human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

香辛寮の人々 2-4 「アニス嬢によろしく」

 
階段を降りる足音が聞こえたあと、ディルウィードが居間に姿を見せる。
彼はソファでコーヒーを飲むフェンネルに目を留め、笑顔になる。

「こんにちは、フェンネルさん。いい香りがすると思ったら」
「やあ。君も飲むかい? さっき淹れたところだよ」
「ありがとうございます。実はちょっと期待していました」

奥のキッチンへ向かい、カップとソーサーをそれぞれ手にして戻ってくる。
テーブルにそれらをセットしてから、フェンネルの向かいに行儀よく座る。

「実はちょっと、フェンネルさんに相談がありまして」
「へえ、珍しいね。いつもは僕が聞いてもらってばかりだから。なんだろう」
「いえ、そんな、自分は…いや、まあいいか。ええと、同じ学科に気になる人がいまして」
ディルウィードは寮から近い大学に通っている。
「その、女性なんですけど、この間いっしょに散歩に出かけたんです」
「デートでかい? 古風だね。まあ、この辺りに遊ぶところがそれほどないのは確かだけれど」
彼はフェンネルを見ながら、うんうんと頷く。
「ああ、自分もそう思ったんですよ。年寄りくさいというか…あ、誘ったのは自分ですけど、彼女が提案したんですよ。『どこか行くなら近くを歩きましょうよ』って」
「…そりゃ素敵な彼女だね。僕と気が合いそうだ」
「あ、すみません、別にフェンネルさんが年寄りくさいと思ってるわけではなくて」
「いいんだ、間違ってはいない。それで、話の続きは」

こほん、と咳払いを一つして、彼は腕を組み、視線を上に向ける。
天井には反射を繰り返した午後の光が、濃淡を交えて斜めに差している。

「彼女とは同じ講義を取っていて、グループワークがあった時に何度か話したことがあったんですが、当然というか、いやどうかわかりませんが、その間の話題は講義のことばかりでした。だから自分は彼女自身については何も知らなかったんですが、ただ実用的な話を一緒にしているだけでも、どことなく魅力を感じたので、ある日講義が終わってから、思い切って話しかけてみたのです」
「それで、話がいい方向に弾んで、デートすることになったと」
「はい。で、この辺りは自然道の通った森や山があって、散歩には事欠かなくて…ということを彼女と歩いて初めて知ったんですが、それはさておき、いちおう望みがかなって、彼女とプライベートな話ができたわけです。だけど」
ディルウィードの俯いた顔は、ただ真剣なようにも、憂いを帯びたようにも見える。
「彼女のことをいろいろ聞けたのは良かったのです。自分のことも話したし、そうして彼女に自分を知ってもらえたことも良かった。一緒に歩いている間は楽しかったし『また会いましょうね』と言ってくれたんで、自分に対してわりと好印象を抱いてくれたのだと思います。ただ、どう言えばいいのか、うーん」

彼は目を閉じ眉間に力を入れて、うーんと唸る。
彼女と歩いた時間を思い起こしているのだろう。
ただ口元に、楽しい思い出の反芻に伴うはずの微笑は観察されない。

「その日待ち合わせ場所で顔を合わせた時と、じゃあねと別れた時とで、彼女が全く変わっていないという印象を受けたのです。なんか、つい最近の自分のことを分析するのも妙な気分ですが…彼女の趣味とか、好きな食べ物とか、そういうことを知って、なるほどなとか意外だとか思って、自分の彼女に対する印象が変わるのがふつうでしょう? もっと彼女のことを知りたくなったとか、なんか自分とは合わない人かもしれないなとか、いや評価という言い方は好きじゃないですが、彼女自身の情報が自分にある種の価値判断を起こさせて、見る目が更新される、変化を受けるはず。その「はず」が、全然そうではなかったことが、どうも腑に落ちないのです」
「ふうん。それは、君が彼女と一緒にいた時間という経験が、その時間それ自体は充実していたが、その経験は君と彼女の関係に何ら影響を与えていない、ということかな? 話を聞いていると、彼女の印象ばかりを意識しているようだけど、たぶん君は、その逆もそうだと思ってるんじゃないかな。つまり、デートの前後で、彼女の君に対する印象が全く変わらなかった、という印象を君は受けた」

彼はぎょっとして、見開いた目をフェンネルに合わせる。
「いや、そんなはずは…むむむ」
顔のパーツが統一を欠いたような、わりと穏当だが奇妙に見えるには違いない福笑いのような表情には、驚きと困惑と、一匙の悲哀が現れているようだ。

「…実のところ、そうなのかもしれません。思えば、大学の講義で最初に会話した時から、彼女は自分には親密に接してくれて、それは今も勘違いではないと思っていますが、でもその親密な感じは、最初からこの間のデートの後まで、一貫して揺るがない。いやでも、彼女は誰にでも愛想を振りまくような八方美人というわけでもないのです。やかましく絡んでくる男にはイヤな顔をするし、食堂でグループで食べている時なんかは、中立的というか、冷静というのか、感情を表に出さない落ち着いた表情をしているのです」
「よく観察してるね」
「た、たまたま目に入っただけです。そんなじっくり見つめるなんて失礼ですから。…それはいいとして、フェンネルさん。彼女の親密さは、何か意味があるのでしょうか? そこに…いや、期待しているわけではないですが、好意、みたいなものは含まれているのでしょうか」

彼の頬には、わずかに赤みが差している。
若いなとフェンネルは思う。
これは良い若さだ、とも思う。

「そうだね。僕にわかることは少ないけれど、言えることはある。その彼女のことだけれど…名前はなんていうの」
「あれ、忘れてましたね。すみません。アニスさんです」
「アニス嬢ね。いい名前だ。甘くて苦い」
「はい?」
「いや、聞き流してくれていい。そのアニス嬢のことだけど、僕とだいぶ違う人間ではあるが、性格の一部に共通点もあるらしい。君は僕を知っているから、この話は君にもわかりやすいだろうと思う」
「はい、お願いします」
「そうだな。一言でいえば、彼女は実験屋なんだ」
「ジッケンヤ?」
「一般的には研究者、かな」
「それはどういう…」
「つまり、君は研究されている。抽象的に言えば」
「?」

今度の福笑いは、目隠しを取って為されたらしい。
明確な困惑。

「解釈は君の自由だ。ただ、間違いのないように言っておくと、僕は君のことが好きだからね。君は人に誠実で、裏表がない。君といると僕は、前向きになれる」
「はあ、ありがとうございます…?」
「研究者だって誠実だし、裏表がない。ただ、その素直さが顕れる場面が、ふつうとちょっと違うというだけだ。アニス嬢と仲良くなれるといいね」
「ええと、それは応援してもらっているのでしょうか」

フェンネルは、満面の笑みを浮かべる。
笑顔の比重は、水より小さいのだ。

「アニス嬢によろしく」
 

自覚を研ぎ澄ませた無垢(はまた今度)、電車スマホの異常空間における共同幻想について

 読みながら、この人なんで「普通」ってことにこんなにこだわってるんだろう、ってそばにいたノボちゃんに呟いたら、ノボちゃんは、「こいつの言う『普通』ってのは、人が人の目を意識しないでとる行動、だから覗き見して初めて見られる他人のナチュラルな行動のことなんだよ。ジェネラリー、つまり、一般的って意味じゃないんだ」「でもなんで」「だって、明らかにつくったって分かるより、そういう『どっきりカメラ』みたいなものの方がリアルで刺激があるからよく売れる。金になるからさ」と、にべもなく言い放った。

梨木香歩『僕は、そして僕たちはどう生きるか』理論社

ここの文脈は、「普通」という言葉が間違って使われながら、その本来の意味によって間違った用途がまかり通ってしまう、そういう問題についてのものです。

「インジャの身の上に起こったこと」という章の中からの抜粋で、インジャとは「隠者」のことです。
偶然、ではないと思いますが、鎖書店の商品に追加しながらもすぐに売れないことを祈って再読している『民衆という幻像』(渡辺京二)でも最近目にした言葉。
渡辺氏の某大学の(あるクラブに入部した)新入生に対する講演録では、「これから社会に出て行く君たちは、モラルなりスキルなりの社会性を獲得して就職していくが、そのなかで、自分の中のどこかに『隠者としての心(思想)』を住まわせておくことは、君たちにとって必ず力になる」という、渡辺氏自身は物書きと予備校のバイトで食いつないでいる自称隠者だが、学生に隠者になること自体を勧めるのでなく「精神的な隠者」の居場所をつくることを提唱している。

