置合わせを足の踏み込みでやる。具体的にいえば、取りたいホールドの10センチ下まで手を持ってきて、あとは手も腕もそのままで、踏み込んだ足の膝を伸ばすことでその10センチを稼ぐ。これは体幹オンリーというよりは主に足を使った登り方なんですが、手という末端への意識を薄めながら掴むというやり方は、説明しようとしている「力を使わない登り方」と同じです。…体幹に足は含まれないのか、と今書きながら疑問に思ってきましたが、これは難しいところですね。現在の僕の感覚では両者をあまり分離できていないのですが、たぶん理想をいえば「別もの」だという気がします。

──ちょっと話が変わるんですが、料理の味について、書きます。いや、問題は料理じゃなくて人のほうなので、味覚についてですね。美味しいとか、あと辛い苦い云々は、あれは脳の作用ですね。味覚がなくなるのは、舌の異常もあるかもしれませんが、味蕾だったか、舌の神経と繋がった脳の一部が機能不全という場合もあると思います。何が言いたいかというと、美味しいというのは、身体が感じることではないのですね。それを昨日、ジムから帰ってきてスーパーから半額セールで買ってきた鶏肉のカツレツを食べた時に考えました。安物の、ではなくて多分肉の生っぽさが残っていたのか、レンジで温めてから食べた時に妙な生臭さがあったんですが、それとは関係なく、噛んで飲み込んだ時に身体にある種の充実を感じました。ジムで長時間登るとよくあるのですが、それは「タンパク質渇望感」と勝手に呼んでいる状態で、その時に肉を食べたり豆乳を飲んだりすると、普段それらを摂る場合とは違った感覚が生じます。「この充実感は美味しさとは別だ」と昨日思ったのは、たまたま鶏肉が少々生臭かったおかげなのです。そしてそれから思ったのは、「これは身体が感じていることじゃないのかな」ということでした。

──身体感覚そのものは、言葉にすることが困難で、そもそも意識が身体感覚をきちんと把握するのに長けていないせいもあり(上記の美味しさの話も、食べて感じるのだからなんとなく身体感覚だと思ってしまいますが、全部が全部そうではないのです)、身体を動かしている時、あるいはもっと全般的に身体が活動している時の幽かな感覚という具体例と、その感覚と相関がありそうな意識や身体状況や環境などをもとにした、具体例に対する考察によって、身体感覚の言語化を少しずつ進めていく。そしてこの姿勢、身体に対する感度を研ぎ澄ませることと意識を身体に沿わせること、これらによって身体感覚自体も少しずつ充実していくはずだと思います。話を戻せば、僕はそのための手がかりをクライミングに求めているということです。「合気道などの武道に興味を持っていたが結果的にボルダリングを始めることになった」という一見訳の分からない事情を表す一文には、このような背景が込められています。

【ボルダリング】400円でチョークバッグ自作

チョークバッグは、滑り止めの粉末チョークを入れる袋です。
厳密には、バッグ内に入れるチョークボールの内部にチョークを充填します。
チョークボールは布地のお手玉サイズの球で、握ると生地の隙間から粉が出てくることで、手に粉をつけるもの。
チョークバッグは、チョークボールから出てきたチョークを受けるためにある。

構造としては、外袋と内袋が別になっていて、紐を絞れば内袋が閉じて、粉が外に出ないようになる。
また口が円形に開いた状態を維持できるようになっていて、口の縁をゴソゴソしないでも手を入れることができる。
写真の右側が市販のものの一例です。

仕組みが単純なわりに値段が高いというイメージがあり*1、今回二つ目が必要になったので自作してみました(写真の左側)。
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【材料】○のついた4つを100円shopで購入。下写真参照。
 ○巾着袋(なんとなくデニム生地)
 ○針金(ある程度形状維持できる太さのもの。今回はφ1.6mm)
 ○ダブルクリップ(外袋と内袋を固定するため)
 ○ストッキング(これでチョークボールを作る)
 ・ビニール袋(内袋用)
 ・輪ゴム(チョークボールの口を閉める。1つor2つ)

f:id:cheechoff:20181106161252j:plain

【ポイント】
1. 針金はバッグの口を円形に広げて維持できるように円状に整形する
2. 円状にした針金は内袋より内側に嵌める
3. クリップ3~4個で、外袋外側から針金を挟むように留める
4. しまう時は固定用クリップ1つを残して、残りは内袋の口を閉めるために使う

下の写真(上)は使用時の状態。チョークを表面に滲ませたチョークボールも見えます。
床に放り出しても、このように口が開いた状態を維持します。
写真(下)は使い終わった後。粉が出ないようにクリップでビニール袋を閉じています。
最後に外袋の紐を締めれば、粉は漏れません。

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こんなところです。
室内ジム用としては、市販のものと機能性は変わりません。
使用開始時と終了時にクリップを留めなおす手間はありますが。

チョークボールをストッキングで作るという話は何度か目にしましたが、バッグそのものの自作はあまり見なかったので、自分で考えて作ってみました。
DIYイデアの肝は、針金とクリップでしょうか。


チョークバッグ高いなあと思われたことのある方、自作を一度お試し下さい。
ちなみにチョークはこの間DIY的発想で大失敗しましたので、同じ過ちが生じぬ意図で付記しておきます*2

*1:写真の市販バッグは片手がぎりぎり入るサイズで、登りながらチョークをつけられるように腰紐がついているタイプ。三千円ちょっとします。室内ジム用の両手がすっぽり入るタイプはもっと高価。今回作ったのは中間サイズですが、要は欲しい大きさの巾着袋を入手すればよい。

