human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

reality stimulates vitality

リアリティ(現実性)について。


言葉の理解は、文脈を通じて現れる。
辞書的な意味の暗記ではなく、異なる様々な使用場面が複合的に頭に展開されることで「体得」される。

「これはなかなかリアリティ溢れる小説だ」
「Sさん? ああ、あのタンクトップのリア充っぽい人ですよね」
「その話は非現実に過ぎる」
「生活を感じさせる家具が一つもない、現実味のない部屋」
「『リアリティって何や』て思とる、君の頭はリアリティ満載やで」

リアリティとは、プロセスに冠される言葉ではないかと思う


客観的な存在であるリアル(現実)に対して、本来「現実性がある」とは言わない。
リアルでないはずのものに、リアルさを感じて初めて、リアリティという言葉が登場する。

本来、と言ったのは、実用上、そうでない場合があるからだ。
たとえば、リアルに対して「リアリティがない」と言う場合。
それは、リアルであるはずのものに、リアルさを感じない状況の表現であるはず。
しかし、これは少し妙だ。
ここでは、「リアル」と「リアルさ」は違うものであるように受け取れる。
それがリアルなら、誰がどう感じようが、リアルに違いはないはずなのに。

リアリティとは、リアルの感覚的な把握との比較において成立するようだ。
比較が生み出すのは差異であり、リアリティ(の有無)は差異の発生に起因する。
プロセスは、時間を変数にもつ差異である。


リアリティを感じる対象。
それは、リアルになりつつあるもの、である。
これは先に触れたことを逆に表現したものだ。
つまり、リアリティを感じない対象は、
リアルを失いつつあるもの、であるとも言える。


「リアリティ溢れる小説」は、現実的にある、社会で実際に起こっていることが確実な話、のことではない。
そうではなく、それは「現実的にありそうで、起こっていてもおかしくない」話なのだ。

ノンフィクションが持ちえない小説の魅力は、このリアリティである。
社会の闇でも裏社会でもいいが、丹念な取材に基づいた事実と記録の提示は、取り上げた事件の「確実性」を強調することで、それがリアルであることを論証する。
だが、リアルであることそのことに対しては、リアリティを感じない。
ノンフィクションにリアリティを感じることがあるとすれば、それは「リアルに限りなく接近していく様」の描写にある。
それがノンフィクションの魅力なのかもしれないし、ノンフィクションならではのリアリティかもしれないし、あるいはリアルの確実性を論証し切れなかった半端ものにだけ言えることかもしれないし、この魅力自体が小説に属するものかもしれない。
この一節は、ノンフィクションを全く読まない人間の憶測である。


「非現実」という表現は、生活や空間に対して使われる時、薄っぺらさという意味をもつ。
小説においても、現実においても同様に。
似た表現を探っていくと、何かが見えてくる。
薄っぺらさ、それは「何も立ち上がってこない」という予感。
動きがない、変化がない。

インテリア雑誌で、調度の行き届いた隙のない部屋の写真を「現実味がない」と言う。
これは、生活感がない、と言いかえられる。
この逆を考える。
「生活感がある部屋」は、ソファの上にシャツやズボンが(だらしなく)引っ掛けてあったり、テーブルの上に染みのついた(飲みかけの)コップがあったり、キッチンに掛けられたヘラやお玉のメーカー(色)がばらばらだったりする。
そういう部屋を、住んでいる人の性質が連想される、と言ったりする。
「生活感のある部屋」のリアリティは、この連想にある。
どういう人がここで生活しているのか、を、「確定できる情報が散在している」のではない。
生活者を、様々に、想像できるというプロセス(可能性)にある。
その内容は、想像する人それぞれに異なる。

つまり、リアリティの備わるプロセスには「個性」が介在している


リアリティは感覚的なものである、と言った。
それは、リアリティが対象に帰属するものではないことを意味する。
つまり、何かにリアリティを感じるその人の側の問題なのだ。
根本的には、という意味ではあるが。

 × × ×

先に書いたことに再度触れる。

「リアルになりつつあるもの」に現実性を感じる。
「リアルを失いつつあるもの」に非現実性を感じる。

そして、この稿を書くきっかけとなった一節を抜粋する。

 虫や魚や爬虫類はグレイゾーンに置いておくとして、哺乳類や鳥類となると「リアリティ」ではないにしても、その起源となるようなものを感じているのではないかと私は思う。そのように思うとき「リアリティ」は、進化の系に一貫して流れている「生きようとすること」と強く結びついていると、私は感じているらしい。

「第6章 「リアリティ」とそれに先立つもの」p.98(保坂和志『世界を肯定する哲学』ちくま新書283)

こう並べてみて、
生命の本質は変化にあるという日頃の認識に、
次の一文を加えたいと思う。

「リアリティへの感度は生命力と深い相関がある」

と。

 × × ×

世界を肯定する哲学 (ちくま新書)

世界を肯定する哲学 (ちくま新書)

Walking Margarine

Wシリーズ一作目、読了しました。


 × × ×

「逆に言えば、先生の研究は、両者の差を明らかにすることですから、その差をなくすためにも必要な知見なのでは?」
 ウグイの口から、それが出たことに僕は驚いた。グラスの液体を全部喉に流し込んでから、椅子の背にもたれて上を見た。

森博嗣『彼女は一人で歩くのか?』

差異の認識が、同一化への足がかりとなる。
この逆説的なメカニズムの汎通性をふと考えてみたくなる。

学力テストの点数。
80点で満足していた学生が、友人の100点答案を見せつけられ、奮起する。

地方の名水の成分解析
独特と思われた味が、ある元素の含有率に起因すると分かり、人工的に製作される。


差異の認識というキーワードから、すぐ連想する事柄が2つある。
 一つ、仕事の細分化、研究分野の蛸壺化。
 一つ、知の発展が未知を生む、インタレクチャル・ネスティング・エンジン。
これらの事象に、当てはまるか否か。
あるいはその関係は。


専門分野がどんどん枝分かれしていき、同業者すらまともに議論できないほどマニアックな、重箱の隅の米粒を有難がる研究志向の本質は、知の無機化である。
自分が扱う対象に対して、随意に既知と未知をラベリングできるという傲慢。

「未知の知」の発動は、知性的活動のルールに忠実な、堅実さが前提される。
着実な一歩を積み重ね、固めたはずの足元が発見や偶然で崩れ落ちるのにめげず、自分が生きている間にゴールに辿り着く目算が立たない不安を抱え、人類知の夢と同輩の共感という願望に支えられながら、粛々と日々を送る。
ゴールがプロセスの礎であるという、ニヒリズム紙一重の自覚。


関係はもはや明らかだ。

差異は現象である以前に認識である。
差異が認識である以上、それは手段である。
手段の運用は、主体の意志に任される。


僕は「それ」と、同じでいたいのか、違っていたいのか?
なぜそう思うのか、その先に何を見ているのか?