そのこと自体は僕の心にも響くわけですが(いうなれば現在の僕も隠者のようなものです)、これから書こうとするのは、また別の話。


抜粋した中の下線部を読んで、僕のなかの「問題意識の引き出し」にいつも入っている一つのテーマ、「無垢への憧れ」のことを連想したのでした。

無垢が無自覚ではいられなくなった現代社会。
その構造の理解までは、これまでしていましたが、抜粋部から考えたのは、「変貌を遂げた無垢」の気持ち悪さ、その原因としての言葉の誤用、そして、あるかもしれない「自覚を研ぎ澄ませた先にある新たな無垢」について。

うまく説明できるかわかりませんが、書いてみます。

 × × ×


「覗き見して初めて見られる他人のナチュラルな行動」

これが「普通」という言葉で語られることの破壊的影響(言論空間、くだいて言えば普段僕らが使う言葉の感覚に対する)について梨木氏は書いているのですが、進路を僕の連想にとれば、これを「無垢」と呼ぶこともできる。
そして、本来はというか、「呼ぶことができる」というのは、無垢の把握方法として「覗き見」が例外的な形態であるからこその可能性のニュアンスが込もっているのですが、もしかして、この「本来」は時代遅れの過去の遺物となったのかもしれない。
シンプルに言い直せば、現代では「無垢には覗き見を通してしか出会えない」。

その理由は、監視社会、高度情報化、動画サイトの興隆と日常的な鑑賞、「インスタ映え」、等々、思いつくところはある。
僕が書いておきたいと思ったのは、この3つ目に関することだが、スマホの存在、場所を選ばず使用者を夢中にならしめているそれについて。


電車の中で起きている人のほぼ全てがスマホを見ている状況、あるいは器用に障害物(彼にとっては通行人も「物」だ)を避けながらスマホを手に歩く、自転車に乗る人々。
こういったことにいつまで経っても慣れず、気持ち悪いと思わずにはいられないのだが、いつだったか「この気持ち悪さを見失ってはならない」と思うようになった。

ただ、日常的に存在する、つまり生活の中で高頻度で出会う気持ち悪さは、そのまま放っておくことができない。
不快に対する慣れは、感覚の鈍磨でしかない。
みんながそうしているから自分も仕方ないがそうする、そうやってお互いに無神経になっていく人々を責める気はないが、僕はそのような彼らとそうでない人々とを直感的に判断できる感覚を維持していたいし、そうしてセンサーが感知すれば僕は彼らから遠ざかるだけのことだ。
ただ、そうした回避行動はいつでも成功するわけではないし、何より彼らの「集団行動による安心感」の裏側に自分を位置付けることになる。
つまりは、思い込みによる不安、被害妄想といったもの、いつもそれらに直接結びつくわけではないが少なくとも種となり、別のきっかけによって芽吹いてしまうネガティブを背負う立ち位置。
それを敢えて引き受けるために必要なもの。
それこそが言葉であり、場当たり的でもなく、人付き合いの潤滑剤でもなく、他人を操るための功利的な論理でもない、他ならぬ自分自身を説得し、覚醒させるような言葉。

話を戻す。
前に、スマホの気持ち悪さはそれが自分の部屋で使うPCと同じことにある、と書いた。
本来なら他人の目に触れないプライベートな空間で扱うはずの機器を、公衆の面前で臆面もなく使う。
その意味では、電車の中でする化粧も同じだ。
ただこれは程度の差であって、パカパカ時代のケータイだってそうだし、本や新聞を読むのも、それらと本質は変わらない。

しかし、程度の差は、ある時には質の転換をもたらす。
起こっているのは、これも前に書いたが、ジャージの上下でSAをぶらつく家族が放つ気持ち悪さ、これと同じである。
もとは内田樹氏のブログにあった話で、これを書いた以前の記事を抜粋しておく。

「(…)高速道路のドライブインなんかに行くと、ジャージ姿で歩くカップルや家族連れなんかを見かけますが、あれは家族の車が彼らの家の一部屋と認識されていて、だから彼らにとっては近所のコンビニから車で一時間かかるドライブインまで、"家に居ながら"移動できる場所はどこでも家の庭にいる感覚なのですね。きっちりお出かけの準備をして家を出発してきた身からすれば、それがなんとも異様な光景に見えるわけですが」

Led Lake, Moon Magic - human in book bouquet

ここにある違和感、上で何度も使った「気持ち悪さ」は、いくつか言い方がある。
他人のプライベートな状態が人前で露わであること、見たくもない生々しいものを見せつけられること。
彼らの周りには誰もいないかのように振舞われること、そうして自分が彼らにとって人としてカウントされていないと思わされること。

例えば、高速のSAがジャージやパジャマを来た人々で埋め尽くされた場面を想像すれば、何事かと思うだろう。
極端に言えば、その「何事」が、電車の中で、あるいは歩きスマホが行き交う通りでは「普通のこと」になってしまっている。

ここまでは僕にとっては復習であり、ぜひ言葉にしなければ、と思ったのは、この先である。


自分がある行動をとる根拠を、行動の内容に関係なく外部に求めること。
これは一つの幻想である。
その外部が「みんながそうするから自分もそうする」という理由である場合、その幻想を共同幻想と呼んでもよい。
幻想とは脳の中の出来事だ。
ただ、「内容に関係なく」と書いたものの、共同幻想が純粋にイマジナリーな性質をもつか、あるいは幾分か人間の感覚(身体性)に従ったものでもあるかは、幻想の内容によって違ってくる。
たとえば、劇的な集団心理の一例としてライブ会場の観衆を考えれば、歌手の歌や演奏に触発されて会場にいる一人ひとりが、自分が会場そのものであるような、観客みんなが一体になったような盛り上がりを見せることがある。
これは、演者という触媒がいて、それを共同幻想の中心だと言えなくもないが、単純に群集心理の結果である。
つまり、この例では幻想が純粋にイマジナリーではない、あるいは身体性によって共同幻想が支えられている、とも言える。

僕が思うのは、スマホ操作者で埋め尽くされた電車内空間は、身体性の支えがない共同幻想によって支配されている、ということ。
身体性という視点で状況を言い換えれば、そこでは「さあ、みんなで鈍感になろうぜ、みんなで『周りに誰も人なんていない』って思い込もうぜ」という認識を強要される。


思えばこれは、満員電車で平常心を保つには必要な幻想かもしれず、大勢の人が集まる都会においては昔からあったことなのかもしれない。
でもやはり違う、昔からあった状況が今も続いているだけ、というのではない。
満員電車は「異常な状況」だ。
都心の電車通勤者にとって日常であっても、それは日常における異常であるはずだ。

SONYウォークマンをはじめ、その異常空間から少しでも苦痛を取り除こうという意思が、技術者側にあったかは知らないが、それを使う当事者には、あった。
(結果として、ということだが)その流れが来るところまで来て、異常を「異常でないもの」にした。

ある異常な環境が異常でなくなったかわりに、
その環境にいる人間が異常になり、
その環境にいない人間までもが異常になった。


解決策なんてない。
ただ回避するだけである。
それがグラスルーツだというのは、異常を回避する人間が増えれば、ただそのことによって(「みんながそうするから自分もそうする」というプラグマティックな原理によって)環境が変わりうるからである。

隠者にそれは、なし得ない。
だから「隠者の心を持て」ということだと思う。

 大勢が声を揃えて一つのことを言っているようなとき、少しでも違和感があったら、自分は何に引っ掛かっているのか、意識のライトを当てて明らかにする。自分が、足がかりにすべきはそこだ。自分基準(スタンダード)で「自分」をつくっていくんだ。
 他人の「普通」は、そこには関係ない。

梨木香歩『僕は、そして僕たちはどう生きるか』

…「別の話」のはずが、繋がりましたね。

 × × ×

僕は、そして僕たちはどう生きるか

僕は、そして僕たちはどう生きるか

香辛寮の人々 2-3 明けない夜に、空けないウィスキー

 
ティーチャーズを飲むのは今日が初めてだ。
スーパーに置いてあるものでは、シーヴァス・リーガルとジャック・ダニエルが好きだという記憶がある。
ただ、初めてウィスキーを手に取った大学生の頃に飲んだ安酒も、味は覚えている。
今好んで飲む気にはならないが、口にすれば、懐かしさが広がるだろう。


