human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

ボルダリングジム遠征記録から何を生むか

ここ何週間か、忙しい日々が続いていたのが、今日でひとまず一段落つきました。

仕事が立て込んでいるうえ、長距離ランナーの早朝ジョギングのようにボルダリングが完全に生活の一部になっていて、デスクワーク続きで調子が悪くなる前に登りに行っていたので、週末も含めて一日家でゆっくりする日がしばらくありませんでした。

出ずっぱりの日が続くと、それはそれでどこかで風邪なり引いて調子を崩すのも以前の傾向だったんですが、今回なんとか持ちこたえたのは、適度に登りに行って身体周期(使ったり休んだりということ)がうまく流れたからだと思います。
あるいは、仕事の重圧感というか責任感のおかげかもしれなくて、こちらだと(一時的にせよ)開放された今日明日にでも風邪を引きかねませんが…

さておき。

文章を書くというか、頭の中で論理を組み立てることをしばらくしていなかったせいか、今こうして書きながらも頭の回転数が低いなあと感じています。

書く習慣も、書かない習慣も、どちらも続けば習慣と化す。
恐ろしいもので、気をつけていないと、ふと気付いたときには前の習慣のことがすっぽりと頭から抜け落ちることにもなる。
知らぬが仏、忘れたもの勝ち、と開き直るには、まだ(少なくとも身体は)若い。
脳年齢というのは、ひょっとして思い込みでどうにでもなるのでは…

飛躍してますね。本題に入ります。

 × × ×

今回のごとく忙しい時期もなんとかコンスタントに登っていて、オフィス近くのホームジム(大正区のガレーラ)の月パスを持っている期間はほぼそこに行きますが、パスが切れた時期や今月のようにホームジムの課題が少ない(先月末に壁一面ホールド替えがあって、今月末までマンスリー課題がないのです)時は別のジムへ行きます。

行ったことがあって、月イチくらいで行っておきたいジム(梅田のボールド、江坂のクラックス大阪、香里園のルクルなど)のほか、行ったことのないジムにも時々行きます。
ホームジムでいつも同じ時間帯に登る仲間が何人かいて、予定が合えば外ジムでも一緒に登ることもあります(自分が命名した「ガレーラ昼組遠征班」のメインは現在3人です)。

新しい所へ行くとみんなで情報交換をするんですが、ついさっきその仲間から「遠征記録をブログに書いてみたら」と言われて、ちょっと考えてみようかと思いました。


僕は技術的にそれほど上手いわけではありません。
登り始めてちょうど2年くらい経って、どこのジムへ行っても4,3級あたりがちょうどよいレベルで、スラブや垂壁のバランス系課題なら時々2級も登れる、という程度です。

だから、なのかどうかはわかりませんが、ジム紹介とか、特色の解説とか、そういったことを書くには未熟というか、たぶんクライミングスタイルが偏っているので(相対的に、体幹・足技系は強くて強傾斜や指酷使系は弱い。キャンパーを全く触らないので指パワーが不足気味)、どこのジムに対しても同じようなことを書きそうな気がする。

いや、内容どうこうより、僕がこのブログ全体で貫こうとしている、「書きながら考える、書くことで新しい何かに気付く」という意志に沿ったことを書きたい。

そうすると、知っていることを書くというよりは、よく分からないが考えてみると面白そうなことを書く方がいい。

自分が行ったジムに対してそういう意図で書いた文章を何と呼べばいいのか、うん、今書いていて、よくわかりません。

でも、そういうことこそ、書くに値することのようなのです。

 × × ×

身体感覚というのは、頭で考えたことよりも、ずっと深く残っているようで、あっという間に消え去ってしまうようでもある。
それが矛盾ではないのは、感覚としては身に刻まれていても、言葉にするには(時間が経てば)手応えがなくなりすぎている、といったことだと思います。