 鏡に目があり、
 もう一つの鏡に自分を映して、
 その目が捉えるのは、
 自分か、相手か?

 光速は、ウサギとカメの、どちらだろうか?

 結局のところ、すべては、人の心がどう捉えるのか、という問題に帰着する。子供が生まれるとはどういうことか、生きているとはどういうことか、人間とは何なのか、そして、この社会は誰のものなのか……。
 きっと、それらをこれから長い時間をかけて考え、話し合い、少しずつ新しい思想を受け入れていくしかないのだろう。
 科学者の僕たちでさえ、まだしっかりと決められないのだ。一般の人たちが議論をするには、少し早いかもしれない。時間がかかるだろう、きっと。

同上

Fractal Apoptosis

 因果関係は、幻想かもしれない。


「鶏と卵の関係」とは、互いに相関のある二つの事象に対して、原因と結果を割り振れない状況をいう。
その起源が深い籔に覆われた、不確定な現象。
僕らはそういったものに出会うと、片付かない気持ちになる。
不安、といってもいい。
なぜなら、それが無限に広がりうる可能性を、言わないまでも察知しているからだ。

ただ思うに、
それは本当に、不安なのだろうか?
その不安は、不安でしかないのだろうか?


比喩について考えてみる。
栗鼠のような人間と聞けば、機敏な所作や、ものを堅実に貯め込む性格を思い浮かべる。
あるいは、間隔の開いたつぶらな一対の瞳という、顔の特徴もありうる。
ある人物を栗鼠に喩えた場合、栗鼠は彼の比喩である。
次に、この相関を前提として、こう考えてみる。
彼は、栗鼠にとっての何だろうか、と。
それにふさわしい専門用語があるか、受動形を付すか、いくつか想定はできる。

けれど、事はもっと単純なのではないか。
すなわち、
栗鼠が彼にとっての比喩なら、彼もまた栗鼠の比喩である。


夕食を自宅の冷蔵庫にある野菜で作るとする。
いくつかの野菜のほか、卵はあるが肉はない。
塩胡椒に加えて、旨味を引き出す香辛料が欠かせない。
例えば、キムチ野菜スープには生姜とコリアンダーを入れて、底味を堅める。
完成したスープは、野菜だしとキムチの化学的舞踊が堅実な基礎の台上で展開され、満足のいく味を発揮する。
香辛料を加えたから、スープが旨くなる。
その逆ではありえない。
これは、経時的現象として疑い得ない事実。

だが、本当にそうだろうか?
なぜ、僕は調理中に、コリアンダーの瓶を手にしたのだろうか?

彼らを足せばスープが旨くなる、と思ったからではないのか。
すると、想定されたスープの旨味は、香辛料の使用に先行した存在といえる。
つまり、
スープが旨いから、香辛料を加えたのである。

相関関係の因果が一方向に定まらない場合、それは因果関係とはいえない。



現実とは、客観性という限定が嵌め込まれた世界である。
リアリティにとって、その限定は必要条件を構成しない。
因果関係は、現実内の観察対象に、客観性の枠を維持したまま付与される。

客観性の限定を必ずしも受けないリアリティの意味、
ここで取り上げた効果の一つ、
それは、
因果が相関に呑み込まれる、ということだ。

時間は存在する。
ただ「時計回り」という決められた方向がない。
リアリティにおいて、時間は変化に限りなく近づく。
不変は変化の一部となり、一例に成り下がる。


脳の神経回路、シナプスの発光、経路の発生と増強。
あるいは、脳の生理レベルの活動においても、方向性は瑣末な事柄かもしれない。
ある神経が、どのような経路を辿って、別の神経と繋がったのか。
重要なのはその経路ではなく、神経同士が繋がっている現象の方ではないか。
そして、リンクの存在は、繋がり続けること、不変を志向するのではなく、新たな繋がりを生むこと、変化を志向する。

礎の自覚と、衰微の受容。
ミクロな自死の集積によって、有限で無限の、つまり有期限で無辺際の意識活動が成立する。


フラクタルアポトーシス
人間の自死は、意識か、それとも……

Ouroboros Optimization

森博嗣のWシリーズを先日、図書館で借りて読み始めています(第一作の『彼女は一人で歩くのか?』)。
本が薄いなと思いましたが、無駄が排除されたシャープな印象を、Vシリーズ(これも先日から電車内用に『赤緑黒白』の再読を始めました。文庫版は表紙がオシャレなのでカバーいらずで読めます)と比較するとはっきり持てます。

一方で、十年以上前に芥川賞だったかをとった円城塔の作品を読んで気に入ってからの縁読(今命名しました。いいですねこれ。でも「えんどく」の他の変換候補がどれも仰々しい)で伊藤計劃を知り、円城氏が伊藤計劃の未完遺作を書き継いだ『屍者の帝国』をはじめに『/harmony』を読み、そのマンガ版(今どきの隙のないデジタルな絵風なんですが、表紙の女性の沈鬱な表情が気に入って手にしました)は今読んでいて、それと同時に購入した『伊藤計劃記録』は短編と雑誌掲載のエッセイが混ざった本です。

伊藤計劃記録

伊藤計劃記録

『彼女は一人で歩くのか?』も『伊藤計劃記録』収録「from the nothing, with love」もSFで、人間とは何か、人間性の科学的な測定は可能か、という同じテーマを含んでいます。
この二作品を併読していて、ちょっと思考が刺激されて、それは端的にタイトルに表現したようなことなんですが、その中身をメモしておこうと思います。

 × × ×

「最適化」という思考は、これは計画やプログラムとも言えますが、ある目的に至る手順の無駄や非効率を排除するために行います。
余談ですが、僕は大学で所属した研究室のテーマが「最適設計工学」だったので、この言葉には通常の(辞書的な)意味以上のものをいつも思い浮かべます。

最適化を数値計算で行うには、目的関数f(x1,x2,...)を設定するために、fの影響因子x1,x2,...を決定します。
影響因子はつまり変数で、これらの変動に従い計算されるfが最大(小)値あるいは極大(小)値をとった時に、その変数値の並びを最適化された状態と呼ぶ。
もちろんのこと、目的関数と影響因子を設定する段階で、解析対象である現象はいくらか捨象され、単純化されます。数式で表現しようのない事象は無視され、二次元軸上にプロットできるデータ群は近似曲線で表される。

メモの要約は次の通りです。

 最適化の対象は、最適化によって無駄が排除された、単純な存在となる。
 最適化の作業は、現象に具象と抽象の境界線を引く、複雑な行為である。

飛躍。

 最適化の作業は、人間が、人間(的)でないものに対して行う。
 あるいは、最適化の対象は結果として、その人間性を喪失する。


『彼女は一人で歩くのか?』の主人公は、「思考の人間性を判定する測定技術」を扱う研究者です。
見かけでは判断できない一個体をその測定にかければ、人間とウォーカロンを区別できる。
しかしその技術を元にすれば、「その測定をパスする技術」の開発も可能となる。
つまり、人間的に思考する(と測定器に誤診させる)ウォーカロンを製作し得る。
イタチごっこ