シングルモルトブレンドウィスキーの、どちらが好きということもない。
前者はクセが強く、後者はバランスがとれている。
だから好悪がはっきり分かれるのはシングルモルトの方だ。
一方のブレンドは、大体においてそつがなく、それを特徴がないとも言える。
優れたブレンドウィスキーは優れて上品だが、それを特徴がないとも言える。

シングルモルトで記憶にあるのはアイラウィスキーの、ボウモアラフロイグ
ボウモアは一口舐めるだけで、強い磯の香りが舌を突き抜ける。
初めて飲んだ時、それが磯の香りだと言葉になる前に、養生テープを連想した。
当時働いていた研究所で、やけに海苔くさい緑色の養生テープを使っていたからだ。
でも、養生テープから思い直し、磯を認めると、海辺の蒸留所に並ぶ樽が思い浮かんだ。

強い芳香は、瓶の封を開けると急速に薄れていった。


ラベルにクリームという言葉があって、なぜかバターフレーバーを期待した。
いや、期待ではなくただの連想で、その連想の面白さで買ったようなものだ。
ここ数年、自宅ではウィスキーではなくハーブリキュールを飲んでいた。
だから、初めてのティーチャーズは、数年ぶりのストレートウィスキーでもある。

最初の一口、スモーキーな香ばしさ。
悪くない。

 × × ×

「問題意識はあるんだよ」
 フェンネルは弁解するように言う。
「うん。でも、何が問題なのかが分からない、と?」
「そうだ。いや違う」
「どっちだ?」
「……」
 セージは腕を組み、俯いている。その目は閉じられている。
 フェンネルは猪口にウィスキーを注ぎ、ちびちびと飲む。猫がミルクを舐めるように。
 沈黙。

 フェンネルはセージを見るともなく視界に入れている。首を左右にひねって、音が鳴るのを確かめる。
 セージは目を開け、その動きを観察する。なぜか微笑む。苦笑いかもしれない。
「首が凝るような話だよな」
「いや、違うんだ。君の姿勢を見てると、首が固まってくる気がして」
 一度解けたセージの微笑が、倍加して戻ってくる。
「ああ、僕の代わりにストレッチしてくれたわけだ。あれだろ、君の好きな…」
ミラーニューロン
「そうそう」
 フェンネルは景気良く首を回す。セージにその音は聞こえない。

「それで……」
「うん。話はとても複雑なんだ」
 フェンネルは眉間に皺を寄せて考える。しかし、何かを待っているように動かない。
「言いたいことをすぐにパッと言えるような事柄ではないのだろう。とっつきやすい所から少しずつ言葉を積み上げていって、その過程のどこかで自分が問題にしていたことがポロっと現れる。それを君は…うん、期待しているわけでもなさそうだな」
 セージの目の前にもウィスキーが注がれているが、彼は一度も手にしていない。酒は思考を促進する道具にはならないと思っているのだろう。
「なんだかね、セージ。これまでずっといろんな本を読んできたけれど、どうもね、何かが変わってきたようなんだ。突然のことなのか、つまり何か節目があったのか、それかその変化がゆっくりと進行してきたのか、どちらかは分からない。いや分からないでもないんだが…それは今は問題じゃない。何が変わったか。本に対する態度か。いやむしろ逆なんだ。本は、読書は言葉のインプットだろう、その逆のアウトプット、僕が変化を自覚しているのはこちらの方だ」
「喋ったり、文章を書いたり、といったことが、昔と比べて変わった?」
「そうだ。なんというか…受け身になっている。いや、もともと僕は総じて受け身で、話すにしても書くにしても、きっかけなり、アプローチなりを経て始まるのが自然だと昔から思っているから、受け身であること自体が新しい事態ではない。その受け身であることの、度合い…じゃないな、質が変わったようだ」
「ほう。具体的には?」
「それがすぐ言えれば世話はないんだが」
「それはそうだな。まあ、ゆっくりやればいいさ」

 セージは目の前のグラスを手に取って、カラカラと氷を鳴らす。
「夜は長いんだ。なにせ、明けるまではずっと夜だ」
「なんだい、それは。なにかの謎かけ?」
 セージは顔をグラスに向けたまま、目だけでフェンネルを見つめる。
「君の夜、精神の夜。君は夜が好きなんだろう」
「昔は好きだった。学生の頃はね。外が暗くなると、さあこれで自由だ、なんでもできるぞと思ったものだ」
 フェンネルの中に、新たな問題意識が生まれる。唐突に。
「しかし今は……好きとか嫌いとかではなくなったな。うん、君の言う通りかもしれない。夜は、有無を言わさずここにある。対象化の範疇外のものとして。そうか、僕は今、夜なのか」
「それをメタファーでなくとらえることが大事かもしれない」
「?」
現実に夜と呼ばれているものがメタファーかもしれないということさ」
「わからないな、それでは」
「考えればいいさ」
 セージは真面目だ。何の意味もない言葉を並べて面白がるような男ではない。話が抽象的過ぎるのだろうか。
 あれ、そういえば元は何が問題だったか…。
 まあいいか。
「そうだな。明けない夜はないと言うが、はたして"本物の夜"が明けるのかどうか」
 それも、どちらでもいいことだ。

 猪口にもグラスにも、ウィスキーが残っていた。
 ストレートのまま、あるいは水割りになって。

ブックアソシエータのつぶやき 1

 
耳年増というのがあって。
経験はなくとも話には聞いていて、なんだか知った風であるという。
本読みにも似た傾向があり。
読んだ話と実際にあったこととがごっちゃになるともうダメで。

何がダメなのか。

古本屋を始めたのが、いや開店は最近ですが準備は半年以上前からしていて、
とにかく開店のちょっと前から商品にするための選書作業をしています。
そのときの本の読み方が、今まで自分があまりしたことのない拾い読みというもので、
手中の本がどういう内容かを理解するよりは、他の本とどう繋がるかの方が念頭にある。

それは作業上は拾い読みに違いないが意味合いというか目的が異なるために別名を付けたくて、
思いつきと変換の妙で「二割読み」としてみるが「二割」はニワリではなくフワリである。
選書中の感覚がフワフワしていてうってつけであるが、ではどのへんが二割なのか。
内容理解が? と、……あと2つぐらい挙げるつもりが思いつかない。そうなのか。

「可能が可能であつたころ」という言葉が好きで、勝手に漱石先生だと思っている。
可能性はタテマエでもホンネでも使える便利な言葉で、訳せば「可能がホンネであった頃」だ。
いや大体の言葉がそうで、タテマエはホンネの裏返りだから、可能性のタテマエとはああ怖い。
たしか、人生のうちの子どもの時代を指して言われたのではなかったか。

あるいは、何が「あるいは」なのか、つまり別の話だが価値という言葉があまり好きではなく、
なにか事が始まる前から終わっているような非活性が見ようによってはあらわである。
情報が増えるというのは価値があふれ返ることなのかと辟易させられる。
逆に言えば価値がつかない情報は流通しないのだが、そんな情報にこそ価値がある、

というクラウドネット奴隷根性が情報の海抜を押し上げる。上方に。情報だけに。

「二割読み」は正直言って、可能性のシャケの産卵である。ホンネのほうの。
シャケと同じく、孵る卵はごく少ないが。いや本当だろうか。どっちが。
考えようによっては、人間の限界に挑戦しているようでもある。
マルチタスクの鬼というか、デスクトップをどれだけアイコンで散らかせるか、みたいな。

ものごとを確定させていかないと、人は日常生活がままならない。
会話する言葉の意味はもちろん、契約書を切らないと部屋が借りられない。
「二割読み」の鎖書作りは、その人性の自然にあらがう営みである。
不確定をどんどん増やす。ぽんぽん増やす。というか増える。

それにどこまで耐えられるか。ガマン大会ですな。


え、そうなの?

bricolasile.mystrikingly.com

マジックミラーの「閉鎖系多重反射」の怪

先の記事を書いていて、最後に読み返す時に、別の進路へ派生する思いつきがもう一つあったことを思い出しました。
cheechoff.hatenadiary.jp
以下の引用は再掲です。