だから、以前の身体記憶を掘り起こして文章にするのは大変な作業だとはわかっているのですが、それでもとにかく、やれるものならやってみよう。


岩手のジム(花巻市クラムボン。もはや時も距離も遠いなあ)で始めて、1年は花巻に籠り(そのあいだに盛岡の2ジムにも行きました。正月のクラムボンでは帰省していた伊藤ふたばを見かけました。知らずに見ると普通の女の子でしたね)、大阪に来る前にドライブ旅行で全国(東北〜四国。新潟のクラウドナイン、滋賀のグッぼる、愛媛のイッテなど)のジムを巡り、鶴見区→北区と大阪に来てちょうど1年経つまでに大阪・京都・兵庫のジムへ行き。
単純にカウントすれば、20は超えて、30近くのジムへ行ったことになるでしょうか。

その数自体に価値があるわけではなく、数が意味するのは多様性、その多様性は言葉にする緒(いとぐち)の多さに結びけることができます。



と、意気込みだけだらだらと書いてきました。
思えば節目としてキリのいい時期でもあるので、ちょっと余裕ができるはずの来週から、ちょくちょく取りかかれればと思います。


…続き物の記事を初っ端から放り出すのが本ブログの習慣になってしまっていますが、「続けたくない習慣」はどこかで打ち破らねばなりません。

高度情報社会と視線過敏症、いつも彼女たちはどこかに

「見る」ことと「見られる」ことの間には、バランスがある。
自分が誰かを「見る」とき、見ている分だけ自分は誰かに「見られて」いる。
たぶん、そういう視線交換回路、または視線交感回路のようなものが、人には備わっている。

その回路は、生身の他者を前にしていない場合にも活動する。

人に見られていると過剰に意識する、プライヴァシーを社会現象にまで押し上げた思い込み。
もちろん実際に「見られ過ぎて」いる例はほんの一握りに過ぎないにもかかわらず、そうと知りながら誰もがこの思い込みに共感してしまうのは、僕らが他者を「見過ぎる」ことができるようになったから。

つまり、視線を感じる自意識過剰はバランサーとして機能している

たぶん、現代社会での生活においてそれが人性の自然で、この思い込みを非現実的と断じて意識の外に追いやる試みはすなわち、抑圧を出来する。
抑圧されたものは、別の形をとって回帰してくる。
自分が何かを抑圧した事実を忘却することで(その事実を忘却していることが、抑圧が成立している証である)、新たに降りかかる現象や症状をその事実と関連付けることは不可能となる。

抑圧の回帰か、回帰ごと抑圧を封じ込めた結果なのかは分かりませんが、指向性の無神経、選択的な感性の欠落という現象はきっと、これらのどこかと関係しています。

「人性の自然」などと書きましたが、その実情を言い換えれば、視線交換回路なるものの焼き切れんばかりの暴発が日常茶飯事である、ということ。
その自然を守り抜くのが楽か、回路の配線を切ったふりをするのが楽か。

これを問題というには簡単に過ぎますが、答えが正解とは限らないのもまた人性です。

 × × ×

 現在のメディア経済は絶えず出来事を作り出し、そして消費し、テレビがラジオにとってかわった。しかしひとつの特殊な点をもって、である。現在は、それがつくられるまさにその時、すでに歴史的に見られること、つまりすでに過ぎ去ったこととして見られようとする。現在は、ある種自分自身にむかって回帰し、それについて人がもつだろう視線を予測する。完全にそれが過ぎ去ったときに、まるでそれが過去を「予見」しようとしていたかのように、その視線はまだ完全には現在として生起する前から過去となるのである。しかし、この視線は、まさに現在の視線なのである。

「第4章 記憶・歴史・現在」p.195(フランソワ・アルトーグ『「歴史」の体制 - 現在主義と時間経験』)

読み始めたのが去年の暮れのことで、内容が難しくてなかなか前進しませんでしたが、今日第4章を読み始めて、話題が現代に移ったからか急にするする読めるようになりました。
これはまた、サブタイトルにある「現在主義」という言葉から僕が想像していた内容のことが書いてあったからでもあります。

とはいえ、引用の文脈を説明できるほどではないのでちょっと手を抜きますが、上のような話に続いて現れた一節に、連想思考を刺激させるものがありました。

 現在は、自分が自分を見つめるものたろうとし、それに執着することの不可能性を見いだす。(…)経験の場と期待の地平のあいだに絶えず穿たれる乖離、つまるところ断絶を埋めることができないことがあらわになる。自分の泡につつまれて、現在は自分の足元で地面が崩れ去るのをみいだす。