それにはなるほどと思い、そのすぐ後で「from the nothing, with love」を読んでいて、ごく単純化していえば「人間の最適化が極まると意識が不要になる」という物語のテーゼが出てくる場面を読んだ時に、これはこれでなるほどなんですが(池田清彦曰く、進化論的には人間に意識は不要だそうなので)、恐ろしい連想が浮かんだのでした。

 「思考の人間性を判定する測定」に、全き人間がはじかれる可能性。
 正真正銘の人間が、ウォーカロンと誤診される可能性。

 × × ×

タイトルについて再び。

上の飛躍を受け継いでの話なんですが、
最適化、たとえば都市計画なんかを思い浮かべればいいんですが、
そういう最適化は人間を対象にしていて、
そしてその計画主体も対象に含まれているわけで、

 ごく人間的な営みが自分自身を非人間的にしていく

という構図が思い浮かびました。


何かすごく、普遍的なことに繋がる気がしているんですが、もしかして、当たり前なことなのかもしれません。
それに恐怖を感じることが、一時の流行として遠く過ぎ去ったかのような。

そういえば、ポパー、クーン、ファイヤアーベントといった科学哲学者に興味を持っていた大学三回生の頃も、こんなことを考えていたような気がします。

根っこのところは、変わっていませんね。

石黒浩と森博嗣

『"糞袋"の内と外』(石黒浩)を読了しました。

序盤を読みながら、何度か『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』(森博嗣)の内容を連想し、それもあって、この二人は似ているかもしれないと気付きました。
一度そう思い込むと不思議なもので、いろいろな符合を見つけることができます。
まず二つ上げれば、それは「研究者」であり「孤独」であること。
前者は「探求者」と言ってもいい、現在の森氏は完全に隠遁趣味人らしいので。

こんなに(と説明なしで使いますが、つまりただの感情的表現)似ているのに何が違うのかといえば、文章を書く姿勢、だと思います。

石黒教授は、思っていることを、そのままズバリと表現する。
以前の著書を読んだ時に僕は、その本のことを「生データの宝庫」と呼びました。
実験内容とその結果・考察が、純粋に科学的な目線で展開されている。
その考察のうちには教授自身の興味が多く混ざっているはずですが、その個人的趣向すら、客観性に通じている。
文学や詩の性質を全く備えていないはずなのに、その極端な直截性が「科学の彼岸」を垣間見せている。
こういった著書に関する印象は、今回の本も変わりません。

一方で森氏は、言語出力にさほど意味を追求していない。
いや、意味の厳密性を求めていないという意味で、その曖昧さ、ロバスト性が、言語表現の新たな地平の模索となっている。
例えば、多くのミステリィ著作には氏の自作の詩がついており、また何と言ったか、著作の各章冒頭にその一節を引用するための過去の名著が一冊ずつ選択されている。
詩は、リズムつまり韻や拍子を有し、使用された語のもとの意味と、そのリズムによって普段はありえない語同士の組み合わせによって新たに生じた意味とが未知の反応を起こす。
氏の著作と引用作品(の一節)との関係も然り、引用作品は過去の有名なミステリィアガサ・クリスティとか『盗まれた手紙』とか)の場合もあるが、『武士道』(これはVoid Shaperシリーズだったかな)とか『数学的経験』とか、流体力学の基本書とか、著作との関係性が必ずしも分かりやすい選択になっていないことも、詩的な感覚がはたらいているからだと思う。
(いや、「著作のモチーフとして引用作品を選ぶ」のは、わりと一般的なことかもしれない)

司書講座でよくつるんでいた友人が、森氏について「彼が真賀田四季以外のことを書く必要はない」と言っていたが(なんとも傲慢な友人である。ちなみに彼は絵描き、「画伯」である)、その気持ちは理解できるものの叶わない願望だと思うのは、たぶん「天才(性)を直截的に文章化しても理解できない」からだ。
凡人の理解を遠く離れた存在を天才と呼ぶなら、どう書こうが一緒だとも言えるが、理解云々とは別に、努力なり志向の先鋭化なりによって、天才の境地に至ることは可能かもしれない。
(小説中の話ですが、最近『四季 冬』を読み返して、犀川創平が四季と同じ思考回路を持っている(と四季が評価している)ことを知りました。CPUのクロック数を別にすれば犀川も「天才」で、しかし彼は一般人の社会に住んでいる。というこのことは希望であり、同じ希望は石黒教授の今回の本を読み終えて感じたものでもあります)
天才の定義自体に興味はありませんが、天才がそう遠いものでもないと思えることに意味があるので書きますが、天才を素質やら能力の卓越性と見るのではなく、指向性・志向性の問題として捉えることもできる、僕が「希望」というのはこの意味においてです

書きながらどんどん飛躍していきますが(というのも石黒教授の本を読んでいる間は天才のことなんて頭の隅にもなかったからです)、本書の内容を鑑みれば、天才性と人間性とはイコールである、と言うことすら可能になります。
もちろんこれを「自分は天才なのか」とも「自分は畜生以下か」とも解釈できる、これが矛盾であり、進化の可能性でもある。


 × × ×


以下、『"糞袋"の表と裏』からいくつか抜粋します。
それに合わせて、本記事冒頭で触れた森氏著書の連想した部分を引用しようと思ったんですが、具体的にその本を当たっているうちに、別の本もいくつか混ざっていることに気付きました。
とりあえず並べてみて、何か書ければコメントします。

 先の人間の定義の中で、人間は肉体的には定義できないことを議論した。肉体が機械に置き換わっても、人間は人間であり続けられる。そうであるなら、脳の活動を何らかの方法でコンピューター上で再現することができ、私の脳の活動と他人の脳の活動が、ネットワークを介して関わることができれば、そこには人間の社会が存在し、「私」とは何かを探し続ける人間が存在していくのかもしれない
 純粋精神的存在としての人間は、自分にとっては理想的な姿のようにも思える。日常の煩わしさや物理的な身体を持つことの煩わしさから開放され、人間として最も重要な「私」を考えることだけを純粋に遂行して永遠に生き続ける

第一章 私はだれ? p.67

 しかし一方では、彼女の大部分は暗闇の中に沈み、静座し、見るものもなく、聞こえるものもない。純粋均質な無の空間に浸された自分と、それ以外のすべての存在の相互連関について、既に構築された数々の構成則を修正、微調整する作業に没頭していた。すなわち、意志の存在とはネットワークの成長にのみ顕在化する、という単純な予想は、未だに覆されていない

