human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

Hello to "Blue-Box Parallel World" !

 
セネットの『クラフツマン』も、もう長い間読んでいますが、
海士町に来てからは毎週末の朝食後に読む習慣になってさらに遅読化し、
ようやくそれも最終盤になってきて、読了を惜しむ気持ちが出てきました。

ひょんな偶然(というか偶然の偶然)ですが、
この本が手元に二冊あるというのは大変ありがたく、
一冊は売りに出す前提でいても、気兼ねなく書き込めるもう一冊、
線を引かないページはないくらい書き込めたお陰で発想も伸びやかに、
今日なぞ連想が活発に働いて、時折目を閉じながらちびち読み進めて、
10ページも進まぬうちに二時間が経っているという有様で、
そんな時間の使い方に全く後悔を催させないのは、連想の濃密さ。
 
 × × ×
 
ブラックボックス社会」というのも、常に念頭にあるテーマの一つです。

分業・組織化・自動化・システム化が複雑になるほど、
個人が生活の中で頭を使う必要性が減っていき、
原理・メカニズム・由来・経過を知らぬまま便利さに身を預ける。

そうした無思考の奨励をセネットは
「問題化する思考を消失させるブラックホールと呼んでいますが、
ブラックホールは意識下で発生し、網膜をバーチャルに覆う色眼鏡と化し、
そうして身の回りの物事がブラックボックスとして把握され、
それを気にしなくなる、と同時にその視覚をポジティブに「効率化」と捉える。

世の変化を待つだけで手を拱いていれば、
情報の海に、またそれに流される人々に流されて、
好むと好まざるとに関わらず勝手に生じるかに思えるブラックホールに呑まれる。
周りがみんなそうだから、自分もそれでいい、という人間はまあ、仕方ない。

一方で、
ブラックホールは危険だな、
ブラックボックスは気味が悪いな、
と思う人間は自分でなんとかするしかない。

そんな後者なあなたに「うってつけ」の鎖書、
のタイトルをさっき思いついた、のがこの記事のタイトルです。
ただ、三冊のうち一冊がかなり使用劣化しているので、ちょっと考えものですが。
修理なりクリーニングなり、あと踏ん切りがつけばショップに載せます。
 
 × × ×
 
この記事で考えてみたかったのは、そのタイトルの解題です。
『クラフツマン』を読む目を止めて脳内でイメージ化していたのを、
言葉に移し替えると、どうなるか。


まず、「ブラックボックス」の対となるものを考えました。

黒の反対は白なのですが、
ホワイトボックスと呼べば、透明、スケルトン、内部構造まるみえ、
のようなイメージかと僕は思いました。

うーん、そういうことではないんですね。

カニズムの理解という志向自体は「ブラックボックス化」への対抗となりますが、
その内実を「一望俯瞰」といったキーワードで捉えてしまうと、
実は、同じ穴のムジナというか、ゾンビ狩りがゾンビ(だっけ?)になってしまう。
 
システム(化された道具)を、メカニズムを把握せずに機能だけ利用する、
というブラックボックスの効率的利用は、
プロセスの圧縮、結果の対価を得る手間の「無時間化」がキモです。
一望俯瞰によるメカニズム理解も、この「無時間化」に価値をおく姿勢が共通します。

程度問題はあるにしても、本来、システムが複雑であるほど理解に時間はかかるはずで、
その理解に対する価値を経過の圧縮度で測ることになれば、行き着く先、
理解の内容は単純化され、納得は自己満足しかもたらさなくなる。

SE会社が寄ってたかって管理システムを組み上げる様を想像すればいいのですが、
世の中を回すシステムが、一人の人間がその全貌を理解するのに膨大になり過ぎた以上、
そのシステムの透明化による理解が身の丈を超えるものになるのは必然です

ここで急に「身の丈」が出てきましたが、
身体感覚による理解・把握と有時間化(物理時間でない時間感覚の賦活)はリンクします。
 
さて、話を戻しまして、
とりあえずは黒の反対を、
白ではないが、色でイメージするとして、
まあ感覚的にいろいろと(頭の中で)挙げてみたのですが、

とりあえず、「青」がいちばんしっくりきました。
ブラックボックス(暗箱)に対する、ブルーボックス(青箱)。

そして、この青色のイメージを元手に、
ブラックボックス社会に対抗する「なにか」を想像してみました。

内田樹は著書でよく「思考の肺活量」という表現を使います。
また高橋源一郎が、最近どこかで読んだ本で、うろ覚えですが、
同じ姿勢を「深海(海の底)をゆっくりと歩く力」という言い方をしていました。

まず、青色のイメージが、これらとリンクしました。


青箱は、白箱と違って、
システムのメカニズムが露わになっていたり、
わかりやすく提示されていたりはしない。

暗箱は、その表面がどす黒く、またはつるりと黒光りしていて、
外光をすべて吸収し、またはすべて跳ね返すがゆえ、中は全く見えない。
白箱は、システムの外枠によって「箱」として捉えられると同時に、
光をすべて通すがゆえ、中身が一望できる、ギアやシャフトの一つひとつ動く様が見える。

青箱は、暗箱とも白箱とも違う。
違うのは、箱の外から眺めるだけではない点。
暗箱も白箱も、箱そのものが機能をもち、何かの目的に利用される、その目的が主である。
対する青箱も、機能をもち、目的をもつかもしれない、
ただ決定的に異なるのは、青箱は「箱の中に入るためにある」こと。
それは、青箱というモノの存在理由というよりは、モノを青箱「として見る」ことの理由。

つまり、ある一つの道具は、ある一つのシステムは、
イリイチは『コンヴィヴィアリティのための道具』で、社会制度も「ツール」と呼んでいた)
暗箱でも、白箱でも、青箱でもありうる、ということ。

言い方を変えよう。
青箱は、それを持つ人に、「中に入って身を浸すこと」を推奨(afford to)している。
動かなくなった時計を目前に、子どもがそれを分解する衝動に駆られるように。
 
外から眺めると、青箱の中は、揺らいで見える。
仕組みの構成要素が各々一面を見せるが、中は外と空気が違うのか、揺蕩っている。
もっとよく知るためには、中に入らねば、潜らねばならない。

しかし、入る前から「潜る」と分かっているように、
その中では、外とは違う「なにか」が要求される予感がある。

知識、は間接的なものだろう。
要求されるのは姿勢、その中心は、比喩になってしまうが「肺活量」
つまり青箱の中は「水」で満たされている、だから外からは青く見える。


さて、上で提示した3つの「箱」は、どれも「ものの見方」であるような言い方をした。
そして、青箱は、暗箱や白箱とは「ものの見方」、「ものの触れ方」が違うと言った。

この「箱」のメタファーを、世界観としてとらえた時、
パラレルワールドという新たなキーワードが生まれる。

何を大袈裟な、と思われるかもしれないが、この考え方は現実的である。
 
文明の利器の効率的利用、
最小の労力で最大の利益、
欲望と結果の無時間的結合志向、
これらが、個人はさておき、
「統計的個人の集合」としての社会の原動力であるとすれば、

統計的個人の(スマホに映る像も含む)身の回りに溢れる品々という「箱」の色は、
端的には黒であり、一捻りして白であり、白は黒の「補完色」としての白であり、
そうして暗箱と白箱で埋め尽くされた世界が現代社会の「メインの世界」だとすれば、