「お前は誰だ」と訊かれて、優等生の言葉は風紀係の教師に向かい、「私は私だ、あなたの思っているような人間ではない」と答える。しかし非行少女の答え方はそれと全く異なっている。彼女は言う、「私は、あなたが私について思っている、その通りの人間だ。というより、あなたが私についてこう思う、すると私は『それ』になるのだ。私はゼロだ。私は空虚だ。あなたが私にステレオタイプの像をかぶせる。すると私は、『ステレオタイプ』それ自身になるのだ」と。

「ラディカルの現在形」p.155(加藤典洋『ホーロー質』河出書房新社、1991)

下線部について、他者によってアイデンティティを確立するのは、原理的にはこちらが主流で、個性の自己確立という物語が補助である、と先に書きました。
実際は、社会集団の維持のためにアイデンティティが成立する過程は、この両者がバランスをとって進行するのだと思います。
このメカニズムは、歴史的にみて過去も現在も、変わらないように見える。

けれど実は、現代では事情が違ってきているかもしれない、というのがその「もう一つ」です。



あなたが私についてこう思う、すると私は『それ』になるのだ。

資本主義・消費至上社会における「理想の消費者」像は、上記のアイデンティティ確立において、「こちら」、上記の主流が100%であるという構成をもちます。
商品の購入、サービスの利用を通じてなりたい自分になっていく、「なりたい自分」に近づくプロセスの全てがそれら消費活動によって成立しているなら、その「なりたい自分」は自分以外の誰かが考え出したものである。


上で「バランス」と書いたこと、それに対してここで「100%」と書いたことの意味ですが、

自分が「他者がこう思う自分」になる、そういうプロセスと、「他者がこう思う自分」から外れていくプロセス、この2つが経時的に混ざり合うことでアイデンティティが形を成していくが、混ざり合うがゆえにその形成プロセスに終わりはなく、それが人が変化し続けるエネルギィの源となる
ところが、自分が「他者がこう思う自分」になるプロセスだけでアイデンティティを組み立てようとすると、停滞する。
科学技術の発展による生活機器の進化とか、ファッションの変化とか、そういうことが(一人の人間が生きている間に)ずっと続いても、そのこととは関係なく、停滞する。
選択肢が多くあること、そして選択肢の個々が改新されること、そのことが問題なのではなく、「明示的な選択肢から選んで自己確立する」という一つの物語しかないことが問題である。

 × × ×

何か堅苦しい話になりましたが、最初に書きたかったのはもっとシンプルなことでした。
三たび、引用します。

あなたが私についてこう思う、すると私は『それ』になるのだ。

日本のトップの人からしてそうなんですが、みんながみんな、これを「やりっぱなし」のような気がふとしたのでした。


二人の人間が、お互いを認め合うという場合、その二人はもちろん、異なった個性を備えている必要があります。
自分とは違う人間から、その違いを認められ、自分という存在を受け入れられることで、他者の承認に基づくアイデンティティの確立がなされる。

たとえばこれが、自分と同じ人間だとお互いが相手に対して思う、二人の人間のあいだで起こるとどうなるか?
「あなたが私についてこう思う、それは私がなりたい(なっている)と思うそれである。」
たとえばお互いが相手に対してこう思っている二人が、互いに承認し合うと、何が起こるか?

そういう人々の頭の中において、他者の定義はきっと、
「自分にとって未知なる者である」
ではなく、
「自分がこう思うような者が他者である」
ということになっている。

それを「気持ちがいい」と思ってしまえば、もうそれまでのことである。

人は、ステレオタイプをなぞり、ステレオタイプを追い抜き、ぼく達に言う。私は「ステレオタイプ」なのだ。私はあなた方が作った、私の考えていることを、さあ、あててみろ、と。

ラディカルの未来形、マジックミラー・シティ、意識活動の質的変化

 風紀係の教師の前に立たされた非行少女は、ただ一つのことを知っている。それは、自分の言葉がけっして相手に受けとめられることはないということ、もし受けとめられることがあれば、それは、相手が虚偽であるか、自分が虚偽であるか、そのどちらかの場合だけだ、ということである。(…)
「お前は誰だ」と訊かれて、優等生の言葉は風紀係の教師に向かい、「私は私だ、あなたの思っているような人間ではない」と答える。しかし非行少女の答え方はそれと全く異なっている。彼女は言う、「私は、あなたが私について思っている、その通りの人間だ。というより、あなたが私についてこう思う、すると私は『それ』になるのだ。私はゼロだ。私は空虚だ。あなたが私にステレオタイプの像をかぶせる。すると私は、『ステレオタイプ』それ自身になるのだ」と。

(…)

 ゴダールの初期の映画『勝手にしやがれ』は、細部は違っているかもしれないが、大筋のところ、ほぼこんな映画だ。
 ジャン=ポール・ベルモンド演じるミシェルという「ちんぴら」がいる。ジーン・セバーグ演じるパトリシアというアメリカ人の女子留学生がいる。二人は知り合い、恋仲になり、やがて、ミシェルがつまらないことで警察に追われる身になり、二人して南仏に逃げる。(…)パトリシアはさんざん迷ったあげく、警察に密告するが、してしまってすぐに後悔し、ミシェルに、いま自分があなたを警察に売ったから、もうすぐ警察がくる、早く逃げろ、と言う。しかしミシェルは腰をあげようとしない。彼はこんなことを言う、「おまえがそうしたのなら、俺は逃げない」。彼は、俺はおまえを愛している、愛しているおまえが売ったのなら、俺は売られる、そう答えるのである。

「ラディカルの現在形」p.153-154,155,156(加藤典洋『ホーロー質』河出書房新社、1991)

 森田[吉本ばなな『キッチン』原作の映画監督]の豪華なキッチン、高嶺[擬架空の沖縄映画『パラダイス・ビュー』の監督]の「通じさせなくする」字幕、松田[優作、リドリー・スコットブラック・レイン』の出演俳優]の役者絵の顔。ぼく達はここで、何を前にしているのだろう。僕たちはここで、ある意志のかたちを前にしている。その意志のかたちは奇妙な表情をしている。いまは無意識が力をもつ時代、しかも無意識でいることがことのほか難しい時代だということだが、無意識でいることができない場合、ちょうどその分だけ、たぶん人はラディカルにならざるをえない。ところで、そういう時、人は、ただ単にラディカルなのだ。そのことに意味はない。人は、ステレオタイプをなぞり、ステレオタイプを追い抜き、ぼく達に言う。私は「ステレオタイプ」なのだ。私はあなた方が作った、私の考えていることを、さあ、あててみろ、と。
 このことにいったい、どのような「意味」があるだろう。

同上 p.167

「無意識でいることがことのほか難しい時代」。

僕は前に、現代人はもう無垢ではいられない、ということについて考えたことがあります。

一つ前の「自覚の時代」の記事とつながる話ですが、個人が入手できる情報が増え、その方法が簡便になり、ついにはその方法の行使が「回避できない」、意識して遮断しても間断なく情報が流れ込んでくる現代で、人は無知を装うことしかできない、絶滅危惧種となった「無垢なる人」の存在が、架空の物語のなかでしか認知されない。

情報の奔流を冷静に見定め、波乗りのごとくその上方で己をコントロールする技術を、またその勇気を持たない大多数の人間は、無秩序に見える濁流に呑まれまいと、興味の対象を絞り切り、その他に対しては無関心を決め込む。

専門家以外は無知となり、当の専門家は異分野において無知を晒し、その姿勢がまかり通って、厚顔無恥歩行者天国を埋め尽くす。

たぶんそれは脳化社会の洗練の過程で起こる生物的な反応で、必然といえばそうなのかもしれません。
そして自覚とは、その意味で反生物的でありながら、反生物的な遠望によって生物種の存続を試みる「キャッチャー」、断崖の目前で羊の群れを押し留める意識の機能である。


それはよくて。
「私は私ではなく、あなたが私について思っているもの、それが『私』だ」という答え、「お前は誰か」という問いに対するこの答えには、マルクスのいう「命がけの跳躍」がある、と加藤氏は言う。
そこには、あるラディカリズムが含まれている。

