human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

評価、身の丈、個性と抽象

『思想をつむぐ人たち』(鶴見俊輔著、黒川創編、河出文庫)を読了。
これで2回目だったか、3回目だったか。

思想をつむぐ人たち ---鶴見俊輔コレクション1 (河出文庫)

思想をつむぐ人たち ---鶴見俊輔コレクション1 (河出文庫)

 事実はすべて過ぎ去る。今ごとにほろびる事実に対して、つづくというのが価値の性格である。何かに価値があるということは、その対象となる事実とのかかわりがあってはじめてあらわれるのだが、その事実が今ごとにうつろいほろびゆくということをこえている。価値ありという判断は、今という時をこえるところを指さしている

p.447

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価値の判断、「評価」という姿勢に、いつからかマイナスの感覚をもつようになっていました。
マスコミや広告への食傷がその主な理由だと思います。

不特定多数を対象とした情報には、その発信元の「身の丈」を介在させる余地がない。

新聞記事の末尾署名を考えてみると、その名前から具体的な個人が立ち上がってくることを、誰も期待していない。
読み手はもちろん、記事を書いた記者本人にも。
彼を知る人にはその人となりが思い浮かぶはずのその名前は、記事の中では、情報の出所を明示するというこれも「情報」としての機能のみを負わされている。

内容も同じです。
ダイエットに効いたという薬の効能を謳う広告の体験談は、具体的な記述に溢れて見えて、その具体性は特定個人を指し示さない。
広告を読む誰もが自分の生活に当てはめて「自分にも使えるかもしれない」と思わせるそれは、匿名性を帯びており、その意味で抽象度が高い。


「書評」というのは読者の本に対する評価で、僕はこれを好んで読みますが、それは本来の意味を超えた書評に限定されてのものだと、今言葉にしてみるとそう感じます。

内田樹氏の書評(氏がブログ内で勝手に書いた私的感想ということですが)は面白くて、それは「この本を読みたいと思わせる」という書評本来の効果を備えて見えはしますが、なぜ彼が紹介した本を読みたくなるかといえば、「その本が、本の内容を超えていろんな事柄や人や別の本とリンクするさま」が躍動的に書かれているからで、その「リンク生成」の出所は、内田樹氏という特定個人に深く拠っているのです。
別の言い方をすると、たとえば氏がなにかの本を「面白い」と一言コメントした時に、氏を知る人ならばその本のタイトルや著者という少ない情報からその「面白い」の詳細な解説を思いつくことができる一方で、氏を知らない人は「"なぜ面白いか"の説明がなく、解釈のしようがない」とそのコメントに取り合わない。

つまり、個人の身の丈が介在した情報は、受け手を選ぶ。


先に書いた「食傷」の意味は、この逆の「受け手を選ばない情報」の氾濫に対する気持ち悪さ、のことでしょう。
誰もが情報を発信できるネット時代、それは通信技術水準の問題で良し悪しはありませんが、そういう環境が整った結果として日々増殖し続ける情報のほとんどが匿名的である(個人が抽象されている)ことは、なにか本末転倒であると感じます。

ある意味で、世界中の人々が日本人になったようなものでしょうか。

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話を戻します。
鶴見氏の「価値」にかんする文章を読んで、この言葉に対する感覚が変わりました。
戻ってきた、のかもしれない。

価値の判断には、そのはじめに、個人がある。
その判断を他者が理解する、あるいは賛同するより先に、個人がある。

巷に溢れる「評価」は、「他者に(正確には「不特定多数に」)理解されない評価には意味がない」という価値観が、その内容を覆っている。
これを僕は、逆だ、本末転倒だ、と言う。


もしかして、これは唐突な飛躍ですが、匿名性を自覚できない他者どうしの結びつきは、取り返しのつかない悲劇を生む(生んでいる)のではないか。
まずもって具体的で、即物的でしかない共同生活に、しかし互いに相手の個性が見いだせない。

個性がないことは、「交換可能である」ことだから。

悪なす善人、名刺を作って思うこと

半年以上かかっていた『1Q84』は結局、岩手から引っ越す時期の慌ただしさに巻き込まれてbook3前半で途絶し(そして引越し時に半分の蔵書とともに手放した)、なにはともあれ騎士団長への道が一歩前進、次は「多崎つくる」かと思って本棚を眺めると、訳書でない未読のハルキ本が目に入り、タイトルからして旅エッセイだろうと見当をつけて読み始めると小説であった。

 もちろん僕はイズミを損なったのと同時に、自分自身をも損なうことになった。僕は自分自身を深く──僕自身がそのときに感じていたよりもずっと深く──傷つけたのだ。そこから僕はいろんな教訓を学んだはずだった。でも何年かが経過してからあらためて振り返ってみると、その体験から僕が体得したのは、たったひとつの基本的な事実でしかなかった。それは、僕という人間が究極的には悪をなし得る人間であるという事実だった。僕は誰かに対して悪をなそうと考えたようなことは一度もなかった。でも動機や思いがどうであれ、僕は必要に応じて身勝手になり、残酷になることができた。僕は本当に大事にしなくてはいけないはずの相手さえも、もっともらしい理由をつけて、とりかえしがつかないくらい決定的に傷つけてしまうことのできる人間だった。

村上春樹国境の南、太陽の西

「竜巻のように激しく(そして否応なく)巻き込まれる恋(情事)」は『スプートニクの恋人』を思い起こし、「幼馴染の女の子と手を握った特別な瞬間」は『1Q84』と同じモチーフである。
馴染みが深くもあり、語り口に限らず前に読んだ雰囲気を随所に漂わせる(それが飽きに結びつくか喜悦を呼び起こすかは、文体の身体的な馴染み度合いによる)この小説のなかで、まずは「新しいな」と思ったところを抜粋してみました。

まずは、というのは、つまり第一印象のことで、よくよく考えると、この主人公がほかハルキ小説とは特異なメンタリティを備えているわけではない、むしろその逆であることがわかってくる。
僕の記憶レベルの認識ですが、新しいという印象は、偏ったある一面に強い意志を持ちながら状況に流され続ける主人公達の一人でありながら、自分を悪と呼ぶ人間は初めてだと思ったからでした。
だから時系列もおかしくて、この新しさは僕が読んだ順番でしかなく、単行本92年刊行の本書よりあとの小説を、すでにいくつも読んでいます。

ハルキ小説は教訓にあふれていて、語りの内容にそのまま教訓が含まれていることもあるし、出来事から読み手が教訓を容易に(あるいは豊富に)引き出せるようにもなっているし、けれど今僕が発見しようとしている教訓は位相がまた一つ上がって、ハルキ小説(群)に対するこの小説の位置関係がその出所のようです。

 本当の悪人は、悪を自覚しないがゆえに、悪の執行に抵抗がない。
 悪を自覚するがやめられない人間は、悪人かどうか?