自分の生活に寄り添う一つひとつの「箱」を青いと宣い、
時間をかけてその一つひとつに潜ろうとする者の世界は、
同じモノに囲まれている意味で統計的個人と同じく「メインの世界」に在りながら、
「深海の思考」に価値を見出す身体は「もう一つの世界」に所属してもいる。

両者がものの見方によって、
その在り方、その姿勢ひとつで入れ替わるとすれば、
2つの世界はパラレルな関係にあるといえる。

 × × ×

水のメタファーは、なんとなく居心地がよいです。
僕は泳げないので、メタファーである限りにおいて、ですが。
 
 × × ×
 
ちなみに、冒頭の鎖書の三冊の著者は、ダニエル・セネットのほかは、
ナシーム・ニコラス・タレブ、それからアイン・ランドです。

Ulvesang - Ulvesang (Full Album) - YouTube

↑本記事を書いているあいだ、ずっと聞いていました。
たまたま出会ったんですが、筆が進んでよかった。
相性が。
 

3tana.stores.jp

近世→近代→現代(今)→現世(未来)

 
オフィスの鎖書在庫棚が何度目かであふれてきたので、
棚の増設ではなく古い在庫を段ボールにしまうという作業を先日始めました。

そのうち、「出品したけど読み直したい本」が一つあるのを見つけて、
というのは棚にはその本のかわりに同サイズの木材を立てていたから気付いたのでした。

その一冊とは『小林秀雄の恵み』(橋本治)で、
読み直すために家に置いていたことを忘れたいたのをこの作業中に思い出した次第で、
早速(読まないとセットを仕舞えないので)読み始めました。

記録によれば初読は10年前の2011年3月ですが、
それから今までの間に何度か頁を開いたような気もします。


さて、読み出せば引き込まれることは(何せ再読だから)わかっていて、
橋本治のことだから読み出せば連想が多々働いて頁を繰る手も止まるとわかっていて、
だからこそ二度目の今回は速読を心がけて読み始めたのですが、
(もともと書き込んであるので、追加の書き込みは商品であれ辞すまいという意識はあったにせよ、)
かつて自分が線を引いた箇所を「なるほど」と思ったり「そうなの?」と思ったり、
しつつも読み飛ばしていたのが、次第に追加の線引きが増えてきて、
話が佳境に(といってまだ2/3過ぎですが)入ったところで、
リアルタイムな出来事との連想が色々繋がってしまい、
腰も痛いので(え?)「これは書かねばなるまい」と思いました。

 × × ×

昨日はいつも行っているジム(僕の知る他のどのジムより独自に本棚が充実している)で、
はじめてその本棚の本を少しのあいだ読むことがありました。
降らないと思っていたのに帰り間際、にわか雨がしばらく降ったからです。

内田樹(『憲法の空語を満たすために』)、高村薫(『土の記』)など、
僕自身なかなか親和性の高い種類の本がいくつもある中で、
たしか『あわいの力』は読んだことのある、安田登の本を手に取りました。
「珈琲と本」というテーマだったかのセレクションの一冊で、『イナンナの冥界下り』。

短時間だったのでシュメール語の世界最古(だったかな)のその物語の、
現代語訳を読んだところで本棚になおして昨日は家に帰ったのですが、
記憶に残ったのはその物語ではなくまえがき(か帯文?)の中にあった、
「心の時代」の”次の時代”を探る、といった感じの文言でした。

人間は(シュメールの時代に)心を発見したことで同時に不安も発見してしまった。
心の発見は人間をより豊かにするものでありながら、
不安の増幅は、かつての人間にはなかった負の作用をもたらすものであった。
人の「意識の歴史」は、そのバランスをとろうとぐらぐら揺れ進む時間であったが、
現代は不安の負の作用が極端に増大した時代となってしまった。
そのバランスを取り戻すためには、「心」に代わる新しい「なにか」の探求が必要だ。

まえがきの一節は、たしかそのような内容だった、はず(昨日のことなのにこの曖昧さ)。


所変わって、橋本治の『小林秀雄の恵み』です。
この本は僕にとっては凄すぎて、
今再読すると、かつて自分に大きな影響を与えたであろう箇所が多々あって、
その一つひとつを掘り下げるだけで各々膨大な労力を要するだろう、
ゆえにこの一冊の総括というか全体的な評価なぞできるはずもない、
と読みながら思っていたのでしばらくは何も書くまいと心に固めていたんですが、
つながりが一挙にいくつか生まれて、
それをその瞬間の快感に留めておくことに飽き足らず、
というのは「そのいくつか」を具体的に言葉にしていく作業が、
新たに何かを生むだろうという確信がそばにあったからこそ、
こうして書き始めることになったんですが、
その意志がさっきこれを書く前に、
ブラウザを立ち上げた段階(の表示エラーを解決するという横道作業)で若干挫けました。
しかし、ええ、挫けませんとも。

というわけで、本題。

 × × ×

 近世という時代は、「神という非合理」などとは言わない。それを言ってしまえば、もう近代である。近世という時代は、非合理かもしれない神を一方に存在させて、その残りを合理性で仕切るという時代なのだ。神という非合理の支配下にあれば中世だが、近世という時代は、かつて支配的だった神をそのままの位置に安置し、距離を置いて隔離する──だから、支配はされないのである。それが近世で、だからこそ近世を登場させるルネサンスの中に、ちゃんと神はいる。神という非合理と、合理性を求める人とが調和的であるのは、神と人とが距離を保ちえた近世の特徴なのである。一方には神という非合理があり、しかし人の思考は、それとは裏腹に、いたって合理的なのである。
(…)
「神という根本的な問題を棚上げにしたまま、平気で現実的であり合理的である」というのは、別に日本にだけ特殊なあり方ではなくて、それは当たり前の「近世的あり方」なのである。だからそれは、現在の世界中に当たり前にある。

「第八章 日本人の神」 p.289
太字部は引用者による

この一節だけで、世界史の意義というか、世界史とは何かがストンと腑に落ちる。
というぐらいの衝撃を僕は感じるのですが、それは別の話なのでさておき。

上の引用の先からさらに引きます。

 近世というのは、そういう時代なのである。だから、「本居宣長にとって神とはいかなるものか?」という問いには、意味がない──本居宣長が『古事記』という神が実在する世界を扱っているにもかかわらず、この問いには意味がない。そう考えれば話は明快になって、『本居宣長』の後半だってもっと整理されるし、小林秀雄だって、実はその手前にまで行っているのである。しかし近代人には、そういう放擲が出来ない
(…)
存在していて関係ない神を放擲してしまうのは、簡単なことなのである。ある意味で、驚嘆すべき時代である。人はそのように、大問題から自由であった──ということになると、「なんで日本の近世にはそんな時代が実現してしまったのか?」ということになる。かつて人は、宗教に束縛されていたにもかかわらず。

同上 p.290
斜字は引用元の傍点部

この『小林秀雄の恵み』という本は、
本居宣長を自分(=小林秀雄)に引きつけて探求した『本居宣長』という本を書いた小林秀雄を、
自分(=橋本治)に徹底的に引きつけながら同時に突き放して探求した橋本治の著書です。

「徹底的に引きつけながら同時に突き放して」の探求を、かつ自信満々に行えること、
小林秀雄という「じいちゃん」から様々な「恵み」を得ながら、
同時にある場所ではきっぱりと否定(無論、本居宣長もその対象に入る)すること、
そんな大それたことができるのは「自分の身体は頭がいい」と確信している彼ならではのこと。