「他者とは自分を映す鏡である」という見方からすれば、いやそれを極端化すればということかもですが、アイデンティティの確立が全的に他者に依存することも、そう奇妙には思われない。
自分は自分以外の他人ではなくほかならぬ独自の己のことである、そういう自己認識を自分で立ち上げ自己了解する。これは一つの物語であり、たぶん人間社会の文脈に「個性」という考え方が力を持ち、その力が社会の発展を促すと考えられた時に補助的に役立つ目的を担った物語であり、原理的にいえばそれは「補助」である。

ラディカリズムというのは、建前や本音が実用や遺物とともにごっちゃになった複雑怪奇な現在進行形に対して、ある特定の原理を基準に弁証法を推し進める、そのことで現在に新たな角度から光をあてる一つの手法です。
だから、そう呼ばれ始めて、周囲に認識されることになったラディカリズムは、人々が自分の生活や認識の中からは思いもしない姿形を、その生活や認識の中に浮かび上がらせる力を持つ。その意味で、一つの文脈をもった特定分野のラディカリズムは、いつか色褪せる運命をその起源から負っている。

そして、特定分野のというのでなく、思想としてのラディカリズムの貫徹というのは、鮮度を失い、色褪せて通俗化した光の中にいて、その外から「ここに射し得る新たな光」を幻視する、その可能性を持ち続けることである。


本題に入る前から話を大きくしてしまいましたが。

上で後者の引用は、「ラディカルの現在形」という章の末尾の部分ですが、その最後の一文を省いています。
その省いた一文とは、こういうものです。

 このことにいったい、どのような「意味」があるだろう。いま、ラディカルであることに、「意味」はないのだ

小論の最後に結論のように断定して書かれていますが、これは意見ではないように読めました。
つまり、「ラディカルであることに意味はない」、これはラディカルの定義です。
意味の連なりを遡求し続けた先の消失点(つまりその道行きは漸近的でしかない)に、意味は存在しない。

このように書けば、加藤氏のこの小論が「結論なし」と読める、と言っているようですが、そうかもしれないと思いつつ、そうでもないとも思えるのです。
というのは、ラディカリズムをラディカルに分析するのはナンセンスであって(文字通りですね笑)、僕が本を読む時はいつでも、その文章をプラグマティズムに基づいて判断する自分(の一部)がいます。

その僕自身の一部、僕が素直だと自己認識するその一部は、小論の結びの一文は「問い」であると認識しました。
結論に問いが差し出されること、これこそが批評の存在意義だからです。

 × × ×

やっと本題です。

加藤氏の評論の中に、「マジックミラー」という言葉が出てきます。
映画『パラダイス・ビュー』に対する氏の分析の中にそれはあります。

 つまり、まず『パラダイス・ビュー』という沖縄で撮られた、琉球語の、沖縄の映画が作品として存在し、それを日本の観客にも見せるため、字幕が付与された、というのではない。アメリカの英語の映画が、アメリカの観客のためにまず作られ、そこに字幕をつけて、日本に輸出された、という場合の字幕の用法とは全く異なっている。この映画は、日本の観客にむけて作られている。日本の観客にむけて作られながら、それではこの映画は、なぜ観客に「通じない」言葉で語られるのか。この映画は僕たちにそう考えさせる。というより、この映画はぼく達にそう考えさせるためにこそ、まず「通じない」言葉で作られ、それを翻訳しながらそれが「翻訳」にすぎないことを、そのむこうには翻訳されるべき何かがあることを、ぼく達に思い知らせるように作られているのである。それは素通しのガラスなのではない。しかしたんなる遮蔽幕だというのでもない。それは字幕なのだ。鏡というより、それはぼく達の顔、ステレオタイプとしてのオキナワを映しだす、マジックミラーだと断わって差しだされた鏡なのである。
(…)
この映画を作らせたのはあなた方だ。あなた方の沖縄にたいするステレオタイプ像がこの映画の原動力なのだ。ここから僕たちはこうした声を聞く。ぼく達の前にあるのは、マジック・ミラーなのだ。ぼく達にそのむこうは見えない。見えるのは僕たちの姿だ。そのむこうから誰かが見ている。ぼく達は、たしかにこの映画を前に、そんな落ちつかない気持を味わうのである。

同上 p.159-160,161

ここを読んで思ったことの一つですが、

隆盛を極めた脳化社会の結実である都市において、さらにはその思想を純粋培養して成長し、過去に電脳都市と異名をとったネット空間において、店舗や住宅の一つひとつが、またデザインやガジェットといった要素の一つひとつが、マジックミラーであり、その機能を帯びているのだということ。
そこで人が目にするものの各々が、その人の欲望や不満を映し出す、つまり人は身辺周囲のそこらじゅうで自分自身を見せつけられる。
と同時に、己が映し身の奥には常に、自分ではない誰かの顔が、顕わであり密やかな思惑が透けて見えている。


そしてもう一つ、その続きですが、
「マジックミラーの多重反射」という現象を思いつき、その意味するところを考えてみたいと思ったのでした。
以下はその考察です。

ある物質に入射する光は、3通りの経過を歩みます。
透過する、反射する、あるいは吸収される。
物体は光に関して、透過率、反射率、吸収率という各々その物体固有の物性値を持っており(物理科学がそう定めた、ということですが)、パーセントで表される3者を足せば、ちょうど1になる。

光の吸収というのは、要するに物質内の光路における波動の減衰ということで、話が複雑になるのでここでは無視します。
つまり、物体は光の一部を反射し、残りを透過させる、と考える。

マジックミラーは、光を透過しない通常の鏡(フルミラー)と違って、いくらか光が透過するように材料や膜の積層構造を調整した鏡です。
マジックミラーの2つの表面に光学的な機能差はなく、マジックミラーが境界となっている2つの空間の明るさの違いによって、鏡に見える側の面と光が透過して見える側の面とがあるように錯覚させるものです。
マジックミラータイプのサングラスは、装着した人の顔面(=サングラスと両目のあいだの空間)が暗く、同時に彼が明るい場所にいるという条件を満たすことで、目線を他人に見られずに彼の視界を確保することができます。

もちろん、直上の文脈における「マジック・ミラー」とは比喩であって、ここでも同じくメタファとして考えています。

たとえば。
警察ドラマの取調室にある鏡がマジックミラーだとわかるのは、それが知識として普及しているからであって、その奥に誰かがいるかもしれないという判断に知識が先行しています。
いっぽうで、商品や建物など人工物とはいえ本来は無機的な物体、さらには多様なコンテンツを含むネット上の無数のHPは、誰かの意図が介在し、その存在に何らかの目的があることが一目瞭然である点において、それらはマジックミラー的であると言える。

アマゾンの奥地を歩きながら現地人が合切袋に放り込む物々に映り込むのは、ただ現地人の思考のみである。
それと同じことは、テレビCMで「あなたの自己実現のために」と喧伝される健康器具を目にする消費社会の構成員には起こりえない。

もっと言えば、「鏡(フルミラー)としての他者」は己の欲求を押し隠して真摯にコミュニケーションをとる奥ゆかしい存在であるのに対し、傍若無人で滾る自己顕示欲のなすがまま他人を道具として利用することしか考えない人間は、よくて「ハーフミラーとしての他者」、そう捉えるのもつらい一般人には(他者は自己の鏡である、という観念を外せないばかりに)自分が汚物のように思われて直視をためらわれる存在、ということになる。

 × × ×

さて。

考えたいのは「多重反射」のほうです。
つまり、一つの商品には多くの人間の多様な意思や欲望が含まれており、ある一人の言動はその人以外の何人もの意図が介在してその影響が窺われる、というような…
書く前からややこしいと分かっていましたが、めんどくさそうですね。

方向性を変えましょう。


人工物の少なかった時代、たとえばアニミズムの繁栄する古代日本を思うと、八百万の神というのは、自然物という思惑のないものに対して思惑を読み取るという感受性の象徴です。
現代はたぶんその、逆をいっています。
人工物に取り囲まれた生活を生きる現代人は、思惑だらけの物質世界から、可能な限り思惑を読み取るまいと努力することで命脈を繋いでいる。

いささか大げさに二極化して書きましたが、この「逆」の意味するところは、オーバ・キャパシティ、です。
どちらも意識活動の必然の目指すところなわけで、つまり程度問題だ…
と書いて結論にしようと思ったそばから、そうではないという気がムラムラとしてきました。