 彼の内には、悪の自覚による抵抗を上回る圧力が、彼を悪に向かわせる。
 自然の流れに抵抗が噛んでおり、否応のない人生の進行は自然に破滅へ向かう。
 悪人は、法や倫理の網を潜れば、自らの悪によって破滅することはない。
 己の悪が自らを滅ぼす人間は、善人である。

 しかし、
 悪を自覚しない善人は存在し得ない。
 悪を自覚せずに悪をなさない人間は存在し得ない。

 したがって、
 己の存在に苦しまない善人は存在し得ない。

書いてみてなんですが、「発見しようとしている教訓」は、この中にはありませんね。
なんだこりゃ。


 同じ人間が、善人にも悪人にもなる。

あるいは、

 悪人(善人)の自己規定は、行為遂行命題である。

といったあたりを、言いたかったのですが。

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

国境の南、太陽の西 (講談社文庫)

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仕事の話ですが、名刺をつくりました。

表に友人の屋号を、裏に自分の屋号を入れました。
現状主な仕事が表側なのでそれはいいんですが、業種を表裏で同一にしたことに少し考えるところがありました。
これも現状そのとおりではあるんですが、自分自身の特色を何か入れるべきではなかったかと。

たとえば「機械設計・工業デザイン」の横に「司書」と入れてもよかったのではないか。
資格を持っているだけで実務経験がなく、看板倒れと言われて否定はできないけれど、看板が仕事を育てることもある。
なにより、縁を大事にするなら「きっかけづくり」として書いてみてよかったはず。

けれど、また少し考えました。
そもそも、図書館で働くのではなく、個人事業として「司書」をどう仕事にするのか、今の自分に全くイメージがない。
これはたぶん、相手の提案を待つのか、自分から仕事をつくるのか、といった積極性の話とはまた別の問題です。
普段から司書の仕事を意識して生活しているわけでもない。
本が好きで、でも読むことを選ぶことも、個人的な枠から出ることがない。

鳥と卵、のような話だとも思います。

つまり、名刺をそう作った以上、まずはそういうものとして活動していく。
後悔があったのなら、それは作り直しとか、その前段階で司書についての個人的活動のイメージを考えていく、という方向につながるはず。


目の前に「印象的な物」があるとつい引き寄せられて、何か道ができたような気になってしまいますが、いつでもやはり、根本は自分が何をしたいかですね。

それは言葉にできるレベルがよいわけでもなく、言語化以前の思いが先にあるというわけでもなく、自分が進んでいく道が、自分が行きたい道であり、自分がやっていくことが、自分のやりたいことである。

これがとても素直な認識であることは、森博嗣の「冷たい」エッセイをいくつも読んでいると理解することができます。

暑さと半死、それは修行なのかもしれない

暑いです。
こうまで暑いと、能動的になる意志が熱気に奪われる心地がします。

意志は能動性の言い換えのようなもの。
先に受け身の出来事があっても同じで、意志がなければ受け続けるだけ。
「それはいやだ」という反逆が、人の意識の始まり。
だから「それでもいい」という受容は退化でもあり、帰化でもある。
ただ、そういって「帰る場所」は、都会にはありません。

自主裁量で仕事をするようになって、暑くなって、眠り続けています。
夜が遅いわけでもないのに、朝に起きられない。
暑さのせいだと思っているが、それだけではないようでもある。
思えば、「積極的な睡眠」というものはない。
眠りたいと思っても、努力すれば入眠が叶うわけではない。
意識が沈む瞬間が不明である、これが受動的な行為の象徴。

暑さへの対処が、それに反抗するよりも馴染む方が自然である。

外気を否定して冷房を利かせ、肌に最適な温度空間を無理やり拵える。
その「最適」は、人が、より正しくは産業が定義したものに過ぎない。
人と環境の関係は、経時的な相互性のうちにある。
最適を言うなら、長年暮らした地域の風土によって最適性は様々異なる。

見方を変えれば、自然にはいつでも還ることができる。
いわば人工空間であっても、身体が受動的に馴染む場所が彼にとっての「自然」となる。
「自然」をそう捉えた時に、「自然」は意識に取り込まれることになる。
そういう眼で、自然を、草木を海川を見ることもできる。
(つまり「自然」の定義を改めたうえで本来の自然を眺めるということ)
視界には紛れもなく、緑や青が、映ることだろう。
彼がとらえた青や緑は、いうまでもなく、もはや「自然」ではない。

受動性の話に戻る。
快・不快の感覚は、主体と対象の「境界性」と相関する。
対象を嫌だと思う意識は、境界を強固に作り上げ、対象を自分から遠ざける。
自分が心地よいと思う対象は、懐に招き入れ、あるいは自分の一部にする。
境界は薄れ、消失する。

暑さが不快なのは、「そういうことにした」からである。
汗をかくから暑いのはいや。
つまり「発汗の見苦しさ」という通念が、暑さを不快にしている。
代謝反応として、発汗は髪が伸びることと等しい。
「清潔に見えるように、髪は定期的に切るべきだ」
汗はかかない方がいい、という発言は、髪は伸びない方がいいと言うに等しい。
どちらも実行に移すことは可能で、後者は「死」である。
冷房慣れか真夏のスーツ慣れなのか、経年変化で汗をかかなくなる人がいる。
彼はもちろん生きているが、「半死」状態と言えなくもない。
「自然」に馴染んで生きるとは、そういうことである。

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まだ半分も読んでいませんが、不思議になげやりな長いタイトルのこの本は「抽象的に考えるとはどういうことか」が書かれています。

常識や通念はさておいて、素朴に論理的に考える。
誰も言わないような表現が飛び出したとしても、論理展開が要請したものなら、それはひとつの「成果」である。
言ってはいけないこと、言わないほうがいいことを「空気を読む」という忖度を通じて排除し、会話や議論が凝り固まり、限定された、どこかで聞いたような結論しか生まない。
一人ひとりが自分の経験をもとに自分で思考し、そのような空気に飲み込まれずに発言し、新しい道が開けるような議論ができること、そのような社会が「本当に自由で平和な社会」である、と書いてあったように思います。

人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)

人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)

「自分の思考を通じて新しい道が開ける」という言葉は、社会のとっての新しい発見ではない。
自分が見つけた「新しい道」が、誰もが当たり前だと思っている些末な考え方に過ぎない場合だってある。
しかし、それを「新しい道」だと思い、自分固有の経験が導いた発見だと本人が考えたのは、それが今までは彼の中で単なる知識に留まっており、身に染みていなかったからである。
自分の思考によってものの見方や考え方を血肉化するためには、そのような無駄や回り道を恐れてはいけない。
それを無駄と考える者は、自分自身ではない。
それを回り道だとみなす者は、効率良くショートカットを繰り返して行く先が自分からどんどん離れていくことを自覚できない。

「自分自身ではない者」の判断に従うことや「自分からどんどん離れていくこと」が、自分で「新しい道」を発見することとは決定的に異なる点がある。
すなわち、自分自身が更新されていくこと、である。