同上 p.202

『いつも彼らはどこかに』(小川洋子)という短編集を、昨日あとひとつを残すところまで読みました。
全体のテーマとか、作者の意図のようなことはあまり考えようとは思いませんが(保坂和志を読んでいるとそうなります)、と言いながらちょっとだけ書けば、どの短編にも動物が出てきてその生態が細かく描写されるいっぽう、その動物に共感を抱く人物が出てくる。
あるいは、独自の習性や嗜好をもった動物のような人物が描かれる。

まあそれはよくて。
この本をだいたい一日に短編1つのペースでゆっくり読んでいたのですが、昨日は一気に2つ読んでみて、(あるいは風邪を引いた鈍重な僕の頭のせいかもしれませんが)これまでとずいぶん毛並が違うなあと感じたのでした。
あとの短編になるにつれ、伏線の放置が増えるというか、なぜこういうことを書いたのか分からない話が増えるようで、いやこんな分析を別にしたいわけでなく、でも昨日読んだ2つには特徴があるように感じました。


動物園の土産物売り場で働く女性を描く「チーター準備中」、それと、カタツムリを飼う風車守の男のもとへ通う女性の一人称語りの「断食蝸牛」(ゲーテだったかな、「断食芸人」というのがありましたね)。
2つの短編のいずれの女性も、他者の視線を偏執的なまでに気にかけている。
 ゾウの視線、チーター飼育担当の青年の視線。
 風車守の視線、療養施設の掃除婦の視線。
そして、どちらかがその代償であるかのように、彼女たちは他者を執拗に凝視し、自分の中で妄想を膨らませる。
それが私の生きがいだと言わんばかりに。

…でも、この2話だけの特徴なのかな、と改めて考えると、そうでもない気もします。

スーパーの食品売り場での試食を担当する売り子の「流しのプロ」という不思議な職業の女性が主人公の「帯同馬」、短編集の最初の1編ですが、彼女の特技というか特徴は「あたかも彼女がそこに立っていることなど誰も気付かないくらい売り場に溶け込めること」。
これは、視線過敏症の裏返しですね。
というのも、売り子の彼女が獲得した技術は、年齢や時間帯によって多種多様な客の視線、動線、趣向などを徹底的に研究した賜物であるはずだからです。


自分の話ですが(いや、最初から全部そうといえばそうですが)、連想のリンクはやはり直近に読んだもの同士に強くはたらくのだなと、本記事を書きながら再確認しました。
これを逆から見れば、過去に読んだ本同士を連想でつなげることがいかに難しいかを思い知らされもするわけです。
…なかなか、僕が構想している「本の仕事」は高難度だと思う次第です。


ちなみに、「帯同馬」の主人公の女性に、読んでいて僕はかなり好感を持ちました。
ハルキ小説に登場する女性と違って(それは非現実的であるからこその魅力なのですが)、彼女にはどこか「現実的な魅力」があります。
そして、いくつか前の記事に書いた「沈黙を語ること」についてのヒントが、ここにあるように感じました。
このこと(後者ですが)は、いずれ書くつもりです。
 
 × × ×

いつも彼らはどこかに

いつも彼らはどこかに

「"身銭を切る"は市場原理への反逆である」論

 一人一人のアウレリャノがどういう人で彼が何をしてきたかを憶えていれば、何人アウレリャノが出てきても混乱はしない。そういう風に記憶していくためには、『百年の孤独』は一回真っ直ぐに通し読みしただけではダメで、読み終わったところを何度も何度も読まなければならない。
 効率が悪い? そういう読み方は効率が悪い?
 読書とは効率とは無縁の行為だ。「一晩で読んだ」「一気に読んだ」という、本の宣伝文句がよくあるけれど、これくらい読書という行為の価値を殺すものはない。読書は単位時間あたりの生産性を問われる労働ではないのだ

「8 私に固有でないものが寄り集まって私になる」p.155(保坂和志『小説の自由』)