ですが、それもさておき、
引用部を読んでいて、僕はつい最近読み込んだマリオンの『存在なき神』を連想しました。


「存在していて関係ない神」、ではなくてマリオンにとって神は「存在しない神」で、
つまり彼からすれば、存在はしていないが自分には大いに関係している神、のはずで、
それはどうあれ、マリオンも近代人であり、「神を放擲してしまう」ことができない。
神に関することを、人生の、あるいは人類にとっての大問題だと捉えずにはいられない。

だからこそ『存在なき神」のような難解な論理を延々と展開する必然が彼の中にあるのですが、
この本を読んでいるあいだ、僕は別の場所で鈴木大拙の『無心ということ』も併読していて、
そのあいだに、
 マリオン(西洋の宗教者)と大拙(東洋の宗教者)の目指すところは一緒なのではないか、
 それを論理で示すのは難しくとも、実践のうえで何がしかの共通項を見出すことは可能だろう、
 というのは大拙が『無心ということ』で言ってることなんだけどね、
といったことを考えていました。

 (異国語から母語への)翻訳というのは難しくて、その完全性なるものは不可能で、
 でもそれは異文化理解が不可能であることと必ずしも直結するわけではなく、
 「実践のレベルでは異文化理解があり得る」という可能性を、
 翻訳作業そのものにこだわると見えなくなる。

という話はまた脇道ですが、
無心にせよ宗教心にせよ、個人が内で体得する難しさは、
それを複数の他者に理解(追体験)させるための表現の難しさと比べると、
どちらも大概だろうけれどその質は異なるとおもいます。

 大拙の『無心ということ』は講演録なので文章は口頭調で、
 頭で理解というよりは身体とか体感、体験に訴えるもので分かりやすいのですが、
 それでも言葉でもって「言葉の外」を伝えようとするのだから当然わかりにくい。
 「それを難解と断ずるは有心の証左」などと言われると、ほなどないすんねん、
 と放り出したくもなるというものです。

 論理を放擲できない者は、無心を放擲せざるを得ない。

 そも、元あった無心が放擲されたのは、人が意識という論理を得たからである。
 自分(という意識)が生まれたその最初から何かを得てしまった人というものは、
 「何かを放擲せずにはいられない生き物」という点で動物と分かたれる。

 大拙によれば、論理を放擲して無心(無分別)を得たあとに、
 そのまま分別の世界に戻って来なければ木石や動物と変わらぬのであって、
 分別→無分別→分別という経過ののち、俗世における無心の境地に相成る。

 従って、悟りの境地とは、論理の放擲に続き、無分別も放擲せねばならぬ。
 そうして、「全て見ながら何も見ず」、「全て聞きながら何も聞かない」、
 などと表される無心の挙措においては、絶えず放擲が成されており、
 決してこれは岩上に瞑想する行者が如く静的なプロセスではあり得ない。

  一竹葉、堦を掃いて塵動かず、
  月、潭底を穿ちて水に痕なし。

などと、また思いつくまま書いたのも脇道ですが、
今ちょっと調べると、「一竹葉」は「一竹影」なのですね。
『無心ということ』の表記は前者なんですが、意味としては後者で通る。
講演録の書き取り違いかもしれませんが、まあそうは考えないでおきます。

 竹の葉の影が、地面に在る事物を薙ぎ払うようでありながら、
 実際はその場の塵一つとして微動だにしない。
 それは驚きでもあるし、認識の混濁でもありますが、
 その驚き、あるいは混乱とはなにかといえば、
 「影」は「竹の葉」ではないということ、ではないからです。

…すみません、思いつきが面白くて本題に戻れませんが、
『無心ということ』はここ最近に読んで、
そこから連続しての(付箋箇所の)再読もしているので、
いちど思いつくと書きたくなることが溜まっているようです。


鈴木大拙とJ・L・マリオンの話をしていたところでした。
…違うな、橋本治とマリオンですね。
まだ本記事のタイトルの話までたどり着いていませんので、続きます。


二つ目の引用の要点を並べます。

「存在していて関係ない神を放擲してしまう」
「ある意味で驚嘆すべき時代である」
「なんで日本の近代にはそのような時代が実現してしまったのか?」

小林秀雄の恵み』の、この引用の先に、その理由が書いてあるのかもしれませんが、
(その先に書いてあることを今の僕は全く覚えていません)それはさておきます。

もしかすると、その実現の理由につながるかもしれませんが、そうでなくとも、
そのような近世という時代がいかなるものであったか、
渡辺京二の『逝きし世の面影』はそれを知る格好の書だと思いますが、
それもさておき、

「それ」を知ることは、単なる知識として得るだけでなく、
(ようやく安田登氏の『イナンナの冥界下り』のまえがきに戻ります)
「"心の時代"のその次の時代」を構想するために重要な手続きとなるだろう、

というのが、
小林秀雄の恵み』の再読中に何かを書きたくなってしまった思いつき、
つまり本記事を書くことになった動機(を文章にしてみたもの)です。


話を順にして文章に展開していって、へえというか「ふーん」という感じなんですが、
この記事を書く前にキーワードとして思いついていたのが、タイトルです。

「近世→近代→現代(今)→現世(未来)」

現世(未来)と書いたのは、詳しくは「現世(あるべき未来)」です。
誰が「あるべき」と思うかといえば、もちろん、僕がです。

小林秀雄の恵み』からの一つ目の引用を、下に一部再掲します。

近世という時代は、非合理かもしれない神を一方に存在させて、その残りを合理性で仕切るという時代なのだ。神という非合理の支配下にあれば中世だが、近世という時代は、かつて支配的だった神をそのままの位置に安置し、距離を置いて隔離する──だから、支配はされないのである。(…)神という非合理と、合理性を求める人とが調和的であるのは、神と人とが距離を保ちえた近世の特徴なのである。一方には神という非合理があり、しかし人の思考は、それとは裏腹に、いたって合理的なのである。

僕が考えているのは、懐古的なものではありません。
アーミッシュ的な暮らしが、現代社会において都市や街の規模で、
(あるいはそれが可能な規模でコミュニティごとに分散して、)
実現できればそれに越したことはありませんが、まあまず無理です。

ただ、過去のある時期の生活を歴史から参照することに意味があるとすれば、
それは「思想として」、その過去を現代に活かす、あるいは蘇らせることです。


ちょうど今読んでいる…違うな、
だいぶ前に鎖書として組んだセットをいくつか最近見直した中の一冊である、
『臨床とことば』(河合隼雄鷲田清一)にあったんですが、
河合隼雄氏が心理療法で患者を治療する姿勢についての表現で(目次にもある)、
「便宜的合理性に賭ける」というものがありましたが、
たとえば、まさにこれです。

 河合隼雄は、治療者として患者に対して受け身になります。

 (まずは)余計な口を挟まず、相手の言うことを聴くに徹する。
 誇大妄想に苦しむ患者の話にも、その人自身が基準の合理性がある。
 また、その合理性には、論理の辻褄とはまた別の、切迫度も存在する。
 治療者が患者に相槌を打つか、やんわり翻意を促すか、無下に否定するか、
 その選択の判断基準は合理性の度合いではなく切迫度であり、
 それは治療者が患者と膝突き合わせて相対せずには計れないものである。
 治療者は、とにかく患者には治ってほしい。
 どうして治ったか、どのような経過をたどって治療できたか、
 そんなことは二の次どころか、現の治療の中ではどうでもよい。
 が、それは合理性を軽視する、疑うのも、無視するのも違う。
 患者の治療に徹するためのツール(機能)としての合理性、
 それが「便宜的合理性」であり、
 患者が同じくそうであるように、
 治療者はその便宜的合理性に己の身を賭す。
 「身を賭す」ことの意味の一つは、
 患者に寄り添い過ぎると、治療者も同じ状況に堕ちることである。
 それは、治療する時間に限らず、治療者の生活全体に影響を及ぼす。