それは、修行なのかもしれない。

伝書に書かれている言葉は多義的であり、一意的な解釈を受け付けない。それはいかなる最終的解釈にも行き着かない、エンドレスの「謎」として構造化されている。私たちはそれぞれの修行の達成度に応じて、そのつど伝書に対して新たな解釈を下す。(…)
 どうとでも取れる玉虫色の解釈をするというようなことを、初心者はしてはならない。どれほど愚かしくても、その段階で「私はこう解釈した」ということをはっきりさせておかないと、どこをどう読み間違ったのか、後で自分にもわからなくなる。
 多義的解釈に開かれたテクストには、腰の引けたあやふやな解釈をなすべきではない。それはテクストに対する敬意の表現ではなく、「誤答すること」への恐怖、つまりは自己保身にすぎない


内田樹『修行論』p.144-145

修業論 (光文社新書)

修業論 (光文社新書)

新しい仕事(0):本と自覚

仕事についてちゃんと考えておかなくてはと思い、その一方で直近にやる必要のあること(引っ越し準備など)が確定されてそちらに意識がとられていました。
やることが具体的なほど動きやすいけれど、抱えるタスクが具体的であるほど、それと同時に対面している抽象的な問題にはとっつきにくくなる

ここ何日か、引っ越し準備を少しずつ進めながら、それ以外の時間が「息抜き」というか、気が抜けた感じになっていました。
そんな時にturumuraさんの記事を読んで、頭が緊張状態を要求しているように思われたので、これを機会に考えるべきことを考えておこうと思いました。
タイトルの「イリイチ」に惹かれて読んでみて、自分がこれからしていきたいことに深く関わることが書いてありました。

kurahate22.hatenablog.com

新しい仕事の当面の主体は「機械設計」です。
大学時代の友人の助力を得ながら、個人事業として食べていけるようになることが第一目標。
このことについては別途詳しく書きます。
ここで考えたいのは、直接的にはその主体(設計業)と関わりのないこと。

自分がこれまでしてきた、あるいは考えてきたことを、自分の中で仕事に活かすだけでなく、可能ならばそのこと自体を仕事として取り組みたいという思いが、個人事業をする決意に伴ってはじめて生まれてきました。
それはたぶん、仕事の依頼者と「一人の人」として関わることになるから。
もちろん、人から依頼された仕事の内容をこなす、満たすことが求められる第一のことです。
でも、まだ想像の段階ではあれ明らかに思えるのは、組織の中で整然と分担された仕事を行う場合よりも、個人事業では人間性が問われる


「自分が好きなことを仕事にするな」とはよく言われます。
相手の依頼や要求があって始めて成立する仕事では、自分の好みを押し通すことが難しい。
自分の意に沿わない妥協が、自分の中で曲げられないこだわりと重なってしまうと、他者の期待に応える充実以上の苦しみが、時に生まれることになる。
僕が今書こうとしていることは、この格言に抵触するのかもしれません。
でも、しないのかもしれない。
…前置きばかりでは話が進みませんね。

「自分がこれまでしてきた、考えてきたこと」。
単語で言えば、それは本と、それから身体性。
どちらもかなり漠然としているのですが、まだましな方だと思える前者について書きます。


本は、自覚を目覚めさせます。
自覚することを知り、「スタート地点」に立つことができます。

物事の判断に際して、自分の頭で考え、納得したうえで行う。
いつもそういう進め方ができれば、理想的でしょう。
でももちろん、そうはいかない。
人一人の頭では到底追いつかないシステムが、現代社会を回しています。
自分の身の回りのことですら、そうです。
自覚とは、それを知ることです。

「自分の知らないことがたくさんあること」を知ること。
「自分の知らない多くのことによって自分の生活が成り立っていること」を知ること。
「自分の知らない多くのことのうちどれが自分が知るべきことか分からないこと」を知ること。
「知るべきことを知らないまま生活が回っている状態が好ましいかどうかも分からないこと」を知ること。

「自分の知らないこと」には果てがありません。
でも、それを知っていく。
物事を知り、考え方を知ることで、知っていく。
分かることが増えると、それ以上に、分からないことが増えていく。
これは、自覚に果てがないことと同じです。
自覚は安定状態を保ち得ない。
これでは十分ではない、という不安と渇望が、自覚を活性化させます。

上に張ったturumuraさんの記事、そしてその中から抜粋した以下は「人と人との出会い」について書かれていますが、僕は「人と本との出会い」についても同じことが言えるだろうと思います。

人が人たりうる状態が保たれるには、出来上がってしまったらまた過程の状態にもどすことを自分で気づいて自分で繰り返せることが必要だ。そうしないと腐る。

既知のもの(=利用対象になってしまったもの)になってしまった世界や他人との関係性が一新される事態が「出会い」であり、この「出会い」を繰り返すことによって人が人たる状態をもつことができる。

「本のことを仕事にする」。
正直言って、なにも具体的なことは想像していません。

司書講座の同期の人(卒業後、大阪の小学校で半年間臨時の学校司書をしていた)が、「一定予算で、依頼者の人となりに基づいて本を選定する」という書店員が実際に行っているビジネスがあることを教えてくれました。
おそらく、仕事や趣味やこれまで読んできた本など、読書に関係しそうなパーソナルな情報をアンケートに書いてもらったものをベースにして選書を行うのでしょう。
依頼者に、その人が読みたいと思うかもしれない、かつ選者が読んでほしいと思う本を渡すことができる、そしてそのことによって報酬が得られる。
うまく回れば、本好きな書店員には大きなやり甲斐が伴う仕事だと思います。
ただ同期の彼は、現実的なことも言っていました。
「自分(彼自身)の狭い趣味の範疇での選書だととてもビジネスにはならない。そもそも自分が読んだことのない本を薦めるわけにはいかないから、多様な依頼者の期待に応えるためには、自分が普段読みたいとは思わないような本を読まなくてはならない。そうは言っても、イヤイヤ読んだ本をオススメするのもあり得ない。単に本好きだからといって誰にでもできるビジネスではない」
これは、その通りだと思います。


自覚の話に戻ります。
人に自覚が芽生えることは、僕には希望になります。
ひとつは「非連帯的仲間意識」ともいえるものです。
そして、主体的に生きていく活力の源でもあります。

自分には何が足りないのか、何が必要なのか。
それを独自に探る人には、独特の生命力が宿ります

そういう人のそばにいると、自分の中の創造力が刺激されます。
あるいはそういう人がいると知っただけで、自分ももっと頑張りたいと思う。

これは、逆にもいえることです。
いや、むしろ「逆の経験の濃さ」が、僕に自覚への希望をつのらせた。
自覚を悉く喪失した人の傍らにいる、これは紛れもない「絶望」です


ちょうどさっき『三月のライオン(2)』(羽海野チカ)を読みましたが、
21話、安井六段との対局のあとの桐山零の叫びにグッときました。

零のように、何か(将棋)に「全てを懸けている」わけではない。
でも、こうも思う。
何もないからこそ、それに、その時に「全てが懸かって」いる。


 「生きたい」と強く願う人のそばにいれば、自分も「生きたい」と思う。
 「死にたい」と強く願う人のそばにいれば、自分も「死にたい」と思う。

前者はそう、でも後者はよくない、なんて言われそうだけれど、本来これは表裏一体のもの。
人として当たり前のこの感覚を、僕は殺さずに生きていければ、と思う。

今考えてみて、個人事業を始めることは僕自身、この点でとても前向きなことだと思えます。

 しかし、或いは遂に終りないかも知れぬ人類の前史にあっては、小さきものは常にこのような残酷を甘受せねばならぬ運命にさらされている。バラ色の歴史法則が何ら彼らが陥らねばならぬ残酷の運命を救うものではない以上、彼らにもし救いがあるのなら、それはただ彼らの主体における自覚のうちになければならぬ。願わくは、われわれがいかなる理不尽な抹殺の運命に襲われても、それの徹底的な否認、それとの休みの無い戦いによってその理不尽さを超えたいものだ。あの冬の夜の母娘のように死にたくはない。その思いは、今私が怠惰な自己を鞭うって何がしかの文章を書き連ねることの底にもつながっている。