下線部について僕も常々そう思っていて、本の価格がページ数に影響されるとか、古本量販店では出版年が古ければ安くなるというように、本の内容が流通価値(つまり値段)に全く反映されていないことが、良し悪しの問題ではなくて(これは本が商品となったことの運命的結果でしかない)、本は本質的に市場原理と相容れないことを示している。

それはよくて、保坂氏ならやはりズバリと言うなと感心したというか溜飲が下がる思いがしたと同時に、ここを読む直前に読了したイリイチの本の一節を思い浮かべました。
実際は訳者・玉野井芳郎氏の解説の中で本文を引用した箇所ですが、その本文の周辺も含めて引用します。

 経済学者は、自分が計測することのできる領域しか扱うことができない。非市場的な領域に侵略を開始するためには、目盛りをつける新しい物差しを必要とする。(…)ピグーは<影の価格>をそのようなひとつの用具として定義した。その用具としての<影の価格>とは、今日、金による支払いなしに行われている財やサーヴィスといったものを換算するのに必要な貨幣のことである。こうして支払われないものが、そしておそらくは価格のないものさえもが、商品の世界と矛盾するものではなくなって、操作と管理と官僚的な開発が可能となる領域へと登場することになった

「3 ヴァナキュラーな価値」p.76-77(I.イリイチシャドウ・ワーク』)

引用部の文脈で念頭にあるのは「直接的に生産性には関わらないが、生産性に奉仕する活動」で、その代表例として主婦の家事労働が挙げられています(この例だと、生産性=夫の賃金労働、です)。
イリイチはこの活動に読書を含めてはおらず、というか「この活動」とは本のタイトルである「シャドウワーク」のことで、ワークと名のつくところからして読書などの趣味は含まれないとわかります。
が、ここではイリイチの本の論旨からは離れて考えます。

本の価値が時間効率やコストパフォーマンスで測られている社会の現状が語るのは、本の本来的な価値が内容にあり、内容の価値基準は読み手一人ひとりにあるのだとすれば、本という「おそらくは価格のないもの」が、流通過程でその本質をないがしろにされた結果、「商品の世界と矛盾するものではなくなっ」たことである。

僕の連想を言葉で整理すれば、このようになります。

 × × ×

それはよくて(話が進まなくてすみません)、その連想があって、さらに思い浮かべたのが「身銭」という言葉でした。

「身銭を切る」という言い方があります。
この表現は、手持ちのお金が少ないが今どうしても欲しいものがある、という時などに使う。
語源は知らないしここでは調べずに想像で書きますが、字面からして「身を切られるような痛み」が、ニュアンスとして込められていると思います。
すると、こう考えられる。
出費が痛みを伴うのは、その出費を容認する資金的な余裕がないからである。
…ただの繰り返しですね。
言いたいのは、一般的に、お金に余裕がある時にこの表現は使わないだろうということ。


でも、もしかしてそれは違うんじゃないか、「身銭」の意味するところは一般的な意味とは別にあるのではないか…
というのが本記事の趣旨です。
話を続けます。


僕は古本屋によく行くこともあり、滅多に新刊を買いません。
新しさに価値を感じていないこと、読書を実用と切り離して考えていること、などいくつか理由はあります。
古本を買う価格感覚に慣れすぎて、新刊を高く感じるから買わない、これが一番大きいかもしれません。
理由はどうあれそのおかげで、たまに新刊を買おうとすると、すごく躊躇するし、迷うし、思考や判断に時間をかけます。
そして、さんざん悩んだ結果、本を手にレジへ持っていく時に、いつも「身銭を切る」という言葉を思い浮かべていました。

そうやって新刊本を買う時に、判を押したように繰り返される思考に対してとくに違和感はありませんでしたが、上記のようにつらつらと考えていて「あれ?」と思いました。
僕は別に、数千円を本に費やしたからといって、夕食を何日か抜かなきゃならないほど困窮しているわけではないのです。
手持ちが少ないわけでもなく、またそうしたければ、本を買うかわりに抑えることのできる余計な出費だってある。
端的にいえば、僕にとって新刊購入は「お金はあるし、そう高価なわけでもないが、それでも痛みを伴う出費」です

では、その「痛み」とは何を意味するのか?