たぶん後者は、「質的変化」を伴っている。


どんどん論理が粗っぽくなっているのは承知ですが、これは僕の脳キャパシティとMacBookのバッテリィの問題なので悪しからず。

「システム」のことを、これまで何度も書いてきましたが、

ある時代から「システム」自身が思考を持つようになった、あるいは人間がそう考えたくなるほど「システム」が複雑に進歩を遂げた
上に「意識活動の必然」という書き方をしたのは、夢・希望を抱いて実現を目指すとか、課題や問題の解決といったことが、生活環境がどう変わっても、ある量的な範囲で実行されることが人間の自然である、というような意味ですが、その意識活動の一部を「システム」が代替するようになった、あるいは人間がそう考えたくなるほど「システム」が複雑に進歩を遂げた

この一部代替ということが、上の「質的変化」の意味するところで、これはもしかしたら、「意識活動の必然」の範疇を外れるものではないか。


高齢化社会先進国日本」と同じように、この事態が歴史に前例のないものだという認識に立てば、それこそ背筋が伸びて頭も回ろうというものです。

 × × ×

ホーロー質

ホーロー質

自覚の祝祭

いつまでも読み継がれる、古びない本があります。

でも、本とは本来、そのような意図でつくられたものです。

内容が古くなって、現代では読む「価値」がない本。
この「価値」は現代が下した判断です。

だとすれば、それを疑うことは、古びた本を復活させることになる。
現在価値がないという判断を覆すことが、新たな価値の創造となる

あらゆる本が、そのような可能性の、その一翼を秘めています。
そしてそれが一翼だと言うからには、飛び立つための翼がもう一枚ある。

読み手、しかもそれは創造的な読み手です。


温故知新という言葉を連想し、その言い換えを考えます。
インカーネーション

 × × ×

いつまでも読む価値のある本。
それは決して、内容が古びないことだけを意味しない。
書いてあることは、古い昔の、当時のこと。
今では存在しないこと、起こりえないこと。

でも、人が書いたものなら、そこに「その人」が現れる。
描写の視点、出来事に対する思考、分析。
純粋な客観があり得ないという、認識の限界。
その限界こそが、可能性の、あらゆる本の無限の可能性の源。

限界が無限を生み出すパラドックス
これは意識の無矛盾的な性質です。

 × × ×

『オルターナティヴズ』(イバン・イリイチ)は古い本なのですが、読む人に「今こそこの本を読むべきだ」と思わせる、強い力を持った本です。
「はじめに」の初めには、こうあります。

 この本の中の各章は、ある種の確定性の性質を問い直そうとする私の努力を記録したものである。したがって、それぞれがごまかしを──われわれの諸制度の一つの中に組みこまれたごまかしを対象に取りあげている。諸制度は、いろいろな確定性を生むものである。そして、まともに受けとめた場合、確定性は心情を死んだものとし、想像力に足かせをかける。私の言葉──怒りに満ちたものや情熱的なもの、技巧的なものやすなおなもの──が、微笑みを、したがって新しい自由をも引き起こしてほしい──たとえ自由がそれなりの代価を払って得られるものであるにしても──というのが、私のつねに変わらぬ願いである。

イバン・イリイチ / 尾崎浩訳『オルターナティヴズ 制度変革の提唱』新評論、1985、p.7

この一節に感じるところがあれば、その人はイリイチに招かれている。
彼の招待を受けること、積極性を賦活するための、最初の受動的行動。


それはよくて。
引用の「諸制度」、これは僕がいつも「システム」と呼んでいるものです。
たとえば、「卵と壁」(@村上春樹)の、「壁」もそう。

明文化された法律、常識や慣習。
数十行のプログラム(たとえばC言語とか)から、全国の宅配流通網を制御するネットワークまで。
社会集団の秩序を効率的に維持するための仕組み。
その始まりには、必ずある目的をもっていたもの。

たとえば「システム」をこのように意味付けるとき、「システム」は有史以来、拡大の一途を辿っています。
また、あらゆる「システム」は、ある目的をもとに生まれた当初は、人の頭が考えたという意味で身の丈を備えているものです。
その身の丈は、「システム」が集団に適用され、運用され、力を増していくごとに、形を変えていく。
 「システム」的な身の丈が、集団の成員一人ひとりの身の丈に変化する場合。
 あるいは、成員の感覚に関係なく、「システム」がもっていた身の丈が失われていく場合。

書きながら思いついたんですが、高度情報化社会が到来してから、「システム」の(変化の)主要な形は、前者から後者に切り替わったのではないか。
設立時の目的が見失われても、変わらず運用が続いている、形骸化した「システム」。
みんながやっているから(という理由付けは日本特有であるという認識はもう古いのかもしれません)、変えるのが面倒だから、という生物的な惰性が生かし続けている、非生物的な「システム」。
こういったものはすべて、後者の「システム」の中にあるのではないか。


話を戻しますが、『オルターナティヴズ』には、後者の「システム」に対するイリイチの根本的な疑義が書かれています。
その場面は1960年代のアメリカ、プエリトリコ、そしてそのトピックはキリスト教会に関するもの。
だから、「そんな二世代以上前の、海外の、宗教の話なんて関係ない」と、興味を切り捨てることは簡単にできる。
でも、抽象的にとらえれば、いつの時代のどこにでも起こる問題に対する、一人の人間の身の丈の思考(問題把握、分析、そして抗議と提案)が、この本では展開されている。
だから、いつの時代のどこにでも起こる問題に遭遇し、「これは立ち止まって考えなきゃな」と思った人は、時代、国に関係なく、イリイチに招かれている。

 × × ×

最初に書こうとしたことに戻ります。

この本の現タイトルは "CELEBRATION OF AWARENESS" 、「自覚の祝祭」というものです。
本の内容を鑑みて邦訳が「オルターナティヴズ」(代替案)になったのでしょうが、自覚という言葉が好きな僕は、この本を「イリイチが書いたんだ…」とわりと平坦な気持ちで手に取り、現タイトルを知ってから俄かに熟読する気になったのでした。
もしこの本が、新たな訳者を得て再版となるようなことがあれば、「自覚」の語をぜひタイトルに入れてもらいたいものです。

さておき。

本書の全体、つまり各章とも、上に引用した「諸制度の…ごまかし」に対する疑義と提言であり、その提言は制度に属する人々の一人ひとりに対して向けられ、彼らの「自覚」が肝なのだというメッセージが込められています。
だから、AWARENESSのほうは本書に横溢していて、ところでCELEBRATIONとは何か?

と、読みながら思っていたわけではないのですが、このことを思い出させてくれたのが7章「無力な教会」でした。
その中から一節を引用します。

 変化の自覚は、個人的責任の意識を高め、その利益を分かち合うよう促す。したがって変化の自覚は、単に祝祭への呼びかけに導くだけでなく、仕事(ワーク)への──他の人たちが労苦や幻想から自己を解放することを不可能にしている障害物の除去への──呼びかけにも導く。
 社会的変化とはつねに、社会構造の変化、公式かされた諸価値の変化、そして最後に社会的性格の変化の意味を含んでいる。これら三つの要因は工夫や創造性を束縛するものであり、こうした拘束に反対する行動を起こすことは、それらを足かせとして実感する人びとにとっての責任となる。

同上 p.134

これは、自覚の責任。
「責任の利益」などという言葉の並びをもはや誰も使わない現代には、清新に響きます。

 われわれはいま、人生の指導的な力としてのイデオロギー、信条、宗教の束縛から人間を解放しようとする、一世紀にわたる闘争の終点に立っている。神がキリストの形をとった託身インカーネーション)の意義に関する非テーマ的な自覚が浮上してきている。それは人生の体験に対し、堂々と「イエス」と言える能力である
 新しい対極が浮上している。物ごとの操作と対人間関係の間にみられる緊張*1を見通す日々の洞察も生まれている
 われわれは、有用なものを前にしたばかばかしいとされるものの自主性を、また目的あるものに対立する無償のもの、合理化・計画化されたものと対立する自発的なもの、さらに創意に富んだ解決策により可能となった創造的表現のそれぞれ自主性を主張できるようになった
 われわれが、社会的諸問題に対し目的をもって、計画された、創意に富んだ解決策を達成するには、なお長時間にわたりイデオロギー的理由づけを必要とすることだろう。意識して世俗的な立場をとるイデオロギーに、この仕事を任せればよい。
 私としては、全く何らの目的もなしに、私の信仰を祝うことにしたい。