「小さきものの死」p.13(渡辺京二『民衆という幻像』)

 × × ×

3月のライオン 2 (ジェッツコミックス)

3月のライオン 2 (ジェッツコミックス)

愚かさと愛、ねじれ、ちいさな問題

『戦中派不戦日記』(山田風太郎)を読了。
橋本治氏の解説から2つ抜粋しておく。
太字は本文中傍点部。

 昭和十七年の春は、こうして軍需工場で働きながら医学校進学を目指すことになる。受験勉強は全くしていない。医者になるということは、一人で飛び出して来てしまった、自分自身の面子、プライドの問題であるという側面が強い。孤児である自分。愛情に飢えている自分。しかしそれを素直に言い出せない自分。そして、言い出したとてそれは決して理解されないのだということを知っている自分──深い認識の裏には必ず、それに見合うだけの、そしてその認識を役立たずにしてしまうだけの孤独がある

”日本は亡国として存在す。われもまたほとんど虚脱せる魂を抱きたるまま年を送らんとす。いまだすべてを信ぜず”──そう終えられるこの四十年前の記録は、”いまだ”の一語で四十年後の現在[昭和六十年]に直結しているように思われる。四十年の時間を超えて、暗い空から真っ白な雪が吹きこんで来るような気がする。愛せると思えたものが、実は同時に愚かでしかないものであるということが分かってしまった──そのことが今も続いているのなら。
 分りうるということを知ってしまった人間は、それ故にこそ分ろうとしない愚かしさを憎むものだ
(…)
『戦中派不戦日記』の読み取り方は色々あるだろう、しかし私にとってそれは一つである。山田誠也青年はただただ、愚かしさだけを呪っている、と。愛しうるものが、何故こんなにも愚かでなければならないのか、と。

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『さようなら、ゴジラたち』(加藤典洋)も少し前に読了。
同じく抜粋。
返却日が今日で思考する時間足りず。

 ずいぶん昔のこと、カナダに三年ほどいた頃、親しくなったアメリカ人の友だちから、こんな話を聞いた。たとえば、待ち合わせをすることになって、渋谷のハチ公前で会おう、という時、先に来たほうが、そのハチ公前には立たないで、そのハチ公前が見える別の場所に位置して、相手がハチ公前にくるのを待つ、ということがある。ハチ公前で待っていると、いつどの方向から相手がくるだろう、いまいかいまか、というので疲れる。そんなところから、こういう待ち方が生まれたのだろうが、そのもう一つの待ち場所のことを、英語では”shooting spot”というのである。つまり、シューティング・スポット(狙撃地点)とは、自分からは相手が見えて、相手からは自分が見えない場所のことを言う。これと同じことが思想についても言える。ものを考える上で大切なのは、むしろ自分を狙撃される位置、ハチ公の位置に立たせることだ。そうでないと、その「考えること」は、結局その人自身の身にならないだろう──

p.47-48 「戦後を戦後以後、考える」

これは前に抜粋した「思想のオーソドクシー」と関係が深い。
いや、同じ話だと思う。

「ねじれ」を生きるとは、面倒なことではない。「ねじれ」をいかなる意味でも回避しないこと、つまりふつうの場所から、そこだけを信じるべき思想研磨の場所として考えていくことをそれは意味している。そのふつうの場所が「ねじれ」ている場合、それは、その「ねじれ」を映すにすぎない。その背景にあるのはつねに思想のオーソドクシーに従うという原理なのである。

p.143 「戦後から遠く離れて」

この太字は引用者。
そこは「ふつうの場所」。
それは、「思想」もしくは思想(が見出される)状態だと思われる。

今の自分に「ふつうの場所」はありません。
今いる場所は「仮の場所」とでもいうべきところ。
明日、この「ふつうの場所」を定めに出掛けてきます。
これについてはおいおい書くはずです。

 一九七九年、村上春樹という若い小説家がある文芸雑誌の新人賞を受賞する。そこで彼は戦後の左翼文化に一つのさよならの挨拶をする。その小説『風の歌を聴け』で、村上は、『気分が良くて何が悪い?』という好きな小説家のエッセイ集を愛読する主人公が、「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ。」という比較的金持ちの家に育った、いわば六〇年代(左翼)風の感性を持つ友人が没落していくのを、深い哀惜のまなざしで見送る物語を書いた。「気分が良くて何が悪い?」しかし飢えた子供たちがいる世界の中で「気分が良い」ことは、それまでなら、「悪い」とはいわないまでも、「後ろめたい」ことだった。それはまともな人間なら、ほんの少しは、良心の呵責をおぼえろよ、といわれるようなことだったのだ。
 しかし、ムイシュキン公爵がイッポリートに「私たちの幸福を見逃してください」といったように、私たちは、よその世界に飢えた子供たちがいることを知ってはいるが、「気分が良い」ことを恥じないようにしないと、ものごとをもっと堅固には考えられないのではないだろうか。私たちのすぐ隣りで、「気分が良い」ことをしている人々を、私たちは、そのもっと遠いところでは人々が飢えているのを知っているとしても、その「気分の良さ」に対しては、祝福したほうがよいのではないだろうか
 なぜなら、そのように「気分が良いこと」、幸せであることを、求め、めざして、いま飢えている人を含め、広くすべての人は、生きているのだからである
 私にこの村上の直観は、左翼性から離れても、人が他人のことを思いやり、社会のことを考え、まともに生きられる、そんな考え方のみちすじを作らなければ、これからやってくる社会には対応できない、という予言として受けとられる。

p.230-231 「六文銭のゆくえ」

この一節に自分は強く心を動かされました。
また時間のある時にゆっくり考えて書きたいと思います。
ちなみにこの「左翼性」については『貧乏は正しい!』(橋本治)に分かりやすく書かれています。
これも関連させて、また。

 × × ×

『小商いのすすめ』(平川克美)から。
上の加藤氏の引用と、同時に読んでいたからか共鳴する部分を引いておきます。
引用中「大きい問題」と「ちいさい問題」が何度も出てきます。
「大きい」方は、経済問題やら社会問題など。
「ちいさい」方は、ヒューマン・スケールの小商い、日常生活など。
とりあえずそうとらえておいて差し支えありません。
本旨は引用部だけでは分りませんが、僕の意図はその紹介ではありません。