*2:「家にある粉で…」と思って、小麦粉を使ってみましたが、恐ろしいほどツルツルになってしまいました(ジムの人には秘密)。卵の殻が原料のものがあるようですが、それを自分で作るには加工機械が必要でしょう。すり鉢くらいじゃ歯が立たないし。

Physics Research with Quantum Purple 2/n

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──初期のコンセプトとして、「身体と脳を仲良くさせる」というのがあったんです。養老孟司先生がいうように現代は脳化社会ですから、仕事をしていても、街に出ても家にいても、使うのは脳ばっかりですよね。身体は補助的な役割しかなくて、脳の制御を外れて、つまり何も考えずに無心に身体を動かすなんて機会は、子どもですら滅多になくなっている。「子どもは自然だ」というのも養老先生の言葉なんですけど、その本来性が生まれ落ちて直ちに封印されてしまう社会システムになっている。それはさておき、社会がどうなろうが、人間はどこまで行っても身体であって、つまり自然です。脳の活動があって、他人がそこに意識を見いだせれば、身体がなくてもそれは人間だ、たとえば脳だけ別の場所に設置して身体は遠隔操作で動かすことができて、人がその操作対象を人間と信じて疑わないという状況は実現可能だと、これは石黒浩教授の近著にあって、販促上反則的なタイトルのなんですけどそれはよくて、森博嗣ミステリィに実際こんなSFがあるんですよね。アンドロイド、これ小説内ではウォーカロン、自律歩行型つまりWalk Aloneって呼ばれてるんですけど、ウォーカロンを引き連れた主人公が拳銃で目を撃ち抜かれて、万事休す、と思いきや彼とウォーカロンとの電信会話は続いていて、というのも主人公の脳がウォーカロンの胴体に埋め込まれていて、彼の身体はウォーカロンによって無線でコントロールされていたからなんです。僕これ学生時代に一度読んでたんですけど、最近再読した時にこの部分覚えてなくて、「斬新だなあ」って思ったんですよ。いやあ、忘れるって幸せなことですよね。ん? なんの話でしたっけ。……そう、いつか身体を必要としない人間が誕生したり、それが当たり前になったりすることも技術的には可能で、でもそうは言っても今の僕らには身体がありますから、それに脳もその身体の一部としてあるわけですから、自分の身体を無視するわけにはいかない。脳は身体を無視してぐるぐると思考しているように見えますが、じつは意識の外で身体の影響を受けている。その事実は知っていて、でも知らないふりをしようとしてしまうのが脳なんですね。で、知らないふり、精神分析的には抑圧といいますけど、これは何事につけてもあまりよくないことで、意識下の対象を抑圧すると、抑圧した時とは別の形で、すぐ先のことか遠い未来かは分からないが、仕返しにやってくる。「別の形」がどんな形かは分からない。その対象が意識の外で活動していたものであればなおさら、戻ってくる「別の形」は想像を絶するものになる。怖い話です。そもそもそういう余計なことを考えるから不安になるのであって、最初に無視したんだからそのまま無視しつづければいいじゃないか、という意見もあって、それももっともで、というか社会的にはそれが常識になっていますが、うん、まあズバッと端折れば、僕はそれはよくないと思っています。話を……だいぶ逸れたところを戻せば、脳化社会で身体を活性化、これ僕は「賦活」と言うのが好きなんですが、まあ身体を賦活するためには、それなりの工夫がいるのです。こういうことを真面目に考えるようになったのは、内田樹先生の著書に出会ってからのことで、最初に読んだ教育関係のでいろいろ衝撃を受けたのを未だに覚えていますが、内田先生は合気道をやっておられて、武術研究家の甲野善紀先生とか、介護に古武術を活かす試みをされている岡田慎一郎さんとか、身体に深く関わる仕事をされている方々の本も、内田先生の著書を通じて読むようになりました。僕は今言った方々の本を読んで武道に興味を持って、いつかどこかで実際に始められればなあとずっと思っていて、そうは言いながら、前にいた会社に合気道サークルがあって、直属の上司もやっていて誘われもしたのに結局やらなくて、その時は「必ずしも世間で活動している武道のすべてが身体性の賦活を目的としたものではない」という言い訳を持っていたと思いますが、それは一理あって、確かに甲野先生の剣道観が剣道界では異端だったり、ラグビーやバスケットで武道的な動きが実戦的に活かせることを実地に示しても拒否感をもつスポーツ選手が一定数いる、という話を読んだりもしていたのです。ここでいう武道的な身体運用というのは、身体各部の筋肉をつけて体を鍛えて局所的な出力を増強するのではなくて、鰯の群れの方向転換で喩えられるように全身を協調させる動きを目指すもので、甲野先生の思想が受け入れられないのはスポーツ界の常識が前者で長年やってきたからだと書かれていました。そういった、僕が興味深く読んできた身体に関わる本の記述内容が、どちらかといえば世間的には異端であるという認識が、僕の身の回りにあった自分がやりたがっていたはずの活動への参加に二の足を踏ませていたように思います。今話していて、ボルダリングを始めた時に「武道的な思想をボルダリングに活かしてみよう」と思ったのも同じ理由が絡んでいたのかもしれません。つまり、単純に興味があったからやってみた、応用を検討してみたというだけでなく、スポーツと呼ばれている活動を自分がやりたいように取り組むには、どこかしら異端的な発想を持ち込まねばならないのではないか、と。
──ホンマに長いですね。実はまだ、本題に入ってないんと違います?
──えーと、どうなんでしょう。
──わからんのかいな(怒)

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