同上 p.137-138

ここがまさに、自覚の祝祭、「自覚の時代に対するお祝いの言葉」だと感じられました。
そしてここを読んで、「今は良い時代なのかもしれない」と思いました。

物的な豊かさ、という意味ではありません。
精神的な意味、つまり「自覚」にとって、いちばん良い時代だということです。



「八方塞がり」ということがない。

現実生活として、苦しい人、追い詰められている人はたくさんいるかもしれない。
でも、彼らには逃げ道がある、あり得る。
そして彼らを救いたい人にとっても、その手段があり得る。
自覚はつねに、当面の問題に対するオルタナティヴを、次善策、プランBを提示できるのです。


選択肢が、商品の陳列棚のように、無数にあるのがよいこととは限らない。

ただ、選択肢が、己自身が生み出したそれが、もう一つあること。
自覚は、この「希望」の唯一の源なのです。

 つまり、メンタルストレスというのは、メンタルストレスという自存的な不快のことではなくて、「自分はこの不快な状況をどうすることもできない」という無力感、無能感とセットになったときにはじめて機能するものだった。ですから、どんな嫌なことがあっても、自分がスイッチをオフにした瞬間にこの嫌な気分はたちまち消えると思っていると、つまり自分は自分の状況をきちんとハンドルできていて、心身の状態をコントロールできるという確信があると、メンタルストレスは発症しない。実際にストレスを解決する手段を行使しなくても、そういう手段を持っていると思うだけで、ストレスはネガティブな効果を及ぼすことができなくなるんです。そういう話を[池谷裕二さんという脳科学の方の講演会で]うかがいました。

「第11講 鏡像と共─身体形成」p.214(内田樹『街場の文体論』)

 × × ×

オルターナティヴズ―制度変革の提唱 (1985年)

オルターナティヴズ―制度変革の提唱 (1985年)

*1:翻訳される前の文章をぜひ読んでみたいものですが、この部分は「壁と卵」、システムと個人、と言い換えられるのではないでしょうか。

「鎖書店」説明ページのための文章

このブログにはほとんど書いてこなかったのですが、現在「新しいコンセプトのネット古書店」の開業準備中で、半年以上前からコツコツと進めていました。

今日はその準備の大詰めで、販売HPの説明書き(要するに「売り文句」)を書いていました。
「鎖書店」と命名したものについて、長い間考え、書き溜めていたメモを読み返し、それから「えいや」で一筆書きのように文章を打ち込みました。
推敲をあまりしていない、いわば初稿ですが、紹介のため転載しておきます。

薄利多売の対極をゆく、キーワードは「非消費者的読書」です。

以下の販売HPに商品データをアップロードして、近々開店する予定です。
本好きな方も、普段本を読まない方も、長いですが一読して興味を持たれましたら、ぜひ当「鎖書店」をご利用下さい。

ブリコラジール=サンタナ鎖書店


 × × ×

本HPにお越しいただき、ありがとうございます。
このショップ、つまり鎖書店は、利用者と本との間に「新しい出会い」が生まれることを願って立ち上げました。

鎖書とは、なんらかの関係で繋がった複数の(主に3冊の)本のことをいいます。もちろん造語です。

一冊の本はふつう、著者が本の中に書いた文章を、その本を手に取った読者が読むものです。
つまり本を介して、著者と読者が一対一で相対するわけで、著者と読者との関係はその一冊の中で閉じています。
上下巻やシリーズものは、複数の本の間に関係がある。また、同じ著者の本、同じジャンルの本…と、ある枠組みを考えれば、その中に含まれる複数の本も、互いに関係をもつ。こういった関係はすべて、外的な、客観的な関係です。
その、客観的な関係に対して、「主観的な関係」を考えることができます。
簡単に言えば、主観的な関係とは例えば、「俺(私)が読む本は、自分が読むという理由によって互いに関係がある」といったものです。ある人の家の、本棚にある複数の本は、それらがそこにあるというだけで関係がある。
あるいは、「本Aを読んでいる(読み終わった)時に本Bのことが頭に浮かんだから、本Aと本Bとは関係がある」という形もそうです。
一人の人間の経験をよりどころとして並べ置かれる本たちは、主観的な関係によって結ばれている。

鎖書とはまさに、店主(僕)の独断と偏見という主観的な関係をもつ本たちです。
オフィスに自作した書庫にある、僕が読んだものも未読のものも混ぜこぜの蔵書(複数の読書家から引き取った古本です)から、「連想」という意識活動一点に方針を絞って選ばれた、当の本たちにとっても思いも寄らない組み合わせです。
そんな訳の分からない、こじつけで意味なんてないかもしれない本のセットを、誰が好んで買うのか?
と、そう考えるのが常識かもしれません。


僕は最初に「新しい出会い」を生み出したいと書きました。
ふつうに、つまり書店で、古本屋で、あるいはAmazonで本を買うのとは違う形での本との出会いを実現させたい。
では、鎖書店で本を買うことの、なにが「新しい」のか?

ポイントは、ここで本を買おうと思うあなたは、ある鎖書の価値、セットで買うことになる三冊の本の価値を、よく分かっていないという点にあります。

たとえば。
鎖書のうちのある一冊を読んでみたい、でもあとの二冊は特に興味がない。
と、あなたがそう思った時、「賢い消費者」的な感覚からすれば、その一冊だけを別のところで買えばいい。
俺(私)がもし、その一冊のことを(読む前なのに)よく分かっていて、読み終えれば自分がどのような満足を得るかも予想できていて、コンビニでサンドイッチを買うのと同じように、買って食べる前と後とで(お腹の状態を除いて)自分が何も変わらないことを望んでいるのならば、その一冊だけを、一番安くて、ついでに手間のかからない手段で買えばいい。
でも、と考える。
でも、そうではなく、その一冊のことを自分はよく知らないし、レビューも見ていないけれど、なぜか興味が湧いて一度読んでみたいと思っており、読んだあとに何が起こるか想像できない(面白い、またはつまらないと思うかもしれない。あるいは自分の感想や評価なんてどうでもよくなるくらい価値観が変わるかもしれない)、それが不安ではあるが、その「結果が予測できない」こと自体を楽しむ気持ちが、俺(私)にはある。
何よりも、その一冊が内蔵している未知と、それを読んで起こりうる自分の変化に対する好奇心がある。

もし、あなたが、本に対してそのような気持ちを抱いているとすれば、その一冊が「単なる一冊」ではなく「鎖書」という形であなたの目の前にあることは、あなたの好奇心をさらに刺激するきっかけとなるはずです。

僕は、本は「消費するもの」ではないと考えています。
理想の消費者は、商品の値段がその使用価値に見合うかどうかをしっかりと見定め、価値と値段の差し引きがマイナスにならない(ひいては最大化する)場合に、購入を決断します。
しかし、書店に並ぶ本に対して、同じ姿勢がとれるでしょうか?
少なくとも僕は、イエスと答えることができません。
本の価値は、それを使い切るまで分からず(厳密に言えば「使い切る」ことが本当に可能かどうかも疑問です)、かつ一人ひとりにおいて価値の大きさが異なる。つまり、本の本来の価値は、お金に換算できない(巷に並ぶ数字は流通価格という間に合わせのものです)ことはもちろん、客観的な指標もありません。
言い方を変えれば、本のほんとうの価値は読み手が決める、そしてその責任を読者が負うということです。


以上、ショップの説明について散漫に書いてきましたが、簡単にまとめてみます。

本HPを訪れた時に、「余計な本がくっついている」「ムダに値段が高い」と思われる方は当然いると思います。
それは消費者的感覚として、正しい反応です。
ただ、そのそれぞれに理由はあります。
「鎖書」という形式で販売するのは、一冊の本が(読者の中で)その一冊が持つ以上に発展する可能性を込めているためです。
「値段が高い」のは、そこに、手前勝手であれ店主の選書料と、読み手自身が本の価値を見出すと自分に発破をかけるための散銭が含まれているとお考え下さい。