 何度も繰り返しているように、問題のスケールが「大きい」か「ちいさい」かということは、どちらがより重要かということを意味しません。では、何が違うのかといえば、語り手である「わたし」の位置取りが違うということなのです。
「大きい」問題では、「わたし」はただ背景のひとつとして視野のどこかに現れるにすぎません。そこでは「わたし」の願望や、意思というものはほとんど問題にはなりません。いや、「大きい」問題を処理する場合には「わたし」は、問題を考える思考にバイアスをあたえてしまうだけの躓きの石なのです。「大きい」問題では、個々人の意思や願望がなぜ、そのまま実現されずに、思わぬ結果となって招来するのかという理路を理解することが重要なことだとわたしは考えています。
 しかし、「ちいさい」問題を取り扱う場合には、必ず「わたし」がその問題を引き受け、どのように行動し、どこまで責任を負うのかということが重要になります。
大きい問題」と「ちいさな問題」では、その中に含まれる不合理性の処理の仕方が違うのです

p.131 「第四章 「経済成長」から「縮小均衡」の時代へ──東日本大震災以後」

平川氏のいう「不合理性」と、加藤氏の「ねじれ」とが、僕の中で共鳴したのでした。

思想は、「大きい問題」か、「ちいさな問題」か?
僕は「ちいさな問題」だと思っています。
そう思わなければ、それを常識に登録しなければと思います。

あるいは本を通じてその実践が仕事としてできれば、喜ばしいことかもしれません。

『14歳のバベル』(暖あやこ)を読む

ちょっとした縁があり、『14歳のバベル』(暖あやこ)を読んだ。
SIMは途中からSF度が増してきたので魔法都市ゴドランド
原曲はごちゃごちゃしているが、頭の中でBGMを流すので「実際」はシンプル。
以下、思ったことをちょっと書いてみます。
(SIM : Synaptic Imaginative Music、脳内BGM。造語です)

キーワードはとりあえず(1)「一気読み」と(2)「親切な小説」。

(1)
一つ目はAmazonか何かのレビューでちらりと見た言葉。
なるほど仰る通り、先へ先へと導かれるように読んだ。
これは自分が普段読む小説とは違う性質で、疲労があった。
現象的には逆なはずなのだけど、不慣れという意味で疲れたということ。

基本的に「一気読み」は読み物におけるポジティブな特徴とは思っていない。
 一つ、立ち止まって考えさせるところがあってほしい。
 意味の不明瞭(不思議な比喩とか)にせよ、行間に漂う存在感にせよ。
 二つ、いったん読むのを止めて間を(読者に)おかせる性質も好ましいと思う。
 内容が時間をかけて身に染み込む、あるいは形を変える過程も読書の醍醐味である。
これらがあまり起こらないのが「一気読み」できる本だ。

先にネガティブな言い方をしたが、これはもちろん一面である。
逆に言えば、話の展開にスピード感があり、それを臨場感として味わうことができる。
些細な(本筋と関係ない)表現にいちいち立ち止まって気を散らされることが少ない。
どちらがよいかは読者の趣味で、自分は前者というだけである。

両者は、フィクションの現実(生活)への影響度の差として比較できる。
「一気読み」を好む読者は、小説を読む間はフィクションにどっぷり浸かっていたいと思う。
そうでない人(たとえば自分)は、フィクションの生活に対する何らかの影響を期待する。
フィクションに限らず、自分は読書とはそういうものであるという認識がある。

(2)
「親切な小説」とは何か。
ここでいう親切とは、作者の読者に対する配慮を指す。
上に書いたことも関係するが、それ以外にもある。
 たとえば、伏線に対する配慮。
 伏線にそれとわかるマーカーをつける、後で必ず回収する、回収時にも目印がある、等。
 たとえば、物語進行の理解に対する配慮。
 登場人物の発言に心情描写を足す、登場人物の行為に「神の視点」の説明を加える、等。
これらの配慮は、必要性の程度が読者によって変わってくる。
多くの読者に読んでほしいと思えば、作者は配慮を念入りに施すかもしれない。
ただ一方で、(様々な理由で)説明過剰を嫌う読者がいることも確かだ。
自分もその一人である、が、個人的な理由はさておく。
かわりに、今書きながら内田樹メディアリテラシー論を連想したのでそのことに触れる。

 新聞の読者減少傾向はずっと続いている。
 制作側の対策の一つとして「より読みやすい紙面構成への切り替え」がある。
 その具体例としては「大きな活字」「表現の平易化」「難読漢字の不使用」など。
 後ろの二つは、活字離れが言われる若い読者に向けられている。

 読解力が低下した若者にも読めるように、紙面の文章も簡単にする。
 それで読者が増えないとも限らないが、問題は別のところにある。

 読者の文章理解力に新聞が同調すると、その理解力の低下は止められなくなる。
 読解力のつく文章とは、そもそも読み手の能力をいくらか上回る文章ではないのか?
 そして活字に興味を持ち、向上心を刺激する文章も、それと同じなのではなかろうか?

書きながら別のことを思いついた。
物語のストーリー把握は、読解力とは別の問題ではないのか、と言われそうだ。
小説は読解力を鍛えるためではなく、物語を楽しむために読むものだ、と。
大筋はその通りだが、自分についていえば、全面的にイエスとはいえない。
なぜなら、読書の幅を広げたいと思っているから。
「今は手が届かずともそのうち読めるようになる本」も読みたいから。
これは「物事を知るとは”分からないことが増えていく”ことである」のと関係している。

…と当てずっぽうに書いたが、どう関係しているか?
すぐに整理できなさそうなので、保留にしておきます。


小説の内容にほとんど(というか全く)触れませんでしたが、以下少しだけ。

 × × ×

物語の現在時から8年前に、日本で「大きな事件」が起こったという。
主人公の14歳の少年は、その「事件」がきっかけで精神に深い傷を負う。
 「事件」によって、日本のあちこちに居住不可能地域が出現した。
 居住不可能地域では「メーター」が振り切れ、緑地や農作物が汚染された。
 また「事件」は「サイバーテロ」でもあったという。
 「事件」が起こって日本ではネットが使えなくなり、海外との通商が激減した。
 携帯電話がなくなり、脱「ペーパーレス化」が進行し、ハンコ屋が繁盛する。
ハンコ屋というのが面白いんですが、それはさておき。
「事件」について、物語の中で何度もその断片的情報が開示されます。
が、実際にどういうことが起きたのかは具体的に書かれないまま結末を迎えます。
「メーターが振り切れ」と言われれば、なんとなく原発が関係していそうです。

日本が半鎖国状態になる、という展開はいいなと思いました。
養老孟司氏が「参勤交代のすすめ」と併せて鎖国を提唱していたのを思い出しました。
物語内では「鎖国によって日本国内で均質化が進んだ」とありますが、
江戸時代の幕藩体制を思い浮かべると必ずしもそうなるわけではない気がします。
(地方の特産物という概念が生まれたのがたしかこの時代だったはずです)