 死者は泣かない。
 泣くのは生者だ。
 可哀想なのは、いつも、残された者たち。
 死んだ者は、自由を得たのか?
 生きているからこそ、考えることができる、という発想が既に不自由だ。それに気づかないのは、何故だろう? 誰も死んだことがないから、その自由を想像できないから、ただそれだけなのか?
 生命活動の束縛を断ち切ることは、充分に可能だ。
 理論的に、技術的に、可能なのだ。
 人間には、それができる。
 肉体が死んでも、生きることができるはず。
 それを受け入れることさえできれば。
 そのとき、初めて、人は真の自己を認識するだろう


森博嗣『四季 冬』

両者はほぼ同じことの言及、同じ状態への志向だといえます。
「身体の煩わしさ」については、四季は何度も言及しているし(犀川はそうでなかったかもしれません)、森氏自身もエッセイで触れていたような気がします。

 自己意識を作り出している物事の解釈は、本来周りから与えられたもので、今もなお、環境の影響を受けながら自己意識は作り上げられ、変化している。
 思うに、自己と環境の境界は曖昧で、自分を意識するときの注意は常に、自分と社会や自分と周りの者との違いに向けられている。人を見ながらあの人と僕はここが違うとか、あの人はあの食べ物が好きだけど、僕は好きじゃないというように、人を見ることで自分を発見し、それが自己認識につながっている。そういう意味では、自己認識という意味の意識は自分と他人、自分と自分でないものの境界に存在する

 第一章で、人間は感覚器の集まりでできた糞袋のようなものだという話をした。糞袋は世界の中に存在するのだが、その糞袋を裏返しにすると世界が自分の中に入ってくる。そのように考えると、世界の中に自分がいるか、自分の中に世界があるかは問題ではなく、世界と自分を分けるのが自分であるということに気付く。
 
第四章 つながりと社会 p.156, 158

「つまらないなんて言いだしたら、なにもかも全部つまらない。最初からずっとつまらないよ」
「そうでもない。面白いものもあった。沢山あったわ」
「今はそれがない?」
「たまたま今だけないのか、これからずっとないのか。私の周囲、外側の問題なのか。それとも私自身の、内側の問題なのか、まだ判別がつかないの」
そもそも、その両者は別のものなのかい?
外側と内側が?
「そう」
「さあ、どうかしら。確かに、それを明確に区別する一線は存在しない。私の外側にも、私は進出している
「内側にあっても、君がコントロールできない領域もある。それくらい、僕は知っているよ」
では、内側という概念を再構築しましょう。私がコントロールできる範囲を、私の内部と定義します


森博嗣『四季 冬』

後者の抜粋について、これは四季と其志雄の会話ですが、其志雄は四季が幼い時に「吸収」して内面化した人格なので、四季の内部ネットワーク上の会話です。
四季は天才で、ではこれは天才特有の現象かと小説を読んでいる間は思ってしまいますが、前者の石黒教授の言葉と合わせると、これは一般的な現象であって、一般的でないのは「それが言葉として明示されること」の方であったことがわかります。

 さらに、自由になるということは、都合の悪いこともいいことも全て受け入れて、その両方の根幹に横たわる、より深い問題に思いをはせる。つまり、より根本的な問題に興味を持つということであろう。
 より根本的な問題を考えるとき、自分に都合がいいとか悪いとかは関係なくなる。
 現実の世界に生きていると、日常の表層的な問題に一喜一憂することがある。それゆえ、不自由や不幸せを感じることが多い。しかし、その表層的な問題の根幹となる問題に興味を抱けば、表層的な不自由や不幸せに悩まされることはなくなる。
 例えば、人と口げんかをしたとしよう。口げんかの内容に振り回されるのではなく、なぜ口げんかをするのかとか、その口げんかの論理とは何かとか、人間にとって口げんかの意味とは何かという、より重要で深い問題に興味を持てば、口げんかの内容などどうでもよくなってしまう。
 すなわち、自由になるということはより深い問題を考え、考えることそのものに価値を見出すということだと思う。そうしてあらゆる可能性を受け止められる状況を作り、またさらに深い問題を考えていくことができるようになる

第六章 自由 p.189-190

 だが、さらに抽象すれば、結局はみんなが、自分の楽しさのために生きていることでは、まったく同じだといえる。たとえば、意見が対立して喧嘩をしている二人を観察しても、どちらも自分の利益を求めて譲らず、それが争いの元になっている。違っているから喧嘩になるのではなく、同じことを考えているから喧嘩になるのだ
 考えてみれば、人間と石はあまり対立しない。それは、人間と石がだいぶ違うものだからだ。人間と犬だって、滅多に喧嘩をしない。対立するのは、人間どうしなのだ。小さな子供と老人が言い争いをすることも稀である。似た者どうしが喧嘩をする。国どうしが対立するのも、お互いが、似たレベルで、同じように考えているからである。
 ふと、そんなふうに、物事を抽象すると、くすっと笑えないだろうか?


第4章 抽象的に生きる楽しさ p.152-153
森博嗣『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』

抽象的な問題とは、ある面においては深い、根本的な問題である。
前者の「より根本的な問題を考える」具体例(口げんかについて)の、後者はその具体的な解説の一例になっています。
石黒教授は「考えることの自由」について述べ、森氏はその横で実際に「自由に考えること」を見せてくれる。
引用を並べてみて、そういった、二人の教授(片方は「元」)による豪華なコラボ講義を想像することができます。

 理解するとはどういうことかと改めて考えると、新しく知り得た物事を、様々視点から説明できるということだろう。(…)しかし、新しく得たことが概念的なことであると、そう簡単に説明することができない。
 そうしたときに大切なのは、思い込むことである。例えば、「心」という概念は皆が持っている概念で、それがなにがしかの形で存在すると思い込んでいる。たとえ物理的な存在ではなくとも、それを生み出すメカニズムが、人間や人間社会にあると思いこんでいる。
 新しい概念は、いったんその存在を思い込むことで受け入れ、それからいろいろな角度から説明をつけるのがいい。受け入れなければ常にわからないという状態が続くだけで、理解を積み重ねることは難しい。
 そしていったん受け入れたなら、そのことに次々に疑いをかけてみる必要がある。自分の理解に疑いをかけながら、また別の視点から考え、基の理解を修正する。そういったことを何度も繰り返して概念は理解されるものだと思う

第七章 挑戦 p.221-222

 攻撃は最大の防御という言葉があるが、相手が防御しようと構えている場合には、そうそう簡単に有効な攻撃をすることはできない。むしろ相手が攻撃に転じるその一瞬に、隙が見出される。ボクシングでいうところのカウンタである。それは、エンジンのピストンのように、動きが反転するところで、一瞬静止することを想像すれば理屈は簡単だ、と彼は考えていた。この男は、こういった不思議な理屈を幾つも持っている。類似する現象を見つけ、それによって理屈を作る。信じることを、正しいことに塗り替える。それが彼の手法なのだ。