これまで上に書いてきたことと関係しますが、この「痛みを伴う出費」とは、つまり「自分で価値を見出す(創り出す)必要のある出費」なのです。

価値がわかっていないものに対して、お金を払う苦しさ。

大袈裟に言えば、「市場原理に対する抵抗」によって発生する痛み。

あるいは、市場原理の名の下で明確かつ確固として存在しているはずの「お金の価値」が、自らに一任されているという重責に伴う痛み。


無謀で過剰な散財のことを「金をドブに捨てる」と言いますが、たぶん、これよりもっと苦しいものです。
この表現に寄せて言えば、「自分で価値を見出すべき出費」は、「金をドブに捨てることになるかもしれない出費」です。
自暴自棄であれ何であれ、通常の(?)散財では自ら了解して行うそれと違って、こちらは自分が手放したお金が無に帰すことなんて全く期待していません。


…と、思いつくまま色々と書いてきましたが、だんだん分かってきました。

「身銭」というのは、読んで字の如く、「お金を身体(の一部)のように感じる」ことである。
だから、出費が指や腕をもがれるような(ヤクザ世界の話みたいだな)苦痛にもなり、その価値が自分の身体のように社会的通念(というか概念)を離れて不安にもなる。

前者と後者とで全く異なる2つの状況が、ともに「身銭を切る」という言葉で表現できる。

面白いですね。(ほんとかな)
 

極北にて(0) - マーセル・セロー『極北』を読んで

表題の通り、図書館で借りている『極北』を読了しました。

貸出延長手続きを忘れて延滞になっていて、すぐ返す必要があります。
もちろんすぐ返すつもりですが、「読んでおしまい、さあ次の本だ」という風にはなりそうにない。
それだけ、これが僕が読みたいと思っていた本(このことにはいつも、読んでから遡及的に気付きます)、じっくり腰を据えて考えざるを得ない、そう思わせる本だったということです。

 × × ×

きっかけは、背表紙の「村上春樹・訳」が目に入って、手に取ったのでした。
著者は、今はわかりませんが、出版当時の日本では無名であったようです。
そういった著者略歴のようなことにも触れた訳者解説では、最初にこういったことが書かれています。

あとがきを先に読む人もいるだろうから(別にそういう姿勢を批判しているわけではない)、ここでは本の内容には触れないが、著者がなぜこの本を書くに至ったか、その事情は知っておくべきだと思うので記す。

「その事情」を読んで、「なるほど」と思う。
このような経緯があって、セロー氏はこの本を書くことができたのか、と。
でも僕は訳者の、解説におけるこの作品への気遣いを了解したうえでなお、解説をあとで読んでよかったと思いました。


「物語の意外性」、この性質は小説の訴求力となる、主要な力の一つであり、何がしかの読書事情によってこれが失われると、その小説の魅力の大事な部分が大きく削がれてしまう。

僕は上述の「なるほど」という事情の得心は、読後でいいじゃないかと思いました。
極端にいえば、「物語の意外性を損なわない解説」なんてものはないだろう、ということです。

個人的には、「その作品を読んで思いついた、(魅力的だが)作品とほとんど関係のない話」が秀逸な解説、もとい「悪影響のない解説」だと思っていますが、一般的な思考に基づけば、それは作品解説とは言えないのでしょう(嬉々としてそういう解説ばかり書く人を知っています。そして、そういう解説しか書き得ない本ばかり書く人も知っています。この二人が対談して出来上がった本は、そのタイトルが著者をそのまま表わすという事態になっています*1)。


言いたかったのは、『極北』はほんとうにまっさらの頭で、事前情報なしに読んでほしい小説だということです(この意味では、本記事の以下の節の内容は若干「抵触」しています)。
僕は本書を手に取った時は、タイトルと装幀から、北国の生活事情が事細かに書かれているんだろうな、くらいしか想像していませんでした。

それは間違いではありませんでした。
そしてすぐに、自分の他愛ない予想が当たろうが外れようが、そんなことはどうでもよくなりました。

 × × ×

この本からいくつか引用して、その一つひとつを思考の出発点にしよう、というようなことを考えて、本記事はその出発準備のようなものなのですが、この準備を始めるにあたって(つまり出発準備の準備中に、ということですね。ややこしい)、『時代を読む』という対談集の一節を連想しました。