ポジティブな「鎖国小説」を読んでみたいなとふと思いました。

 × × ×

14歳のバベル

14歳のバベル

九条と自衛隊、思想のオーソドクシー、手続きのまっとうさ

『さようなら、ゴジラたち』の「戦後から遠く離れて」の章を読む。
憲法改正手続き法案が衆議院を通った頃の、憲法九条論。

『九条どうでしょう』(内田樹ほか)は前に読んだ。
加藤氏はこの本所収の内田樹の主張にほぼ賛成している。
(以下、いろいろ混ざった私的要約)

 現実と矛盾する九条をどうするか。
 矛盾、九条一項と、実質的に軍隊たる自衛隊の存在。
 ソリューションは三つ。
  一、憲法を改正して現実に合わせる。軍隊合憲、疾しさのない集団的自衛権の行使。
  二、現実を憲法に合わせる。自衛隊の縮小解体。
  三、現状維持。九条もそのまま、自衛隊もそのまま。
 最も正しい選択肢は三、現状維持である。
 
 平和憲法自衛隊は、戦勝国アメリカにとって矛盾のない解であった。
  一億玉砕の危険な国に、もう戦争をさせてはならない。
  一方で、アジア圏の秩序や対ソ連にとって衛星的な軍隊駐留地が必要である。
 アメリカの論理明快な政策を「矛盾」とみなしたのは敗戦国日本の側の事情である。
 
 「敵国に攻撃されるのはイヤだが、もう他国を侵略する過ちは繰り返したくない」
 九条と自衛隊の相補的な存在が、戦後の国民のまっとうな思いに応えてきた。
 戦後七〇年、自衛隊が外国で一人も殺さなかったのはその功績である。
 今すべきは「矛盾」に正当な位置を与えること。
 「矛盾」による役得の認識、とその経緯、たとえば軍事的属国の認識。
 アメリカからの押しつけ憲法というなら、国民投票で選び直しをする。改憲せずに。
 北朝鮮からの侵略に対しても、改憲がその解ではないことの認識。
 実際の軍事攻撃の「誰得」、東アジアのパワーバランス、日米安保条約

加藤氏は九条の本質は理念にあるという。
この点は「矛盾」そのものを本質とする内田樹の論と異なる、と氏はいう。
理念、世界平和という現実からかけ離れている理想。
高邁な理想は、空想であり現実とかけ離れているかもしれない。
それでも理想が大事なのは、それが意識され続けることで現実に影響を与える点にある
あるいは、理想そのものの偉大さや美しさよりも。


この理念の力に関して、吉本隆明の発言が紹介されている。
この中の「思想のオーソドクシー」というキーワードに、惹かれるものがあった。
 思想は一般人の考え方にくっついていくものであるべきである。
 追従という意味ではなく、庶民の考えとつねに火花を散らす位置にいること。
 人々の日常に寄り添い、影響を与え合って、形を変えていく思想。
 そのような思想が、まっとうさとリアリティを獲得していく。
自分がつねづね考えている「グラスルーツ」と、これは同じ基盤をもつ。

思想のオーソドクシーから、ふとハイゼンベルクの自伝の一節を思い浮かべた。
量子力学者の彼の対話的自伝は『部分と全体』という。
その中にあった「手続きのまっとうさ」という判断方法に関することである。
記憶を頼りに書いてみる。

 第二次大戦期のドイツで、ハイゼンベルクは研究のかたわら大学の教壇に立っている。
 ある時ナチス親衛隊に心酔する若者が研究室に彼を訪ねてくる。
 若者はナチスの理念、前大戦で屈辱を受けたドイツをいかに甦らせるかを滔々と語る。
 そしてハイゼンベルクがなぜナチスに賛同しないのかと彼を責める。
 彼は静かに答える。
  ナチスは正しいことを目指しているのかもしれない。
  彼らに従うことでドイツはよくなるかもしれない。そうならないかもしれない。
  そのどちらになるかは自分には分からない。
  しかし、暴力によって、反対者に対する粛清によってそれを目指す手続きは正しくない。
  自分は「まっとうでない手続き」が数多くの災厄を引き起した歴史に学ぶべきだと思う。
 若者は納得した顔を見せないが、彼は自室のピアノを弾き、彼らは和解して別れる。

主張の内容よりも、その主張のされ方を重視するという判断。
未曾有の混乱期、未来に何が起きるか誰にも分からない状況では、数少ない解となる。
けれどこの見識は、平常時でも変わらぬ効果を備えているはずである。

独裁者が大きな改革を断行するのではなく、成員の一人ひとりがその判断にたずさわる。
そのためには、個々人に理解が行き届くような長い議論も辞さない。
また、習慣の別名である現状維持が倣いの庶民の生活感情も無視しない。
劇的に変わるべきことも、段階を経て、あるいは迂回しながら、少しずつ変えていく。
民主主義のまっとうな発現の、これは一つの形かもしれないと思う。

「思想のオーソドクシー」は、民主主義が機能することを助ける。
「手続きのまっとうさ」は、民主主義が機能していることの一つの指標となる。

連想のつながりは、こういうものであったかもしれない。

 × × ×

 思想のオーソドクシーというのは、鶴見俊輔とともに筆者にとってかけがえのない意味をもつ、吉本隆明の用語である。思想の科学研究会編になる『共同研究 転向』所収のある座談会で、吉本は、こう述べている。
 

僕がどこに正当(ママ)性を認めるかということになるのですけれども、大衆の大多数が向いていく方向にどこまでもくっついていくのがオーソドックスだとかんがえます。大衆の動向に追従していくのではなくて、それと緊張関係にあって対決しながら、どこまでもくっついていくべきだというのが、僕が大よそ考えているオーソドックスであるわけです。

 思想はあくまでも世のマジョリティーの人々を相手にするのでないといけない。どんなに右寄りに保守化しつつあると見えても、彼らを否定せず、どこまでも彼らの動向に寄り添いつつ、「それと緊張関係にあって対決しながら、どこまでもくっついていく」。その働きかけを通じ、かつそのことを試練とすることで、思想は自ら深まり、生き生きと、人々にとって意味あるものであり続ける。筆者が考えるに、吉本の思想のオーソドクシーを、そう考えている。

「戦後から遠く離れて」p.105-106(加藤典洋『さようなら、ゴジラたち』)

「あれは想像です」、TVピープル、道路地図

土曜日の昼過ぎに呼び鈴が鳴る。
戸を開けると佇む女性。
日蓮宗の分派の勧誘。
歴史の遺物だと思っていたが。

キリスト教の、あの…シト…」
「ああ、エホバのことですか?」
「そうです。あれに比べると、規模は小さいようですね」
あれは想像ですから

勧誘員の、まことに当を得た一言。
それでもこの分派は日本全国で二百万人も会員がいるという。
50人に1人。
地域差は大きいようだが、珍しいという比率ではない。

「人は死んでから2時間ほどは耳が聞こえているといいます」
「亡くなられた方の耳元で念仏を唱えると、血の気が戻って髪も黒くなるんです!」
「…そういうことも、あり得ると思います」
「(笑顔)」
日蓮宗って、他の宗派より身体を使いますもんね。踊り念仏でしたっけ?」
「いいえ、踊りません」
「ああ、いや、起源としては、ということですが」
「?」