森博嗣四季 夏

後者は前にも一度抜粋しました。
「この男」とは、Vシリーズ(第一作は『黒猫のデルタ』)の語り手である保呂草潤平のことです。
これも、前者の論理に対して、後者が具体例となっています。
そしてこの連想によって連鎖的に発生したことは、保呂草は探偵・便利屋稼業を表向きに行う泥棒なのですが、彼にはクリエイタ気質があるということ。
情報を収集して分析したり、あっちのものをこっちに(時として違法に)移動させたりする人間が、何かを創り出している。
これは、ものづくりに携わる人間としても、読書を生活の一部とする人間としても、なかなか興味深いことです。

Physics Research with Quantum Purple 2/n

 × × ×

──初期のコンセプトとして、「身体と脳を仲良くさせる」というのがあったんです。養老孟司先生がいうように現代は脳化社会ですから、仕事をしていても、街に出ても家にいても、使うのは脳ばっかりですよね。身体は補助的な役割しかなくて、脳の制御を外れて、つまり何も考えずに無心に身体を動かすなんて機会は、子どもですら滅多になくなっている。「子どもは自然だ」というのも養老先生の言葉なんですけど、その本来性が生まれ落ちて直ちに封印されてしまう社会システムになっている。それはさておき、社会がどうなろうが、人間はどこまで行っても身体であって、つまり自然です。脳の活動があって、他人がそこに意識を見いだせれば、身体がなくてもそれは人間だ、たとえば脳だけ別の場所に設置して身体は遠隔操作で動かすことができて、人がその操作対象を人間と信じて疑わないという状況は実現可能だと、これは石黒浩教授の近著にあって、販促上反則的なタイトルのなんですけどそれはよくて、森博嗣ミステリィに実際こんなSFがあるんですよね。アンドロイド、これ小説内ではウォーカロン、自律歩行型つまりWalk Aloneって呼ばれてるんですけど、ウォーカロンを引き連れた主人公が拳銃で目を撃ち抜かれて、万事休す、と思いきや彼とウォーカロンとの電信会話は続いていて、というのも主人公の脳がウォーカロンの胴体に埋め込まれていて、彼の身体はウォーカロンによって無線でコントロールされていたからなんです。僕これ学生時代に一度読んでたんですけど、最近再読した時にこの部分覚えてなくて、「斬新だなあ」って思ったんですよ。いやあ、忘れるって幸せなことですよね。ん? なんの話でしたっけ。……そう、いつか身体を必要としない人間が誕生したり、それが当たり前になったりすることも技術的には可能で、でもそうは言っても今の僕らには身体がありますから、それに脳もその身体の一部としてあるわけですから、自分の身体を無視するわけにはいかない。脳は身体を無視してぐるぐると思考しているように見えますが、じつは意識の外で身体の影響を受けている。その事実は知っていて、でも知らないふりをしようとしてしまうのが脳なんですね。で、知らないふり、精神分析的には抑圧といいますけど、これは何事につけてもあまりよくないことで、意識下の対象を抑圧すると、抑圧した時とは別の形で、すぐ先のことか遠い未来かは分からないが、仕返しにやってくる。「別の形」がどんな形かは分からない。その対象が意識の外で活動していたものであればなおさら、戻ってくる「別の形」は想像を絶するものになる。怖い話です。そもそもそういう余計なことを考えるから不安になるのであって、最初に無視したんだからそのまま無視しつづければいいじゃないか、という意見もあって、それももっともで、というか社会的にはそれが常識になっていますが、うん、まあズバッと端折れば、僕はそれはよくないと思っています。話を……だいぶ逸れたところを戻せば、脳化社会で身体を活性化、これ僕は「賦活」と言うのが好きなんですが、まあ身体を賦活するためには、それなりの工夫がいるのです。こういうことを真面目に考えるようになったのは、内田樹先生の著書に出会ってからのことで、最初に読んだ教育関係のでいろいろ衝撃を受けたのを未だに覚えていますが、内田先生は合気道をやっておられて、武術研究家の甲野善紀先生とか、介護に古武術を活かす試みをされている岡田慎一郎さんとか、身体に深く関わる仕事をされている方々の本も、内田先生の著書を通じて読むようになりました。僕は今言った方々の本を読んで武道に興味を持って、いつかどこかで実際に始められればなあとずっと思っていて、そうは言いながら、前にいた会社に合気道サークルがあって、直属の上司もやっていて誘われもしたのに結局やらなくて、その時は「必ずしも世間で活動している武道のすべてが身体性の賦活を目的としたものではない」という言い訳を持っていたと思いますが、それは一理あって、確かに甲野先生の剣道観が剣道界では異端だったり、ラグビーやバスケットで武道的な動きが実戦的に活かせることを実地に示しても拒否感をもつスポーツ選手が一定数いる、という話を読んだりもしていたのです。ここでいう武道的な身体運用というのは、身体各部の筋肉をつけて体を鍛えて局所的な出力を増強するのではなくて、鰯の群れの方向転換で喩えられるように全身を協調させる動きを目指すもので、甲野先生の思想が受け入れられないのはスポーツ界の常識が前者で長年やってきたからだと書かれていました。そういった、僕が興味深く読んできた身体に関わる本の記述内容が、どちらかといえば世間的には異端であるという認識が、僕の身の回りにあった自分がやりたがっていたはずの活動への参加に二の足を踏ませていたように思います。今話していて、ボルダリングを始めた時に「武道的な思想をボルダリングに活かしてみよう」と思ったのも同じ理由が絡んでいたのかもしれません。つまり、単純に興味があったからやってみた、応用を検討してみたというだけでなく、スポーツと呼ばれている活動を自分がやりたいように取り組むには、どこかしら異端的な発想を持ち込まねばならないのではないか、と。
──ホンマに長いですね。実はまだ、本題に入ってないんと違います?
──えーと、どうなんでしょう。
──わからんのかいな(怒)

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Physics Research with Quantum Purple 1/n

「ダメだよ、そのスニーカー。ダメだってことは保証します」
 なぜ、果物屋が自信ありげに他人のスニーカーを評するのか。
「ハズレですな、そいつは」
 たしかに「現品限り四十%オフ。しかも箱なし」というのを買ってきたのだが、四十%オフになっていなかった段階では、それなりの値が付いていた。現に履き心地はすこぶる良いし作りだって悪くない。私だってかれこれ四十年あまりスニーカーを履いてきたのだ。良いか悪いかくらいは分かる。が、小倉君は「いけませんな、ソイツは」と派手なシャツと裏腹に、妙に老成した物言いで腕を組んだ。
「それ、ひもがほどけ散るでしょう?」