これらのことに納得いただいて(しなくてもよいのですが)、当鎖書店をご利用いただけますと幸いです。

敬具

店主

子どもに「かまう」人の視線と秩序

「でも子供を可愛がるというのとは、ちょっと違うんです。なんと言えばいいんだろう? 子供にかまう、という方が近いかな」
 かまう?
「うちにも子供がいるんですが、犬伏はとにかくかまうんです。子供が好きなことはたしかなんだけど、可愛がるというのとはちょっと違うな。かまうんです」
(…)
 犬伏は炎天下、三キロの周回コースを黙々と走り続ける。二時間二十五分の自己ベストしか持たないときにも、自分はシドニーに行けると信じていた男。それが犬伏というランナーであり、人間である。(…)そしておそらくはクールなアティチュードの奥に隠されている手つかずの少年の心、長い夢を見続けることのできる力。ポイントの尖った神経。ある部分では、ある意味では、彼自身がまだ子供(infant)なのだ。だからこそ、ほかの子供たちをかまわずにはいられないのだ。

「2000年6月18日 広島」p.43-44(村上春樹『Sydney!』文藝春秋)太字は本文傍点部

誰かに言われたか、自分で言い始めたのか、最初がどうだったか覚えていませんが、僕は子どもに好かれるとよく言われます。
最初のうちは、「僕自身は子どもがあまり好きじゃないけどね」と半ば本気で返していたんですが、それがあまりよくない印象になるらしく、いつからか「そうかもしれない」と曖昧に答えるようになりました。

子どもがあまり好きではない、というか得意ではないのは本当です。
なぜかというと、実際にそういう状況に陥ったことはないはずですが(だから小説を読んだ影響でしょうか)、自分がその子どもの責任を負っている状況でその子どもが手に負えなくなること(特に衆人環視の場において)を恐れているからです。
だから、自分と血の繋がった子どもをもつことに対しては、少なくとも一つ、想像上の恐怖がある。
もちろん、そんな些細なことは、本当に子の親になってしまえば当事者的プラグマティズムで簡単に乗り越えられるだろう、という楽観も同時にあります。

その一方で、子どもを観察するのは好きなのです。
自分と一緒にいる子どもに対して、あるいは街中で(ある一定の時間、固定的に)視界に入る子どもに対して、自分の心に余裕があれば、その子どもをじっと見る。
注意力を以って集中して見るというよりは、こちらの頭を空っぽにして視界の中心にその子どもを置く、という感じ。
いや、正確にいえば、そうやって視界に置くことで、こちらの頭が空っぽになる。

たぶん、子どもからすれば、そのような視線を受け止めることで、嬉しくなるのだと思います。
「ボクが何をしても怒られない、しかも黙って見過ごすというのではなく、興味を持ってこちらに注目してくれる」
親は四六時中いっしょにいて、彼にかけられる言葉や視線の大半が、注意や制止といった躾になりがちになる。
彼の生活における日常的な経験、そしてそれに含まれる教育効果によって、彼は街で出会うほとんどの大人たちの視線も同じように感じるようになる。
そういった彼の身の回りの大人たちからは滅多にもらえない、純粋な興味を含んだ視線を受け止めれば、彼の気持ちは浮き立ってくる。

目を合わせているうちに、彼の心をすっぽり覆っていたリミッターが、少しずつ解けていく。
果たしてどちらが先なのか、子どもの頭も、次第に空っぽになってゆく。


犬伏選手についての、監督の人物評価、そしてハルキ氏のコメントにある「かまう」、「かまわずにはいられない」という表現に出会って、僕は自分もそういう人間かもしれない、と思いました。
「可愛がるというのとはちょっと違う」、これも当を得ている。
そういう人間が親に向いているかどうかはここでは問題ではありません(ハルキ氏のエッセイの中ではこの点、ポジティブに書かれています)。
僕は抜粋部を読んで自分のことを連想した時に、「かまう」とはどういうことだろうか、と興味が湧きました。
ハルキ氏の筆致は言い足りないわけではなく、言い過ぎでないと同時に、行間に込められた意味がある。
その意味を、言葉にしてみようと思ったのでした。
(言うまでもなく、行間とは「読んだもの勝ち」の代物なのです)

 × × ×

子どもとは自然である、とは養老孟司氏によって膾炙するに至った名言です。

躾、つまり教育は、自然たる子どもを社会に適応させるために社会集団が採用したシステムです。
「自然」というのは性質の名であって、一般的には子どもが成長するにつれ、この性質は薄れていく。
しかしその程度差はケースバイケースであって、妙に大人びた子どももいれば、子供心を持ち続ける大人もいる。
ちなみに、消費社会が興隆を極めて増加の一途にあるのが前者ですが、幼児的な振る舞いで政治を混乱させその価値を地に貶める壮老年、あるいは一億総ガキ化と呼ばれるものが指す対象は後者ではありません。
日本社会の現状を表す「幼児的」というキーワードは、子どもの持つ「自然」という性質ではなく、躾による社会化を要する子どもの「自然と規範の混交物」を指している。
自然を制御するための規範が、自然の気まぐれによってコロコロ変わる、これは「螺旋」のプロセスの範疇か、それともコースアウトの兆候か。

閑話休題

自然とは、別の言い方をすれば無秩序、カオスです。
自然という性質が、いや自然そのものでもいいのですが、猛威を振るえば社会は壊滅する。
それに対する本質的な恐れが、社会における教育というシステムの駆動源です。
でも自然は、それが完璧に制御されると、死んでしまう。
秩序の実現は、カオスの一掃ではなく、カオスとの共存という針路に可能性をみる。
すなわち自然は、秩序のなかでときに、賦活されねばならない。

…たぶん、そういう視線があるのだと思います(超飛躍)。
学校や家庭に縛られた子どもが歓喜するような、同時に、平和な生活を守らんとする大人が恐怖(疑惑)を抱くような。

僕は、時にそういう目で人を(というか視界に入る全てを)見られる人間でありたいし、(今の自分がどうだという話は別にして)年を経ても変わらずにいたいと思います。
そのような人間がいるとすれば、彼は、秩序破壊者であると共に、秩序維持者でもあるのです。
彼がそのどちらであるかは、彼自身にとってあまり意味はなく、彼が決めるわけでもない。
螺旋を描く秩序のプロセスのみが決定者であり、彼はそれに粛々と従うのみです。

 × × ×

シドニー!

シドニー!

Can one speak about unspeakable? (4)


言葉は「ないものをあらしめる」ために生まれた。
その場にあるもの、そばにいる人を名指す必要は、本来はない。
身振りで伝わるからだ。

時間的に、または空間的に、「ある」が「ない」に変わったもの。
あるはずがなくなったもの、あってほしいがないもの。
今その人が感じる「ない」を「ある」にするために、
即物的な工夫では叶えられない願いが生まれた時に、
言葉が生まれた。

それは、祈りとも呼ばれる。

原始古代から現代に至るまで、一方的に「ない」ものがなくなっていく過程であった。
「ない」ものが少なくなる、「ある」ものが消えなくなる。
そうしたプロセスにおいて、言葉は祈りではなくなっていった。
言葉はだんだん、「あるものを名指す」ために用いられていった。
祈りは、その対象をどんどん失っていった。

言葉が祈りである目で見れば、現代は沈黙の時代である。
誰もが「ある」ものにしか関心を寄せなくなった。
「ある」がなくならないのに、存在しない「ない」には関心の持ちようがない。
だが、それは本当だろうか?


「ない」がなくなることは、「祈り」がなくなることである。
祈りは、「ある」、かつてはあったものである。
なくなったものへの深い関心の表現が、「祈り」である

なくなった「祈り」への言葉は、祈りとなる

そしてそれは一例に過ぎない。
「ない」がなくなることで、失われてしまったものたちがある。
それら、名もなき余韻に言葉を手向けること。
そうして、沈黙を破ること。

そして、再び「沈黙」に至ること。

祈りには、役目がある。
「ない」ものに対する祈りには、作法がある。
粛々と手順に従い、「ない」ものは、鎮まる。
一つの祈りには、一つの終わりがある。
役目を終え、祈りは「沈黙」へ至る。

全ての祈りが、世界から消えることはない。
それは生態系のようなものである。
一つの祈りが消え、また一つの祈りが生まれる。
祈りという命の循環は、「沈黙」とともにある。

祈りなき沈黙から、祈りとともにある「沈黙」へ
そして、
そのプロセスとしての雄弁を。

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