正直なことが言えず、ひたすら相手の話を聞いていた。
端的に伝えても気を悪くするだけだろう、と思い。

宗教に興味はあるが、自分が信仰を持つことはない。
関心があるのは「人がどのように宗教を必要とするのか」、
あるいは、宗教を媒体として前面に押し出される人間性

科学も宗教的な性質をもつが、それはひた隠しにされている。
「迷信じみた宗教を否定する合理性」という表の顔のもとに。
ただ、人類の宗教との関わりは文明以前に遡る。
科学が宗教性を隠すほど、宗教が社会の中で大きくなっていくのだろう。

p.s.
この記事を書き終えた直後に、また件の女性が来た。
話を聞くうち年配の女性も加わり、宗教を軸に政治や歴史の話をする。
そのあいだの2時間、玄関の板間に正座していた。
足の痺れはそれほどなく、冷えたのでお湯シャワーで膝以下を温めた。

脚の忍耐力も大したものである。

 × × ×

とても、ものすごく、よくわかる。

 TVピープルが部屋に入ってきてから出ていくまで、僕は身動きひとつしなかった。一言も口をきかなかった。ずっとソファーに横になったまま、彼らの作業を眺めていた。不自然だとあなたは言うかもしれない。部屋の中に見知らぬ人間が突然、それも三人も入ってきて、勝手にテレビを置いていったというのに、何も言わずに黙ってそれをじっと眺めているなんて、ちょっと変な話じゃないか、と。
 でも僕は何も言わなかった。ただ黙って状況の進行を見守っていた。それはたぶん彼らが僕の存在を徹底的に無視していたからじゃないかと思う。(…)目の前にいる他人からそんな風にきっちりと存在を無視されると、自分でも自分がそこに存在しているかどうかだんだん確信が持てなくなってくるものなのだ。ふと自分の手を見ると、それが透けて見えるようにさえ感じられる。それはある種の無力感だ。呪縛だ。自分の体が、自分の存在がどんどん透けていく。そして僕は動けなくなる。何も言えなくなる。(…)うまく口が開けない。自分の声を聞くのが怖くなる。

村上春樹TVピープル

カフカの作品は寓話ではない、と保坂和志はいう。
ところでこれは寓話である。
でも話は簡単じゃない。

この話が寓話であるのは、テレビが寓話的であるという意味においてだ。
言い換えると、「現に(たとえばリビングに)テレビがある生活風景」としては現実的である。

三人のTVピープルは寓話的存在だが、彼らは現実の生活に登場する。出没する。
そして、現実に触れることで寓話的でなくなるTVピープルは、寓話以上の存在である。

だから怖い。恐ろしい。

TVピープルを見ることは、
自分もTVピープルになることだから。

 × × ×

ツタヤに行って「全日本道路地図」を買いました。3300円。
岩手で花粉が猛威を振るい始めたら、南へ逃げます。
「事のついで」に。
ふふふ。

身をやつす、苦労の「言い値買い」、Y.Kのこと

朝食時に『小説修業』(小島信夫保坂和志)を読み始める。
ハシモト氏の「貧乏は正しい!」シリーズはこの後になりそう。

週に一度の洗濯は朝起きて食器を洗う前に洗濯機のボタンを押す。
1時間の暖気なし乾燥「風乾燥」を含めて、朝食を終える前にブザーが鳴る。
朝食こもごもで2時間ほど経過している模様。

私はデビュー作の『プレーンソング』からしばらくのあいだ、私に似た語り手を設定するにあたって、<身をやつして>いました。<身をやつす>というのは、語り手が普段の私と同程度に考えたり感じたりするのではなくて、見ないようにする部分、考えないようにする部分、そういうところが語り手にあるということです。(…)私が身をやつさないように心がけるようになったのは、その一年後の『猫に時間の流れる』からだったのですが、『プレーンソング』や『草の上の朝食』の語り手が身をやつしていたのは、意図していたことではなくて、あの頃はそうしていないと書けなかったのです。「書く」というのは必ず何か枠組みを必要とすることで、はじめの頃の私は、<身をやつす>という枠組みを必要としていた、ということです。p.35-36

小説家が「書く」のと同様、勤労者が「働く」においても枠組みを必要とする。
会社の規則や人付き合いという外部の枠組みのことではない(無論それもある)。
個人の内側においてのこと。

次に働く時は<身をやつす>必要があるなと思う。
一度染まれば戻れないと、過去の自分は思っていた。
それは間違いであり、どうしようもなく正しい。
未来は見通せず、過去には戻れない。つねに。

仕事に<身をやつす>のは、余計なことを考えなくなることではない。
ひとまずは「考える土台」を疑わない、ということ。
土台とはすなわち、その仕事によって成り立っている生活。
思考と言葉にディテールが生まれるのはそれからのこと。
生まれざるを得ずして、生まれてくるもの。
評価分析以前の立ち位置。

 × × ×

 松柳、教室にて余に「君ほど幸福なる者、この学校にあらず」という。
「?」
 と、顔を見るに、「君ほど本をよく読んでいる人間はこの学校中になし。人間は精神的苦労をせねば立派なる人間になれず」という。
 余は真に苦笑せり。背に粟の生ずるを覚えたり。(…)
 余答えて曰く「君の言葉によれば、本を読むことと精神的苦労とは同一のごとく感ず。然るや?」
 松柳曰く「然り」而してふしぎそうな顔なり。余は微笑を禁ずるを得ざりき。
(…)
 而して余心中思えらく、松柳若し余の、口から出まかせの諧謔と、刺すがごとき皮肉と、冷たさと虚無と憂鬱と投げやりの外観に魅せられたるならば、その光栄は書にあらずして、余の過去の担うところなり。
”精神的苦労”は、人間と人間とのきしりより生まる。おのれと、それにひとしく卑小なる周囲との、おそらく愚劣極まる小事をめぐる魂のたたかいより生ず。而して夢それを羨むことなかれ!
 松柳、愛にみてる父母と優しき妹を有し、靄々の故郷を有す。かくして苦も知らず悩みも知らずすくすくと杉の木のごとく、素直なる、鷹揚なる、明朗なる品性に育てあげらる。これにまさる幸福、人生の価値いずこにあらん。余の”精神的苦労”こそ文学的片影、小説的魅力など毫もあらざる惨めなる、滑稽なる、悲惨なる魂の地獄なりしを。

「五月」p.183-184(山田風太郎『戦中不戦派日記』)

そうかもしれない。
去年春に会った小学校の元担任は、自分のことを「温室育ち」と言っていた。
そうかもしれない。

温室にしろ路傍にしろ、育ちに応じて向き不向きは生じよう。
ただ、適性に従うのが苦労を回避するためというのなら、御免こうむりたい。

苦労の値段は日に日に上がり、とどまるところを知らず。
稀少価値に阿る市場の、何ぞこれのみ避けたるか。
金の使い途に困らば、苦労をこそ買うべし。

 × × ×

「温室育ち」のコンテクストを思い出す。
先生は「Kさんもそうだったわね」と言ったのだった。

子どもの頃の記憶として、中学時よりも小学時に、より濃い彩りがある。
記憶が脈絡を欠いた断片しかなく、その個々は視覚的に曖昧であるにもかかわらず。
そのせいか、旧友として会ってみたい人は小学校の方が多い。