吉田篤弘『圏外へ』

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「今日はね、なんばの方へ行ってきたんですよ。なんばにもジムあります。"Gravity Research"、『重力研究』って、カッコいい名前の店なんですけど、その下にアウトドアショップがあって、靴も買えるんです」
「へえー、大正だけやないんですね」
「いろいろありますよ、市内には。まあ西区から一番近いのは大正のジムやし、他のビル街にあるジムと違って上に広々してるんで、通うんやったら僕はそこをオススメします」
「たしか岩手で始めはったんですよね。どれくらいになるんですか?」
「そですね、去年の夏前に引っ越して、司書講習が始まる前に始めたんで、1年半近くですね。1年と、4ヶ月くらいかな」
「なんかきっかけはあったんですか?」
「いや、もともと興味はあって、今まで機会がなかっただけなんですよ。岩手に引っ越して、ふと近所になんかないかなって探したら、ちょうど去年できたばっかのジムが隣の市にあったんですね。車ないと生活でけへん地域なんで中古車買ってたし、そのジムは講習受ける大学と同じ方面にあったんで、これは通えるなあ思たんですね。週6で朝から夕方まで講義で、まあ座学も多いし体動かさんとようないなあ思てたところやったんで、そしたらもう生活として始めてみようと」
「はあー。スポーツやってはらへんかったのに、できるもんなんですね」
「ええ。一般的にはニュースポーツとして大人だけやなく子どもらにも普及してますけど、僕はスポーツやないという認識でやってます」
「それは、言わはったように"生活として"ていうことですよね。他の人と競うんやなくて、自分の健康のためにやる、っていう感じですか?」
「端的にいえばそんな感じですね。ただシンプルに健康を目指してるというわけでもなくて、この辺のところはちゃんと言葉にしとかなあかんなあと普段から感じてるところなんですが」
「あ、ちょっとニュアンスちゃうんですね。その詳しいとこ、教えてもろてもええですか?」
「うーんと、時間かかりますよ?」
「かまいません」
「えーと、整理できてないんで、話が支離滅裂になるかもですけど」
「んなもんかまへんがな、もう」
「さいですか。では…」

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昨日は朝にガレーラに行くと貸切対応中で入れなかったので、自転車で出てきたその足でなんばのGRへ行ってきました。
GRなんばは初めてでしたが、岡山へ行った時に会員カードを作ってはいました。
登ったあとに、すぐ下の好日山荘でシューズを見ていて、各メーカの旧モデル展示品がOUTLET価格で売られていたんですが、5.10のレースアップで見事にピッタリサイズのものに出会いました。
pump.ocnk.net
今は2足目ハイアングル(5.10)と3足目フューチュラ(スポルティバ)を使い分けてるんですが、ハイアングルのソールが削れて中の生地が露出し始めていて、修理キットでなんとかしのいでいる状態です。
これまで3種類使ってきて(1足目はスカルパ・フォース)、登りやすさよりはフィット感と足裏感覚を重視したいなという理想が見えてきましたが(本当は、登れるもんなら裸足で登りたい)、同時に消耗が激しいので次はなるべく低価格にしようと思っていました。
昨日見つけた旧モデルのクァンタムは、ステルスのラバーで足裏は硬そうでしたが、レースアップの効果でフィット感は抜群でした。
そして試し履きの段階で、多少きついが苦労しなくても履ける程度のサイズ感は、既に足に馴染んでいるかのよう。
ハイアングルの経験から、靴を使い込んで前後にはあまり伸びないのではとの思いもあり(フューチュラも右に同じ。逆にフォースはソールに穴が開いた最終盤はサイズもけっこう大きくなっていました)、使い込みによる今後の馴染み方も期待できそうです。

その、ラバー硬め以外は理想通りのクァンタムは「四十%オフ。しかも箱なし」で、「四十%オフになっていなかった段階では、それなりの値が付いてい」て、「現に履き心地はすこぶる良いし作りだって悪くない」、こらまさにその通りやがな、とさっき読んでいて出会った箇所をつい抜粋してしまいました。