 あるいは、患者が治療した後のことを考える。
 治療が終わるとは、患者が自分の意思で通院を止めることである。
 まず、その治療の終わりまでに要した時間に、意味はない。
 三日で鬱が治ったと自己判断した患者が、
 その後何年もの間、自覚を欠いた鬱症状に悩まされることもある。
 また、治療が終わっても、かさぶたが取れて元通り、とは限らない。
 鬱に悩んだ学生が、その治療の過程で、将来の進路を変えたとする。
 治療によって手にした別の未来が、その学生にとって良かったかどうか。
 自分の意志を不屈に貫けるようになって、戦いと挫折の続く人生と、
 鬱を抱えたまま、消極的ながら小さな平和を守り続ける人生と、 
 どちらが彼にとって幸福な人生であったか。
 そんなことは彼にも分からないし、もちろん治療者にも分からない。

 つまり、便宜的合理性に賭けた治療そのものが便宜的ということです*1

合理性の機能とは、そもそもが便宜です。
合理の便宜性は便宜にある、といってもいい。
便宜を放擲しての合理性の追求は、悪しき手段の目的化なのです。
思い切って飛躍すれば、「心の時代」における不安の蔓延はその結果ともいえる。


神は、神的なものは、
決して人間の手に届かない対象としての神は、
必要である。
とマリオンは『存在なき神』に書いていました。

神は非合理である。
たしかに。
しかし「神は非合理である」と言うのは、合理性であり、近代的知性である。
無論、現代的知性も同じ。

心の時代の「次」は、これを超えなければならない。
それは同時に、思想的な意味で、近世を呼び醒ますものでもある。

だから、(単に字面の上でということですが、)
「現代」の次に来るべきは「現世」である、
というのが、タイトルの意味です。


この「現世」は、あるいは神のようなものでもある。
何せ、決して届かないもの、決して到達しない時代だからです。

けれど、それを目指すことが無意味ということにはならない。
それを無意味と言うのは、
近世を生きた人々の人生がことごとく無意味であったと言うようなものです。
というか、
それを「無意味であった」と断じて疑わないのが、現代の合理性なのです。
しかも、(論理的に辿れば真なのに、それに目を向けないことで)自覚なく。


これはいつも書いている話ですが、
現代人がその合理性を乗り越えるためには、
合理性から距離をおいて無関心でいるのは間違いで、
その合理性に一度、徹底的に全身を浸さねばなりません。

「西洋人には武士道はわからない」と豪語する現代の日本人が、
それをよく学べるのはオイゲン・ヘリゲル(『弓と禅』)からである。
このことはもう何世代も前から認識されていたことですが、
たとえば、そのようなことです。


一言で抽象化すればそれは「自己言及を掘り下げる」ことで、
だとすると、あるいは、
ニコラス・ルーマンも「現世」へ向かうキーマンの一人かもしれませんが、
現代人が得意とするのは、
その真逆の機能を発揮するものとしての「自己参照」ですね。


自己言及、自省、自覚、といったものは、
個人では行えるが集団としてまとまりを持って遂行するのは難しい、
とは自分が本を読むようになってだんだんと気付いてきたことですが、
それと、
かの「自己参照」つまりは、
個人や部族内の自画自賛と外部への無関心(感受性の低下)の相乗、
といったものが個人に留まらず集団(集団内、集団間)に感染しやすいこととは、

不幸の内実には多様性があるが幸福のそれは単調にして凡庸である、

という観察と対照を成すのではないか、
と今ふと思いつきました。


「幸福」も「不幸」も観察的定義であって、
「自分が幸福か不幸かを問わないでいられる状況を幸福と呼ぶ」
という自己言及的定義を真とするなら、
まあそうなのでしょう。

 × × ×

*1:話が逸れ続けるのもアレかと思ったので、註で逸脱を続けますが、ブリコラジール=サンタナ鎖書店をかれこれ二年くらい続けてみて、それは鎖書という三冊セット本を作り続ける(そしてごくたまに売れる)ということなんですが、ちょうど一年経ったくらいから河合隼雄の本をよく読み込むようになって思ったことは、鎖書という本の形態が有する機能は心理療法に通ずるところが多い、ということです。目の前にあるもの(患者、またはセット本)の独自の文脈を見つける・信じる・価値を与える、ということが一つと、今書いてきて気付いた二つ目が、この一つ目とも関連しますが、「便宜的合理性に賭けること」です。鎖書の便宜的合理性における「便宜」とは、本の世界をより豊かにすること、です。いろんな種類の本があるし、本の読み方にはいろいろある。ここには本の数だけ、また人の数だけの多様性がある。でも、それだけじゃない。読書は、一冊の本と一人の読者の、膝突き合わせた対話である。が、その「一冊」は(直接的には内容の言及や引用などによって)また別のいくつかの本と繋がっている。そして、その繋がりには、その一冊が内容として含んでいる直接的なリンクのほかに、「間接的なリンク」というのものがある。その「間接リンク」には、その一冊を読むだけでは到達できない。その一冊の横に、別の(二冊の)本が並んでおり、その一冊とその別の本とが何らかの関連をもつという「便宜的合理性」がそこに存在することによって、その「間接リンク」は活性化される。「本の世界」という言葉から想像されるのは、一冊の本が描きうる領域世界、あるいは読者がその一冊の本を読んで描きうる領域世界です。が、鎖書という便宜的合理性は、「本の世界」を、それが一冊であれば酸素原子(において原子核の周囲を漂う電子)の領域だったものを、水分子(同前)の領域へと拡張する機能を持ちます。比喩的にいえば、これが「本の世界をより豊かにすること」です。では、鎖書の意味とは何か? それに対する答えは、「意味などない」、あるいは「便宜がそれに答える」です。何の広告文にもならない答え。これが、比喩ですが、「非消費者的読書」の性質の一つといえます。

ゆくとしくるとし '20→'21 3 「図書館をつくろう」

 
正月は毎年テレビばかり見ていて、目が痛いです。
ただ普段全く見ないので発見はいろいろあります。

NHKの「100分de名著」だったか、
萩尾望都の特集を見ました。
銀の三角』と『11人いる!』は何度も読んでいて、
でも『ポーの一族』はちらりと読んでよくわからないまま放り出していました。
番組を見て、『バルバラ異界』を読んでみたくなりました。
(シュールコメディだという『イグアナの娘』は「イパネマの娘」のシャレですね)
その出演者の対談とインタビューで、著作者の肉声などを初めて知りました。
斎藤環夢枕獏は顔も初めて見ました。
斎藤氏は中沢新一に似てるな…と「誰に似てるか」という発想しか浮かびませんが。
ヤマザキマリは写真でしか知らなかったんですが、予想外に声がハスキーですね。

