human in book bouquet

本格的に本と関わっていきます。

 -ピエール・ブルデュ

象徴的暴力のフラクタル性について

昨日の意欲が別の所にいきそうですが、読んで、考えてしまったので書きます。 象徴的暴力は、赤裸々な暴力が不可能である時に暴力がとる穏やかで隠然たる形式であるが、そうだとすれば、婉曲化の労苦をお払い箱にしてメカニズムの発展が要求する「魔術から解…

「二人称の<死>」と支配について

自分の命は自分のものだという感覚は、じつは財産保全という考え方や自由主義や個人主義などと、歴史的に手を携えて成長してきたといっていいと思います。(…) つまり、近代では命や才能や性質といったものが財産と同じく交換財になってしまったということ…

実践的否認について

「貧乏人に贈与するために富み栄えるのだ」と言われる。これは利害関心の実践的否認の模範的表現であって、この否認はフロイトの否認(Verneinung)のように利害関心を充足させるのを許すが、利害関心を満足させているのではないのだということを明示する形…

農業と「普通の農産物」について

農業新聞の影響かもしれませんが、ここ最近は農業の記述に反応します。 諺に曰く。「農夫が勘定したら、種を撒かなくなる」。おそらくは、労働とその生産物との関係は、本当に知られていないのではなく、社会的に抑圧されているのだと理解しなくてはなるまい…

実践の時間と教育について

互酬性が[、]通常の経験が贈与概念に結びつけているような分散的な体験的行為の「客観的真理」であるとすれば、そうした互酬性が果して実践の真理──実践の主観的真理がこの「客観的」真理と完全に一致した場合に実在するといわれる真理──であるのかどうか疑…

"呉越同舟"の互酬性について

最初に書きますが本記事は、ええ、ワケの分らん話です。ご注意を。 実践の経験のすべてが、またそれと同時にその論理が変化するためには、「互酬循環」の「機械的諸法則」が赴くところとは違った仕方で事態が進行する可能性が存在することで十分である。最も…

実践の論理について(2)-脳と身体の参勤交代-

客観主義に内在する論理主義は、学問上の構築物が実践の論理の諸原理を把握する犀に必ず原理に性質の変化を蒙らせる、ということを見落とすきらいがある。反省的説明は、実践の継起を表象された継起に変えてしまう。 (…) 学者風の問いかけ方が行為者をして…

実践の論理について(1)-時が止れば動き出す-

全体化の特権は、次の二つのことを前提している。まず実践的諸機能の実践的(したがって暗黙の)中性化──特殊ケースにおいては、時間標識の実践上の使用を括弧に入れること──、この中性化は、実践的備給の中断を前提する「理論的な」質問の場面である調査*1…

実践の論理について(0)-行きつ戻りつ事始-

実践が示しうる以上の論理性を実践に求めることを避けるために、また求めるがために余儀なく実践から非首尾一貫性を強奪するとか、不自然な首尾一貫性をむりやり押しつけるとか、こうしたことを避けるためには、実践に、論理学のものとは違う論理を認めなく…