Kもその一人で、教え子の消息を多く知る先生に尋ねると、先生は首を振った。
そのかわり、当時の彼女の印象と、あるエピソードを教えてくれたのだった。
その印象とエピソードは、僕にはかなり意外なものであった。


生徒会で僕が副会長をやっていた時に、同じく副会長をやっていた。
生徒会は、会長、副会長男子、副会長女子、書記で構成されていた*1
小学四年から六年の高学年クラスの中から、各役職に対して数名ずつ立候補者が出る。
その生徒会役員が全て1つのクラスから選出された、異例の年(半期)だった。

彼女について、「テレサ・テン」という言葉がまず浮かぶ。
だがこれは実際のところ、「テレサ・テン」ではなく「テレサ」である。
「だるまさん」の要領でふわふわと追いかけてくる、マリオに出てくるお化けのこと。
パッと言葉が出るところからして、当時すでにもっていた印象に違いない。
今それを解釈すれば、髪型(を含む頭の形)と、大きく開けた口。
彼女は明朗闊達で、とてもよく喋る子だった。
その奥に繊細ななにかがあるとは、つゆとも思わなかった。


「あの頃からどう変わったか」
その興味は、小学時代を共にした多くの友人に共通してある。
ただ、彼女に会ってみたい理由はそれだけではない。
「ほんとうはどういう人間であったか」
隠れていた、あるいは隠していた一面は成長を通じて形を成し、やがて顕在化する。
もしそうなら、長じての再会は過去の記憶に新たな彩りを添えるものになるだろう。
そして何より、それは僕自身と近しい一面であるかもしれないのだ。

僕が心配する義理はどこにもないが、
地元であれどこであれ、元気にやっていればいいのだけれど、と思う。

*1:書記は1人だったと思うが、2人だったかもしれない。

原発神話と小商い、精神の貧乏性

『小商いのすすめ』(平川克美)を読む。
SIMは村松健「北帰行、ついておいで」。
汎用性の高い一曲。小説以外の、思考を巡らせる本でよく流す。

「経済成長から縮小均衡へ」の章で、橋本治氏の本の引用がある。
自分も全巻持っている『貧乏は正しい!』の初巻。
 若者は本質的に貧乏である。
 若者の力は貧乏に発する。
 社会が力の無さを富で隠蔽する時、衰退は始まっている。
平川氏はこの内容を「貧乏とは野生の別名である」と読む。
 戦後から東京オリンピックまでの復興期の、日本の大人にあったもの。
 貧乏は金の無さ、住まいの貧しさとは関係がない。
 進歩発展の余地があり、それに取り組める環境があるということ。
 復興期の世間の明るさは「貧乏なれど」ではなく「貧乏がゆえ」であった。
この貧乏=野生論が東日本大震災原発人災に結びつけられる。
 震災で崩れた原発神話の擬制は「富による隠蔽」の典型であった。
 原発の、万一の災害コスト、核燃料の処理コストの転嫁。
 一、立地自治体への迷惑料。一、原子力系技術者の抱え込み。
 擬制の欺瞞に対抗するための「野生の復権」。
続きも気になるが、自分は違うことを考え始めた。

小商いは上記の貧乏と深い関係がある。
復興期は「生活上の必要物資の需要拡大」があったが、今はない。
平川氏の「野生の復権」の展開はもちろん小商いベースになされる。
 消費者と生産者が共同でつくりあげる商いの場。
 その場になくてはならないのは、生産者の丹精が込められた商品。
つまりモノベースの商売における貧乏=野生性の復活について語られるはずだ。

 × × ×

一方で、自分は精神面の貧乏性について考えてみたくなった。
ハングリー精神、という言葉があるが、これとは違う。
精神に進歩発展の余地があること。
これはどういうことか。

モノの充実とはあまり関係がない。
むしろその充実は「余地」の感覚を鈍らせるだろう。
いや、そうとも限らない(森博嗣の例がある)。
清貧は生活における精神の活動をシンプルにしうる。
シンプル、つまり単調、単純。
経済の均衡は望まれても、精神の均衡は、おそらく進歩発展とは別方向にある。

生命活動のリソースを脳へ多めに振り向けること。
逆からいえば、身体性にあまり配慮しないこと。
文学者、昔の文豪などはこういうイメージがある。
これは、自分が好まないとは別に、これも違うと感じる。
なぜだろうか。

「人間は必ず自分の意思とは異なることを実現してしまう」
平川氏が本書で引用していたアダム・スミスの言葉(『国富論』)。
この人間の本性を表す言葉は、いろんな位相において解釈できる。
が、ここでは解釈よりは言及を優先する。

ものが豊かになった社会は、この人間理解から遠のいてしまう。
自分の意思を実現できる機会に恵まれている、と思うために。
「将来への不安」が漠然とするのは、このせいではないか。
想像通りの、不都合の特にない、勝ち組*1的な生活が私達にはできている。
できているはずなのに、どこか満足せず、なにがしかの不安が消えない。
そしてこの不安の元をたどることを考えず、見なかったことにする。
これは精神に進歩発展の余地がある状態ではない。
精神の荒廃かといえば、そうでもない。
精神が不用であり、不要な状態なのだ。
…どうもこの手の思考は反知性主義に落着してしまうらしい。


精神の貧乏性について、否定表現を連ねようと書く前は思っていた。
精神の貧乏性とは、あれでもない、これでもない、という風に。
変化への意志である、などと言い切りたくはない。

進歩発展は、経過、プロセスである。
目指すもの、到達すべき目標があり、そこへ向かって歩みを進めている状態。
精神の貧乏性も、その維持は、プロセスである。
ただ戦後復興期と違うのは、定まった目標がないこと。
変化への意志という表現も、一つの目標を意味するものではない。
上述「言い切りたくない」のは、それが自己目的化してしまうからだ。


分からない。
行き詰まった。
なぜか分からないが、「精神の貧乏性」が自分には良い言葉に響く。
橋本治氏の『貧乏は正しい!』シリーズをもう一度読み返してみようかと思う。
広告時評の連載『ああでもなくこうでもなく』全6巻はつい最近読み返したところで、
多少食傷気味だと思っていたが、そうでもなくなったかもしれない。

そうだ、一度読んだ本を再読することへの抵抗がここ最近の自分に見られた。
「前へ進まねば」という意識がそうさせていた。
再読は、過去への安住を求める気弱さを助長する。
もちろんそういう面もある。
そしてもちろん、そうとは限らない。
新たな問題意識を獲得した時の再読は、新たな発見を導く。
たとえば、今のような。

新刊で本を買わない習慣が、この時々の弱気さを生み出しているのだろうと思う。

*1:どこで読んだか、「勝ち組」の語源は、ブラジルに入植していた日本人の中にいた、戦後に決して日本の敗北を認めなかった奇特な一集団を指すそうです。