この本は鶴見俊輔河合隼雄がホストとなって、二人が喋りたいと思っていた人々に(たぶん編集部が)アポをとって鼎談するという、古いですが(何しろ河合隼雄が若手の立ち位置にいるのです)豪華キャストが勢揃いした本です。

この二人と、ゲストの筒井康隆とが『文学部唯野教授』を肴に議論する章で、筒井氏はこんなことを言います。
芸術にいちばん必要なのは教養であるとガダマーはいうが、ぼくは教養とは感情移入の能力じゃないかと思う、という文脈に続いての発言。

筒井 感情移入できるということは何についても必要でしょう? 小説を書く人間もそうだし、読むほうもそうです。しかも感情移入というのはレベルがあるんですね。例えば小説を読む場合に、ふつうの人は主人公に感情移入します。少しレベルが上になってきたら、今度は作者に感情移入する。私小説なんかで言えば、作者と主人公が重なっている場合もありますけれども。あと、風景描写とか、そういった擬人化されたものに感情移入する。それから言語に感情移入する。そういうふうにレベルがどんどんどんどん上がってくるわけです。そうすると、最後にこの小説がなぜ書かれたか、世界のなかでいまどういう位置を占めるかという高みにまで感情移入の側面から達することができるんじゃないかとも思うんです。

「『文学部唯野教授』の摩訶不思議体験」p.259-260(鶴見俊輔河合隼雄『時代を読む』潮出版社、初版1991年)

感情移入のレベルがあり、それは練度によってどんどん上げることができる。
どういう感情移入の種類がどのレベルなのか、という位置づけは鵜呑みにできませんが、いろいろな感情移入の種類があるという視点はとても興味深いと思いました。
特に、「風景描写に感情移入する」という発想。

保坂和志は真逆の発想、風景(猫を含む)描写を感情移入からいかに遠ざけられるかという思想で小説を書いていますが、僕は筒井氏のこの発言と保坂氏の思想は表裏一体だと感じていて、その根拠は僕自身の中でこの両極にあるはずの2つが干渉なく落ち着いて各々の魅力を発しているからというと論理もへったくりもないですが、それはまた別の話。


『極北』を読んだあとに、筒井氏の視点を借りて、僕はこの小説の「どこ」に感情移入しただろうということを考えて、それはとても広い範囲のことであったなと思いました。

風景への感情移入、それは俳句や短歌にみられる日本古来の文化であって、橋本治は「日本人は風景を涙でビショビショにした」とどこかで書いていましたが(『風雅の虎の巻』だったかな)、自我肥大というのか、ある種の傲慢さにつながるものでもありますが、逆に自己の境界が薄れて、「自我密度」なるものの分母が身体の大きさだとすればその密度はどんどん小さくなる、アニミズムや八百万信仰に結びつくものでもあるはずです。

そう考えてみると、物語とはまことに不思議な作用を持つものだと思います。

自我の一大拠点である脳をぐるぐる回し続けて、内に閉じこもっていくかと思えば、クラインの壺みたく、どこかで内部面が外表面と入れ替わっている。
その表面の遷移は、比喩ではなく、人体そのものが開放系のトーラス状*2であることの把握なのかもしれません。

時代を読む

時代を読む

 

*1:

橋本治と内田樹

橋本治と内田樹

*2:つまり、人体は入り口が口で出口が肛門である一本のチューブ(管)だ、ということ。

香辛寮の人々 2-2 「他愛のある人、自愛のない人」

 
 フェンネルは居間のソファで寛いで本を読んでいる。廊下がゆっくりと鳴る音が聞こえる。フェヌグリークが姿を見せる。
「ここにいたのね、フェンネル。ちょっといいかしら」
「どうぞ」フェンネルは顔を上げて、向かいのソファを手で示す。フェヌグリークは彼の顔をじっと見ながら、その返事を待たずに腰を下ろす。とても静かに。
「あなた、彼女の気持ちをもう少し考えて喋らないと駄目よ」
「彼女って?」
「シナモンよ。昨日の晩のこと。忘れたわけじゃないでしょう?」
 昨日は三人で、近所の居酒屋へ飲みに行った。恐らくフェヌグリークとシナモンはそう考えている。フェンネルは夕食を食べに行ったと思っている。酒を飲まなかったからだ。