 × × ×

書き始めたところで「相棒」の再放送が始まりました。
昨日から全部見てるんで、これも見ちゃいます。

15:37

 × × ×

「天気の子」見ました。
青春ですね。

去年一年はどうだったか?
それは、しようと思えば一文で表現できます。

 ひたすら登り、ひたすら読む。

それだけ。

 × × ×

来年の抱負を言う前に、少し言い訳。

今年の暮れに、登っていて強傾斜で背中から落下して首を痛めました。
油断が3つくらい重なった末の事故で、同じ過ちはもう繰り返しません。
一本歯遍路でさんざん身に染みていたことだったんですが、

 身体性をフル稼働させるには考え事をしてはいけない。

それだけ。


一週間で治るかと思って医者にもかからなかったんですが、
二週間でなんとなく緩和したと思って登りに行ったら、
それから回復が止まり、なんとなく倦怠感が出るようになりました。

もっと軽い打ち身くらいに思っていたんですが、
頭を打った時の衝撃を正直に思い返すと、むち打ちだったようです。
過去に家族が交通事故で同じ症状によって身体不自由になったので、
そこから目を背けていたんですが、たぶんそれもここまで。

症状と治療法を調べて、
一度整形外科に行って診断してもらいつつ、
効くらしい漢方(桂枝茯苓丸)もあるので試してみます。
治さないと、次が始まらない。


今回の事故で身に染みたんですが、
身体主軸で生活をしていると、
その身体が不調を来すとその生活がガタガタになります。
身体の周波数に思考を同調させていると、
身体の波の乱調によって思考も不安定になる。

だからこれは代償でもある。
細かい事情に振り回されずに充実感が得られる状態があるのだとすれば、
その状態は前提が崩れれば、細かい事情では覆せない常時の低調に陥る。
脳化社会ではリスキーな(リスクヘッジの効かない)姿勢かもしれない。

まずは治す、まずはそこから。

 × × ×

上記の通りで、今は登りたいという気が全然起きない。
登らない期間が延びればそれだけ指も身体も弱くなりますが、それは仕方がない。
治ればまた以前のように「登らずにはいられない感覚」が戻ってくるかも分からない。
そんな状態で考えることではないかもしれませんが…

夢があります。

「実現にはほど遠い希望」という意味ではありません。

「やりたいことをやる」というよりは、
「やりたくないことをやらない」を重視し、
また、内容(結果)よりも状態(過程)を重視するという、
自分の生活思想に合致する生計を立てる方法、
その第一候補、という意味です。

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「私設図書館つきのボルダリングジム経営」、
店名は「晴登雨読」
略称BBCBouldering, Book and Coffee)。
以下はそのおおまかな方針。

図書館については、
ジムと共通の会員カード作成料を除けば無料で利用できます。
貸出資料は一人最大3冊、貸出期間は最大4週間で延長なし。
読書相談や選書など、本に関する相談はなんでもOK。
ただし読書感想文の代筆はしません(図書の推薦ならします)。
閲覧エリアは飲食持ち込み可、店内注文はコーヒーのみ。
コーヒーはブラックと週替わりのスパイスフレーバー数種。
(人を雇う余裕と需要如何によってこの点、充実の可能性あり)

ジムエリアについては、
初~中級者向けのレベルを中心とした課題(自分一人でセットするなら)。
「武道的ボルダリング」の実践となるような、全身・体幹系、バランス系を重視。
ラインセットではなく、長物を含めた課題数とバリエーションを優先させたセット。
そしてトレーニングをせずに、普段から登るだけで上のレベルを目指せる課題。
そしてそして、普段登っていれば、普段の生活の身体作法が変わっていく課題。

内装は建屋によりますが、
入り口近くor/and吹き抜けの2階に書架と閲覧&飲食テーブルを置いて、
ジムエリアの壁はスラブ(←必須!)も含めてひとつながりが理想です。

いちばん重要なのは立地で、
もちろん当てはまったくありませんが、
おおざっぱに言うとジムが乱立する都心部以外のどこか。
需要さえあれば、人の少ない地方であるほど個人的にはありがたい。
また読書や本に理解のある自治体だと、地域となにか協力ができるかもしれません。

イチから、たとえば土地の購入から始められるほど資金はないので、
元工場だとか、既存の建物を改装して利用するのが現実的だとは思います。
なんとなく、いやこれは非現実な妄想ですが、
瓦屋根に漆喰、そして線香の香りが漂う寺社ライクな建物が好みだったりします。
書架の本の活用方法次第ですが、寺子屋的な活動ができればやってみたい。

BBCのテーマも大切なことで、
本とクライミング有機的にリンクすることをちゃんと言葉にしておきたいんですが、
これはまた時を改めることにします。

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

じっさいのところ、僕のボルダリングの実力としては、
中級と上級のあいだ(の中級に近い方)くらいで、
大阪のジムのレベルでいえば3級がちょうどよいくらい。
なので、たとえばスラブや垂壁なら1級課題は作れてもそれ以外では無理。
そして指が強くないのでその課題の傾向もずいぶん偏ったものになる。
さらに今回のケガでブランクが延びるとそれだけまた弱くなっていく…

と、言い訳はいくらでもいえるんですが、
まあ大事なのは実力よりも意気込みの方であって、
ジムをいざ作るとなって、
そこに強い人が来るのであればゲストセッターを呼べばいいだけのこと。


実は去年の暮れから「立地探し」をちょくちょく始めてはいて、
熊野古道の旅もそのきっかけ作りで、そういう目で和歌山の新宮市街を散策しました)
自分でいい街を見つければそこで伝手を探すし、
あるいはどこかから話が舞い込んできたらまずは話を聞くつもりです。

とにかく縁は大事に、
志はしっかり奥に秘めて、
そして焦らずゆっくりと。

 × × ×

僕にできることは、まだあるかい?」

あるさ。
「まだ」なんて言わず、いつだってあるさ。

25:27

ゆくとしくるとし '20→'21 2

 
今年ははちまんさんへ登ってきました。

去年は面倒くさがって行かなかった気がするんですが、
それまで毎年行っていた元日の初詣を再開したという感じです。

年の変わり目に間に合わせる気もなく、
新年10分前に家を出たので道中で新年を迎えました。
近くのお寺なのか、付近の家のテレビの音なのか、
除夜の鐘らしき音を聞いた気がします。


本宮までの50分の道中、山道に入るまでは見かけた人は一組、
電灯なしで月明りと共に歩む山道では三組の人とすれ違い、
それぞれこちらから声をかけ、挨拶を交わしました。

何年か前は、挨拶をする雰囲気かどうかをすれ違う間際に察知する、
という器用な(というか神経過敏ですが)ことをしようとしていましたが、
雰囲気はもともとあるだけでなく当事者がつくりだすものでもあるわけで、
これまではその当たり前にあるはずの当事者意識が欠けていたようで、
というか今日はそんな面倒なことを考える発想もなく、
素直にこちらから(多生の縁の)雰囲気づくりをつくる姿勢になっていました。

それはたぶん、歩くことを身体が楽しんでいたからだと思います。


思えば去年の一年は自分の身体に正直になる生活を心がけていました。
頭が身体に従属するようになれば、頭は余計なことを考えなくなる。
それは日常的に歩く時間が多い生活の中で体得した感覚でした。

身体感覚が目覚めれば、すなわち身体が開放されていれば、
視界に入ってくる景色やものの見え方は変わってくるし、
その視覚に対して反応する脳の活動も意識的なものとは変わってきます。
そのなにが変わるかというのは、
考え事をしながら、たとえば俯きながら歩く時と、
歩くことに集中して、空を見上げながら歩く時とで、
ふと目に入ってくる(同じ)ものに対する見え方や考え方を比べればわかります。
身体感覚の云々は、当然ですが体得するのが唯一のアプローチ方法です。