が、ダメではありません。
ハズレでも、ありません(確信)。
たとえ「ひもがほどけ散る」としても。
たぶん。

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家の葬式、曲の葬送

 
 ──「家の葬式」のことを、前にちらりとおっしゃっていましたよね。
 ──はい。我々建築家は、家を新しく建てる場面に比べて、家を解体撤去する場面に立ち会うことが圧倒的に少ないのです。近頃はリフォームやリノベーションが流行しておりますが、世間の建築家に対するイメージは大方、「新しく建てる仕事をする人」に留まっていると思われます。しかし、人口はピークを既に過ぎ、空き家が増加し続けている現代には、「家の終いのお世話」がもっと必要になってきます。いえ、それは希望的観測で、必要になるべきだ、というのが正直なところですが。じっさい、賃貸マンションや貸家に住む人はもとより、分譲マンションに住んでいる人ても、マンションそのものがその人の所有物ではないのだから、自分が長年生活してきた家の最期を看取るという発想には、至らないのが普通です。持ち家に住む人であってすら、その傾向に大差はありません。建てたのは自分ではないから、家で育てた子どもは都会へ出てしまうから、取り壊す費用がすぐに捻出できないから、等々、いろいろな理由が幅を利かせている結果が、全国的に存在する大量の空き家という現状なのです。
 ──家の葬式というニーズが、出てきそうで出てきていない、ということですか?
 ──いえ、きっとニーズはあるのだと思います。そして、そのような世話ができ、実際にしてきた建築家のもとへは、そのような依頼が寄せられているのです。細々と、だとは思いますが。
 ──なるほど、そういう話でしたか。僕は「家の葬式」という言葉をその内容も知らずに聞いて、ある別の連想をしていたのです。
 ──それは、どのような内容のものですか?
 ──同じように言えば、「歌の葬式」となるでしょうか。あるいは、葬送曲という言葉を念頭において「曲の葬送」と表現してもかまいません。歌は、いやもっと広く音楽は、僕らのあらゆる生活場面で背景を飾り、また時に前景として映えることで、僕らを励まし、癒やし、楽しませてくれますよね。その点で、音楽は無償の愛のような存在だと言えるかもしれない。音楽は僕らに何も求めず、それでいて多くを、とても多くを与えてくれる。そして音楽には流行があり、ある時代には世界中で同じ一つの歌が流され、同時的に異国の人々が同じ曲を耳にすることがある。また、そのように世界を席巻していた音楽が、次の年にはぱたりと止み、現実の空気を震わせることなく、人々の頭の片隅に追いやられ、次第にその残響も薄れていき、最初からそのような音楽は存在すらしなかったと、年鑑を見たり、往年のヒットチャートを振り返る特番をテレビで見たりしない人間は、それを信じて疑わないといったことにもなる。今言ってみて気付きましたが、このテレビ特番はある意味で、かつて流行した歌の葬式とみなすことができます。
 ──なるほど。
 ──でも僕が言おうとしたのは、個人の中でのこと、非常に私的な事情のレベルでのことで、かつて自分にとても大きな影響を与えた、暇があれば家のCDコンポやウォームマンで繰り返し再生し、歌の歌詞を暗唱できるほど自分のものにし、歌詞の意味が自分の生活と密接に結びついて、今の自分の存在を、あるいは自分と親しい人との関係をこの歌が象徴している、肯定している、そういった自分と一体化していたと言ってもいいほどの歌が、あるちょっとしたきっかけで、友達とケンカした、恋人と別れた、仕事が忙しくなった、そう、本当にどうでもいいような些細なことが原因で、その歌のことが念頭からぽろりと転がり落ちる、忘れてしまうと言わないまでも、自分の中でその歌が響かなくなる、他の歌と同じように「いい歌だけど、ただそれだけ」という、口にする機会もないが敢えて言えばそう評価できる、といったような位置づけに成り下がる。こういうことは、よくあります。日常的な現象とすらいえます。
 ──そうですね。意識されないだけで、本当によくあることだと思います。
 ──そしてこれは、よくよく考えてみれば、親友に知らせずに遠くへ引っ越したり、説明もなく挨拶すらせず恋人のもとを去るようなものです。かつて自分を励まし、高めてくれたものに対する感謝の念が、ここにはありません。完全に失われている。忘れるというのは本来、そういうことかもしれません。そして、忘れた頃に、本当に久しぶりに、そのかつての歌を、偶然の機会かなにかで耳にしたときに、懐かしいなとは思って、それが感謝の念に結びつくということは、あまり多くはないと思います。……なぜ多くないのか。それはきっと、儀式がなかったからなのです。
 ──儀式、ですか。
 ──そうです。「ああ、この歌は昔によく聴いたな、懐かしいな。あの頃は良かったな」、こういう感想は、まず感謝ではない。「あの歌に自分はいつも励まされていたな。実際にいい曲だし、俺にはことさら、自分のことを歌っているように思えたものだ。いや、当時にあの歌に出会えて本当に良かった」、たとえばこういう述懐が、稀にある感謝の念が込もっていると言えますが、これは実は、儀式にまでは至っていません。遠くに去っていく、あるいは去ったそれを、親しげに見つめ、あるいは感無量の涙とともに心を注いでいても、その彼は、ただそこに、今彼がいる場所にぼうっと突っ立っているだけなのです。目は閉じられているかもしれない、でも、手は合わせられていない。その手は無為に垂れ下がったままでいるか、生活のために忙しく動いている。
 ──はい。
 ──僕が思うのは、きっと、いや、「ここ」でかは分かりません、適切なタイミングについては考えていませんが、「手を合わせる」ことが必要なのではないか、ということです。身振りで示す。自分がそれを、すべきだと思った人に対してするのと同じように、音楽に対しても。そして、その身振りによって、かつて自分の一部のようですらあったその歌は、頭の片隅に追いやられるのではなく、また新たな形で、自分の一部となるのです。儀式によって忘れないということではなく、昔のように熱心に聴かなくなるのだから、頭の中をメロディの一部がふと流れるようなことがなくなり、その存在自体を忘れてしまうことはもちろんある。ただそれは、たとえば、日中オフィスで忙しく立ち回っている時に、自分の足の爪や十二指腸の存在を忘れるのと同じことなのです。その存在を明確に知覚することなく、あるいは知覚できないくらい自然に、自分の一部となる。音楽という、形を持たないもの、波動として鼓膜を震わせはするが跡形もなく消え去る、経時的でありながら瞬間的でもある存在、そのような音楽が、無時間性という虚無を脱して、身体に定着する。そのような儀式の存在を、ふと思い浮かべてみたのです。
 ──そうですね。葬式というのは通常、「形のあるもの」に対する儀式ですが、その同じ身振りを無形物に対して行うことで、その「形のないもの」が何かを獲得する、ということはあると思います。その何かは、今おっしゃられたことについては、歌が獲得するのか、それとも貴方が獲得されるのか、どちらになるのでしょうか?
 ──難しい質問ですね。その「何か」とは何なのか、とも思いますが、それはどちらとも言えないのではないでしょうか。
 ──どちらでもない。……その答えから導かれるに、その「何か」とは、「関係」ではないでしょうか?
 ──ああ、その通りですね。さすがです。関係を手に入れるのは、その関係者の誰でもなく、敢えて言うなら、関係そのものですからね。
 ──所有の概念が曖昧になるところが、その概念の限界を表してもいるのですね。

 × × ×

 僕がその曲をもう聴きたくないと思ったのは、そのメロディーを耳にすると島本さんのことを思い出してしまうからというような理由からではなかった。それはもう以前ほどには僕の心を打たなくなったのだ。どうしてかはわからない。でも僕がかつてその音楽の中に見いだしていた特別な何かは、既にそこから消えてしまっていた。僕が長いあいだその音楽に託し続けてきたある種の心持ちのようなものはもう失われてしまっていた。それは相変わらず美しい音楽だった。でもそれだけだった。そして僕はもうその何かの亡骸のような美しいメロディーを、何度も何度も繰り返して聴きたいとは思わなかった。

村上春樹国境の南、太陽の西』 太字は文中傍点部

人間の定義、幽霊の希望

「君はいつだって、どこへだって行ける。でも……、ここへ来た目的は?」
「人間じゃない生きものを見たかった」
ロイディは生きものじゃないよ」
「生きていないの?」目を見開いて、クロウ・スホはロイディを凝視した。「でも、話ができるし、歩いているわ」
「それは、生きていることとは別のことだよ。彼は機械なんだ。メカニズムなんだ」
「メカニズム?」
「そう……」

森博嗣女王の百年密室

その定義は、とてもシンプルだ。
少女にだって、わかる。
いや、きっと大人は忘れてしまうのだ。
具体的な物や言葉に囲まれて、純粋な抽象思考を忘れてしまうように。

「ミチルは人間?」彼女はこちらを向いた。
「どう思う?」僕は尋ねた。
「人間だと思う。お話がとても面白いわ」
ロイディ、聞いたかい?」僕は振り返った。「よく覚えておくんだよ」
「了解」ロイディが答えた。
「私、図書館へ行くわ」クロウ・スホは立ち上がった。「ありがとう。サエバ・ミチル」
「何が?」
「お話をしたこと」
「人間らしく、できた?」
「できたわ」クロウは悪戯っぽく唇を噛んだ。「あなたは人間よ」

同上

でないと、人は人を殺せない。
だからこそ、人は人を殺せる。
そしてこの定義は、自分に撥ね返る。
確信を持ち、行動指針とした者の姿を、淀みのない鏡となって映す。

 お金を破り捨てた 人間のように
 人間(いのち)を破り捨てた人間は‥‥
 愛を口にする 資格すら 失うのかも しれない

 思うことも 感じることも
 人間の所業とするのなら
 その根幹たる人間を 否定してしまった 存在は‥‥
 人間の世では 誰とも疎通 できなくなる

 それはもう 幽霊(ゲシュペンスト)だ‥‥

岩永亮太郎パンプキン・シザーズ11』

幽霊には己が幽霊である自覚がなく、従って苦しみはない。
最早戻れない世界を羨まないのは、まだ自分がそこにいると信じて疑わないから。
けれど、幽霊と人間のハーフとなった者は、生きるそのことが苦しみとなる。
自分の所業の一つひとつを、確信を持って否定し続ける人生。

それでも生きたいと思える希望、noblesse oblige.