今日は月が明るくて、歩きながら空ばかり見ていました。
ほんとうに、前を見るのは注意確認だけで、ほとんど見上げながら歩いていました。

加藤幸子の『ジーンとともに』という短編集は、鳥が主人公の短編がいくつかあります。
小説の中なので、彼らはもちろん言葉をしゃべるわけですが、
ある短編でその鳥たちは太陽を「光る輪」と言い、月を「死んだ光る輪」と呼ぶ。
もちろん月は太陽の明るさに比べれば死んでいるも同然の暗さなわけですが、
そうはいっても月明りだけで山道を歩けるほどのこの明るさを「死」と呼べるものか、
などと考えていました。
たぶんその鳥たちは基本的に夜はほとんど活動をしなくて、
たまたまアクシデントに遭遇するなりして夜に空を飛ぶことがあって、
あまりの暗さにそういう印象を持ったのかもしれない、などと。


そういえば、家を出る時にメガネは(ケースなしで胸に入れて)持って出たんですが、
財布を忘れました。
途中のコンビニや自販機で何か買う気は全くないのですが、
賽銭を納める気も同様に全くないことを、
意識したことはなかったんですが今回の忘却において改めて意識させられて、
うーんこれは初詣なのだろうか、
と思ってもよかったんですが、
まあそんなことは今書いただけで、考えはしませんでした。

ネットおみくじだとか、正月を外しての分散初詣だとか、
密を避けるための「なんでもあり」がもはや伝統そっちのけレベルで、
何を初詣と考えるかは個人の自由だ、などとテレビで専門家が言う始末で、
まあそれは別にどうでもよくて、
というのもこんなことになる何年も前から、
僕は「個人の自由」で無賽銭初詣になっていました。


本殿の人出は例年より少ない気もしましたが時間帯の違いかもしれず、
若者が多いような気もしましたが気のせいかもしれません。
ただ、高校生以下の若い人は家族連れでなければほぼ集団で来ていたのと、
その集団は「自分が集団の一員であること」に一生懸命で、
周囲への注意力が散漫になっているという印象を受けました。

それが不真面目だとか社会性に欠けると言いたいわけではありません。

彼らがその集団から外れた一瞬に見せる純朴さ、素朴さを垣間見る瞬間があって、
彼らは「一生懸命に周囲への感度を落としている」のではないかと思いました。

鈍感になることに集中するという、
矛盾なのか徒労なのか、何かやるせなさを感じてしまう努力なのですが、
それが彼らの日常生活の必要から出た生存戦略であるという点で、
複雑な時代になったものだと感じます。
(この機制については内田樹の『下流志向』に詳しい)


いや、そんなことを歩いている間は全く考えておらず、
頭からっぽで月を見、山道の闇を見、
国宝だという本殿の建屋を見、本殿裏で根を砂利地に這わせた古松の幹を見、
無心に薪をくべる焚火番のおじいさんの横顔を横目で見、
そうしてあたりでいちばんの生命力を放ち続ける焚火の中心部、赤々とした熾火を見、
火の粉の匂いをマスクを付けたり外したりを繰り返しながら嗅ぎ、
そうして焚火のそばにいながら例年していたような考え事はまったく起こらず、
わずかにジャック・ロンドンの『火を熾す』(まだ読んでいない)を連想しただけで、
この熾火が未来のなにかにつながる可能性だけをその場で感じ取っていました。

そんな2020年の終わりと、
そして2021年の始まりと。

 × × ×

みなさま、よいお年を。

そして、あけましておめでとうございます。

どうぞ、今年もよろしくお願いします。

chee-choff

ゆくとしくるとし '20→'21 1

 
一年を振り返るというとき、
今年は社会的にはコロナ問題で埋め尽くされていましたが、
僕自身はその影響を直接受けたというよりは、
そのニュースに触れて考えさせられることがとても多かった。
だから、書くならそういう話になる。

というより、今年書いてきたブログをタイトルだけ見返してみましたが、
基本的に自分の頭の中のことが書かれている。
なので、書くならそういう話になる、
か、もしくは「なぜそういう話になるか」という話になる。


僕が書く文章の宛先についてですが、
僕は具体的な名前を持った人へ向けて書いているわけではない。

「香辛寮の人々」という会話調の文章を書いた中のいくつかは、
その時深くコミュニケーションをとって何がしかの感慨を得たその人、
を会話の登場人物に想定することが同時に僕の文章の想定読者にもなって、
そういう文章はやけに具体的だったりメッセージを帯びていたりしました。

でも基本は想定読者はいません。
前はそれを「未来の自分が想定読者」と言ったりしていましたが、
今あらためて考えてみると、それもまた違う。

この文書をコミュニケーションととらえるなら、それは投げっぱなしのボールです。
ただ、相手キャッチャーのいない投手は、投げる一球に神経を張り詰め、
自分の投げた球筋から何かを得ようと必死に目を凝らしている。
次の一球は今のそれとは違うものになるはずだ、いや、なるべきだと思って。


なので、「この文章の宛先として自分は含まれているのか?」という判断を、
読者ご自身にしてもらうことになります。
それが不親切であると言われて別に否定はしませんが、
書き手の親切の有無とは別の問題として、
そもそも読み手としての意思の中にその判断が当然に含まれているはずです。

文章を読むとはそのように、目の前の言葉に対して自分の身体を曝露するものだと。
そうでないと、読むことで自分を変えることなどできないのだから。

 × × ×

前に鈴木大拙の『日本霊性論』を読んでいる時に、
現代日本平安時代の再来ではないかという想像を膨らませていたんですが、
この年の暮れから読み始めた橋本治の『江戸にフランス革命を!』の影響で今度は、
日本どころか世界中が「江戸化」しているという妄想を現在抱いています。

アレクサンドル・コジェーヴという人が「世界の日本化」を言った時に、
その日本とは平安時代の貴族文化を源流に見た形式至上主義を指していましたが、
こんどの「世界の江戸化」はそれとはまた違う…いや、根っこは一緒かもしれません。
詳しくはハシモト氏のその本を引用しながら書きたいんですがざっくり書くと、


江戸時代に平和と停滞が三百年の長期にわたってあったわけですが、
それは変化がないという意味ですが、つまり時間軸における「未来」がない。

で、「未来」が存在しない江戸町人の生活を象徴する歌舞伎の論理によると、
「未来」のない時間軸においては「過去」と「現在」がカオスに入り混じる。
そのカオス時間におけるリアリティは「過去」と「現在」の混濁そのものにあり、
その混濁は日常と非日常の境界を無効化してその両者の行き来も縦横無尽になる。

歌舞伎の論理とは「無意味の論理」ということらしいのですが、
上記のような「無意味の論理」を娯楽として当然に受け入れる江戸町人というのは、
そもそも彼らの生活における時間軸がそのようなものであるからであると。

で、「無意味の論理」というのは「意味を無効化する論理」でもあって、
"既定"の未来に向けて過去も現在も捏造してしまう時間感覚というのが、
未来の未知性を否定する面でまさに「未来」のない時間軸とイコールであって、

つまり極私的ネオリベラリズムの発現形態であるポストトゥルースを思想と呼ぶならば、
それがそのまま日本の江戸時代の歌舞伎論理に通じてしまう。


…と思って『江戸にフランス革命を!』を読むと本当に発見だらけで面白いですよ。

江戸にフランス革命を!

江戸にフランス革命を!

  • 作者:治, 橋本
  • 発売日: 2019/06/26
  • メディア: 単行本

 × × ×

いや、上の話を、どこかでコロナの話とつなげようとは思っていたのです。
今日、というかさっきの24時までNHKでやっていたコロナ特番、
世界中でコロナ禍を記録するために自撮りした映像の総集編、
を食い入るように見ていました。
それについて思うところが、なかったわけではないのですが…

明日続きを書く時に、その気になればその話をしましょう。

Can one speak about unspeakable? (6)

 
沈黙を思う。


ひとりの沈黙。
共同的な沈黙。

ひとが誰かといる時、
その場に一緒にいることがコミュニケーションとなる。
何かを伝えあい、なにかが通じあう。
意図から外れて、意図をすり抜けて。
沈黙は二人のかたわらにつねにある。

雄弁の沈黙、無口の沈黙。
それは空白、余白とも呼ばれる。
余白のないコミュニケーションを想像してみればよい。
彼らは息つぎができず、息がつまり、息も絶えだえとなる。
沈黙は恐いか、しかし沈黙は空気だ。


空気の沈黙は内なる沈黙を囃したてるといわれる。
隙間があればそれを埋めようとする意思がはたらく。

だが隙間は埋めるべきものだろうか、
路肩ではアスファルトの継ぎ目に雑草が生える、
雑草の意思はその隙間を埋めることにはない、
隙間であろうがなかろうが彼らは所構わず繁茂する、
そこは空間であり空気のあるところすべてである。

彼らは沈黙しているだろうか、
彼らは沈黙なのだろうか。
草木とともにある人は彼らの声を聴く、
その声は沈黙の声か、沈黙を破る声か。
耳をすまさねば沈黙と関われないのだとすれば、
それはそのどちらだろうか。


鼓膜はつねに震えている、
空気はつねに振動し身体もつねに振動する。
耳が聞くのはすべての振動でありノイズであり、
沈黙が一切の音と無縁であるならば人の手には届かない。

しかし人は沈黙という言葉を生み出し感じるに至る、
その過程は絶対でなく相対というのでもなく、
たどり着けない星を仰ぎ見る彼方の理想というでもなく、
沈黙である者を見た誰かが、
自分との違いを明白に感じたからだ。

沈黙である彼と沈黙でない彼とがその場に居合わせたからだ。

沈黙はそこにある、ただ注意深くあらねば近づけない。
その近寄りがたさに驚いた彼がそう名付けたのだ。

繰り返すがそれは絶対でなく相対というのではない。

そして沈黙は普遍である、
感じる者が注意深くあれば沈黙はそこにある。
そして彼はそれに触れることはできない、
差し出す手をすり抜け近づく足音はそれをかき消す。


沈黙とともにあるとはそれを遠目にうかがうことである。
作業の手をおろし歩む足をとめ、それ以上近づかないことである。

では彼はその場でじっとしているしかないのか、
触れれば崩れる砂上の楼閣の前で呆然と佇むか、
進めば消える蜃気楼を座していつまでも拝むか。
それは博物学的対処である、
そして沈黙は保存も効かねば分類もままならぬ。

沈黙はなまものである。

その発祥が示すとおり、
沈黙とともにいる者から沈黙を感じることができる。
あるいはそれは伝播するのかもしれない、
もちろんニュートン力学には従わない、
測れば消えるそれは量子力学的ふるまいにも見える。

沈黙を統御できる法則が発見されるとしよう、
その法則はさっそく当のそれをすり抜ける、
沈黙を破るとはそういうことをいう。


沈黙はつねに人とともにある、
沈黙する人とともに。
それを語りつぐためにできることは、
彼じしんの内がわにしかない。
人がこの世からいなくなれば、
沈黙もまた消え去るのだから。
 

先天性ニヒリズムの克服法

 
 スニーカー刑事は立ち回る。

 事件は人心の闇への招待状。
 参加は強制の呪われた祝宴。
 死の足跡をたどる即席の詩。
 生の所業は諸行無常への道。

 手応えはたしかに存在する。
 闇を照らせば有象が浮かぶ。
 光は見えぬ無象を消し去る。
 後先はなくただ存在がある。

 止むに止まれぬ犯罪の動機。
 社会に養われた狂気の必然。
 偶然の余地を蝕むシステム。
 動悸だけが謎に挑む覚醒剤

 この足を止められない恐怖。
 
 × × ×

太陽を曳く馬〈上〉

太陽を曳く馬〈上〉

  • 作者:高村 薫
  • 発売日: 2009/07/01
  • メディア: 単行本

日常生活の抽象とその豊穣

『生活世界の構造』(アルフレッド・シュッツ)を読んでいます。
隔日数ページずつで、現在500ページ少しまで進んだので、たぶん半年近く読み続けています。

「ふつうの人々」にとって、最も身近な「生活世界」。

営み、送り、過ぎ去ることが当たり前過ぎて、またプラグマティックな問題への直面と解決の連続がそれそのものである「生活」に対して、僕ら「ふつうの人々」は考察を深めることはありません。

それは当面の問題を差し置いて概念を弄ぶ逃避である、生活の糧にもならない時間の無駄、手間の浪費である等々、「考えない理由」はいくらでも見つかるでしょう。

理由があるなら考える、得だと思えば考える?

「生活世界」そのものへの考察は、そのようなプラグマティックな価値観をいちど「括弧に入れる」、脇に置いたところからしか始まりません。


書評ではなくて、感想でもなくて、

日々印象的な一節やフレーズに立ち止まり、黙考し、ページを戻り、栞を挟んで本を閉じる、半年も続ければ一連の行為自体はルーティン化したと思えなくもありませんが、
「細かいところをすっ飛ばしてスムーズにことを運ぶ」のがルーティンの機能であるとすれば、それは見かけだけのことです。


唐突に話は変わりますが、消費社会は消費者を匿名であるとみなします。

商品の購入者一人ひとりに個性を認めていたら、大量生産・大量消費は成立しません。
もちろん、消費者は個人ですから、その匿名化の波を受けながらも上手にいなして、人は自分なりの消費活動を通じて生活を営みます。
ただ、そのバランスをとるのは本人の役目であって、消費活動それ単体はあくまで匿名化を推奨しています。
書店に平積みされた本をポップを見て購入して読む行為であっても。


空気が水で満たされているという幻想を、これまで何度か抱いたことがあります。
ダム建設によって水没した山間の集落、かつての町並みはその形を留めながら水中に沈んでいる。
あるいは、地球温暖化で海水位が上昇することによって、海辺の街が無人の海中の街跡となる、そんなSFマンガ(たとえば大石まさる)を読んだ影響もあります。

消費活動が、水で満たされた世界をどんどん浮き上がっていく行為だとすれば、
本書を読むことはその逆、ひとりでどんどん海深く沈んでいく行為だと思える。


その連想ですが、
「氷山の一角」
という言葉がありますね。

プラグマティックな必要性に追われる日常生活は、地上から見える氷山にあれこれ取り組む活動である。
削って彫刻をつくったり、溶けてきて危険だと思ったり。
生活に追われるだけでは、あるいは一休みと立ち止まるだけでは、氷山の全貌は未知のままで、いや「全貌が未知」であることにすら意識は及ばない。