 ☓ ☓ ☓

女王の百年密室―GOD SAVE THE QUEEN (新潮文庫)

女王の百年密室―GOD SAVE THE QUEEN (新潮文庫)

思考の自由、意識と関係、その起源

誰もあなたに助言したり手助けしたりすることはできません、誰も。ただ一つの手段があるっきりです。自らの内へおはいりなさい。(…)もしもあなたが書くことを止められたら、死ななければならないかどうか、自分自身に告白して下さい。何よりもまず、あなたの夜の最もしずかな時刻に、自分自身に尋ねてごらんなさい、私は書かなければならないかと。(…)そしてもしこの答えが肯定的であるならば、もしあなたが力強い単純な一語、「私は書かなければならぬ」をもって、あの真剣な問いに答えることができるならば、そのときはあなたの生涯をこの必然に従って打ちたてて下さい。あなたの生涯は、どんなに無関係に無意味に見える寸秒に至るまで、すべてこの衝迫の表徴となり証明とならなければなりません

「若き詩人への手紙」p.14-15(リルケ『若き詩人への手紙 若き女性への手紙』新潮文庫

リルケに詩評を依頼した一詩人への、彼の返報にある峻厳な言葉。
人生を賭す覚悟を問うような強い筆致は、しかしそれほど、強迫的には感じられない。
「これはむしろ当たり前なことかもしれない」と思った時、別の本の一節が連想されました。

 抽象的思考には、具体的な手法というものは存在しない(そもそも相反している)。日頃から、抽象的にものを見る目を持っていること、そうすることで、自分の頭の中に独自の「型」や「様式」を蓄積すること、そして、それらをいつも眺め、連想し、近いもの、似ているものにリンクを張ること、これらが、素晴らしいアイデアを思いつく可能性を高める、というだけである。

「アイデアのための備え」p.47-48(森博嗣『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』新潮新書

これに続いて抽象的な思考の具体例を提示したあと、以下のように続く。

 このように、抽象的な考え方をする人は、何をやっていても、どんなつまらないことでも、なにか役に立つことを見つけるようになる。見つけたことがあるから、役に立ったことがあるから、また見つけようとしているともいえる。

同上 p.49

詩人にとって、詩作が生きることそのものであるのなら、リルケの(詩人の依頼に応える形での)要求は当たり前のものであり、このことを抽象化して、意識をもち呼吸するように思考する人間が「生きていこう」と思うのならば、森博嗣の思考(これは要求でもなければ提案でもない)も当然である。

(上に引用した森博嗣の新書は、格別目新しいことが書いてあるわけではない。「抽象的とはなにか」について抽象的な思考を展開すれば、文章に長けた人ならある程度似通った内容のものを書けると思う。ただ今僕が思った本書の特色は、その内容の文章の「平坦さ」にある。感情がなく、つまり温情もなければ冷徹でもない。温かくなければ冷たいのだ、という巷の常識が異常に見えてくるのは、リアルな人間関係ではほとんど見られることのない「平坦さ」が本書には確固として存在するからだ。そしてこの「平坦さ」は、「自分は当たり前なことしか書いていない」という彼のシンプルな認識の表れでもある。僕が本記事で「当たり前」を連呼していることは、おそらく本書を読中であることから影響を受けている)

正常や異常というのは、抽象的思考においては、ある前提や境界条件をもとにした思考の筋道からの外れ具合(または合致度)のことであって、本来の意味では正常も異常もない。
が、そういう狭義の表現を用いるとして、自然な思考を経た結論を正常とみなした時に、世の中の多くのものごとが異常に見えてくることがある。

思考の自由とは、常識や通念や多数派意見から離れたところで、また現実における自分の行動とは別に、それでも自分の感覚と経験をベースにして思考を展開できることである。

 そこにあるのは、多くの人達が、物事を客観的に見ず、また抽象的に捉えることをしないで、ただ目の前にある「言葉」に煽動され、頭に血を上らせて、感情的な叫びを集めて山びこのように響かせているシーンである。一つ確実に言えるのは、「大きい声が、必ずしも正しい意見ではない」ということである。
 できるだけ多くの人が、もう少し本当の意味で考えて、自分の見方を持ち、それぞれが違った意見を述べ合うこと、そしてその中和をはかるために話し合うことが、今最も大事だと思うし、誤った方向へ社会が地滑りしないよう、つまり結果的に豊かで平和な社会へ導く唯一の道ではないか、と僕は考えている。

「自由に考えられることが本当の豊かさ」p.57-58 同上

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話が逸れましたが、上で連想によって並んだ2つの引用を、つなげる言葉を先に思いついていたのでした。
これは岩手の大学で司書資格をとった講座の文集に載せた言葉でもあります。

その本は手元にありますが、敢えて参照しないで書きます。
単行本の表紙裏(カバー)にも引用されていて、すぐ確認することはできるのですが。


『村田エフェンディ滞土録』(梨木香歩)という本で、「土」は「トルコ」のこと、「エフェンディ」はたしか現地の言葉で「学ぶ者」だったと思います。
戦前に日本からトルコへ研究員として滞在した村田という男が、多国籍な人々の住まう寮で交友を深めながら、彼ら共々真率に暮らしていく物語。
その寮友、ディミトリというたしかギリシャ人が、村田に言った言葉。

 "私は人間だ。私にとって無関係なことなど、何一つない。"

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3つ目の引用が上2つを「つなげる」と書いた意味ですが、

 たぶん、考えることで人は、その考えた対象と無関係でなくなるのです。

そして、想像を逞しくすれば、こうも言えるかもしれません。

 意識は人の中で、そのようにして生まれたのではないか。


もしそうなら、「飢餓ベース」の長い歴史をもつ人体が空腹の中で活動のピークを迎えられるように、"このこと"を意識の常識に登録できた時、その時彼の意識に起こることは、きっと素敵なことに違いありません。

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若き詩人への手紙・若き女性への手紙 (新潮文庫)

若き詩人への手紙・若き女性への手紙 (新潮文庫)

人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)

人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)

村田エフェンディ滞土録 (角川文庫)

村田エフェンディ滞土録 (角川文庫)