水温は低く、視界は狭く、また孤独を催すほど静謐ではあるが、氷山のすぐそばから海に飛び込み、深く深く潜っていく。
すると、海はどこまでも深く、氷山の隠れた土台はどこまでも大きいことに直面する。
そこに、果てはないように思われる。


宇宙の果てに辿り着けないこと、その事実に壮大なスケールを感じるとしましょう。
その感性があれば、「日常生活」の果てに畏怖を抱くこともできるでしょう。

灯台もと暗し」
宇宙を夢見る人間も、海辺を照らす灯台を造る人間も、
その「もと」は暗く、
連想によって、我々は宇宙でもあり、灯台でもあると気づく。

知性は無知を拓き、無知が知性を賦活する。


深く潜ると、見えてくるものがある。
そのための肺活量は、実際に潜ってつけるしかない。
 

香辛寮の人々 2-9 Can one speak about unspeakable? (5)

 フェンネルは向かいの椅子に向かって話しかける。
 
「すべての言葉は沈黙に通ずる」
 テーブルには彼以外だれも座っていない。
「言葉というか、会話だけども。二人で延々と続けていれば、いずれお互いに言うことがなくなる」
 もちろん空間は返事をしない。
「言葉はそもそも、会話のためのものなのだから」
 しかしフェンネルは、椅子の上部の空間に何かを感じとっている。
 空間は何かで満たされている。

 
「会話は目的があって始まる場合もあるし、ふとしたきっかけで始まることもある。けれどいったんそれが始まれば、お互いが意思をもってそれを続けようとする。その意思が、最初にはなかった目的を生む」
 フェンネルは考えている。
 自分は椅子の上の空間を占拠しているが、
 同時にここには、空間の欠如がある。

「その意味で、会話は創造的行為であるといえる」
 僕がいるせいで本来あるはずの空間が、その存在を否定されている。
 あるいは、ある〝べき〟はずの空間が。

 
「これまで現実に存在しなかったものを新たに生み出す。形があるわけでなく、発したそばからすぐに消えていくものであれ、彼らを含めこれまで誰も、見たことも聞いたこともないそれが、彼らのあいだでどんどん勢いを得ていく。その勢いは、彼らの意思に関わりなく、独自の生命力をもっているようでもある」
 形の現実的存在は、空間の否定をともなう。
 では、空間の肯定は形の不在なのか?
 当然そう。対偶だ。

「しかし会話は時を経て、その勢いを少しずつ失っていく。また、唐突にこと切れる。二人の協力によって創造されたそれは、遠からず死を迎える。小さな死。ほとんどの場合彼らは、その一時的な死を喜びをもって迎える」
 ではそれは〝そこには何かがある〟ということではないのか?
 
「会話の死によって、そこに沈黙が訪れる。沈黙はまた、新たな会話の開始によって破られるかもしれない。会話と沈黙は互いが勝手に相手を生み出す、永遠機関のようなものかもしれない。けれども永遠は現実にはない。最終の会話は最終の沈黙に呑み込まれる。最後に残るのは沈黙だ」
 空間の肯定……。
「彼らは沈黙を遺した。彼らの存在を証しするものは、彼らが存在する間だけ空間を漂い、彼らが消えていくとともに、その証も霧消した。沈黙は彼らの存在の証ではない。では彼らは何も残さなかったのか?」
 あるべき状態として自分が認める何かが、そこにはある。
 そこに何もないのだとしても。

「……君はずっとそこにいた。そしていない。これからも、ずっと」
 
 フェンネルはコーヒーを淹れるために立ち上がる。
 

ストイックの倫理

アイン・ランドリバタリアニズムに通ずる記述を見つけました。

現代的な個人主義の理解は、この引用に寄せて書けば、
「倫理的最高価値としての自由」が、
「自己以外の存在の変改や抹消を意味」する、
ということになりますが、ほんとうの(発祥としての)個人主義はそうではない。

そしてこれが、利他主義ではない別の論理から導かれる、
その論理がこの引用には書かれています。


資源の限られた社会における共同体の維持にとって、この倫理は役に立つでしょう。
しかしこの倫理が少数派でしか成り立ち得ないのは、経済原理が先に立つからです。

ただそれは、近代から今に至るまでのことで、
これからどうなるかは(コロナ以前よりさらに)わかりません。

と言いつつ、ニッチの倫理が多数派となることもまた悲劇を呼び込む気もします。
いずれにせよ、価値観の変化は現代社会にとっての希望の一つです。

 ストイックやエピキュリアンが目ざした倫理的最高価値としての自由とは、もちろん、権威、 他人、現実などの、自己以外の存在に自己を犯さしめぬということにあった。しかし、そのことは、ただちに、自己以外の存在の変改や抹消を意味しはしなかった。かれらは現実を現実として認めた。もしかれらに現代流の皮肉をもって報いるならば、かれらは、自己につごうのわるい現実を、むしろ自己の自由を保証し、その昂揚感をうながすための梃子として利用したとさえいえる。倫理の領域においては、つごうのわるいものが、かえって都合よくなるのだ。
 理由ははなはだ物理的である。自己の力量は自己を抑圧するものの力によって測られる。ストイックやエピキュリアンたちの拠った原理は、ただそれだけのことである。外界はできうるかぎり、混乱していたほうがいい。現実はできうるかぎり、ままならぬほうがいい。自己の外にある現実がそういう状態にありながら、しかもそれにすこしも煩されない精神の自律性、かれらはそれを自由と呼んだ。それは逃避の自由ではない。渦中に坐して逃避しない自由である。あらゆる理由づけ、口実、弁解を卻(しりぞ)け、黙して語らぬ自由である。自分が自由であることを、すなわち外界の強力な現実が自己の精神になんらかの痕跡もとどめえぬ自由を、なによりも誇りとし、しかも自分がそれほど自由であることの証左をどこにも示しえぬことに、すこしも不安をおぼえぬ自由である。
 したがって、かれらはつねに現実のなかにあった。今日の自由人は現実に捉えられぬ用心を怠らぬが、かれらは平気で現実のわなのなかにあった。捉えられぬことに心を使うよりは、捉われぬことに心を用いたのである。ふたたび皮肉をいえば、それは「負けるが勝ち」の処世術に道を通じている。ストイシズムは、文化に疎外された田舎者ないしは奴隷の哲学であり、エピキュリアニズムは、力に負けた都会的文化人の哲学である。

福田恆存『人間・この劇的なるもの』中公文庫,1975 p.80-81
下線・太字部は引用者

ちなみに、福田恆存という名前を見てこの古めかしい本を購入したのですが、
前に翻訳者として目にした記憶があります。
もちろん調べればすぐ分かりますが、
たしかコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』ではなかったかな…

だとすれば、この思想は「そこ」にも通じているわけです。
 
 
もうひとつちなみに、
「皮肉」という言葉はものすごく多様な場面で使われるので、
その意味を問われると(辞書的な暗記をしていない人なら)詰まるものですが、

この引用を読んで、「皮肉」には多重反射のイメージがあることに気付きました。
つまり、皮肉的視点によって人は状況の外に立つ、ある客観性を獲得できるのですが、
その視点の「皮肉さの質」によっては視点が反転し、
獲得したと思われた客観性が偽りの(少なくとも擬似的な)ものであったことを暴く。
簡単にいえば、皮肉という言葉は常に話者の皮肉性を照射し返す。
だから、皮肉的言辞によって「言い切る」ことがまた皮肉になるわけです。

そう考えると、「科学の反証可能性」とも繋がってきます。
 

そうか、科学は言葉ですね。