「もちろん。それで、何の話?」
「ふん、やっぱり覚えてないじゃない。私だってね、あなたが馬鹿だと思ってないし、何度も同じことを繰り返したくないけれど、シナモンだけじゃなくて、あなたのためにもなると思って言ってるのよ」
「ああ。いや、分かってるよ。シナモンが一生懸命喋ってる話をちゃんと聴いているのなら、その話の中心に対してコメントしなければ自分の態度は伝わらない。君はそう言っていた」
「そう。彼女が自分の人生観について熱く語ってるんだから、君はその通りにやれてるよとか、自分のことをよく分析できるねとか、あなたならそういったまともな感想言えるでしょう? それなのに、妙に偏執的になったみたいに言葉の細部を突っついて、僕はパッチワークというよりは曼荼羅だななんて言い出して、それだけならまだしも、人を吊るして砂で絵を描くだの宗教的ではなくて諸行無常だなだの、もとの話題を完全に食って別の話にしちゃって、一体なんなの? 感想そっちのけで自分勝手に文脈無視した話始めて、しかもそこから表情までいきいきしちゃって。あなた、シナモンの顔なんて全然見てないでしょう?」
「いや、見てたよ。彼女に向かって喋ってるんだから、そりゃあ当然見るよね」
「あの子、変な顔してたわよね? え、一体何の話だろうって」
「まあね。僕だって、自分で話し始めてから、あれ何でこんな話してるんだろうって思ったくらいだから。で、君に聞いたよね? そもそも何の話してたっけって。君は会話にかけては非常に明晰だから、迷い込んだ話の筋をいつも的確に元通りにしてくれる」
「お褒めの言葉をありがとう。でもね、その言い方もどうかしてるわ。話の腰を折りたいように折って、その責任なんかこれっぽっちも感じてなくて、もう子供と一緒ね。あなたに悪気がないのは知ってるわ。それに無邪気に話ができること自体も、いいことではあるのよ。変に構えて、相手の機嫌を損ねないように上目遣いの応答ばかりするよりは。でもね」
「お互いに相手がいて会話してるんだから、最低限のキャッチボールは成立させておかないと礼儀に欠ける、だよね」
「そうよ。昨日も同じことを言った。あなたは、そんな当たり前なこと言われてもなあ、って顔で聞いてたわ」
「そんなことはないよ。常識の一部だと知ってはいるけれど、敢えてそれを言葉にするんだから、それだけ自分が非常識に見えるんだろうなって気付けたくらいだし。この歳になってそんな、相手を馬鹿にしてると思われかねない意見を言ってくれる人は他にいないからね、ありがたいと思っている」
「へえぇ、そんな顔にはとても見えなかったけれどね。まあいい…いや、よくないわ。だからね、何度も言うけど、そういう態度を取ることであなた、必要以上に他人に嫌われることになりかねないわよ。嫌われはしないまでも、あまり良い印象を持ってはくれない。人の出会いの第一印象のうち97%はね、知り合ってからの関係に後を引くものなのよ。いろんな人に好かれたいとは思わないって前に言ってたし、そう思うのはあなたの勝手だけれど、あなたが他人と一緒に仕事をしたりとか何やかやする時に、あなたの自分の見え方、他人が自分をどう見るかに対する無関心は、確実に仇になるわ。膨大な損失よ。しかも無意味な」
「その、97%というのはどこから」
「んなことどうでもいいの。今そういう話をしてるの。やっぱりあなた、人の話をまるで聞かないわね。右耳と左耳のあいだに、ちゃんと脳みそあるの?」
「あるといいね」
「……その冗談、まっったく面白くないわ」
「いや、別に冗談ではなく……まあいいや。えっと、そんなに興奮するような話ではないよ。僕のことを考えてくれるのはありがたいけども。で、そうだね、今言われてみると、僕はどうも話の筋よりも言葉の細部に囚われがちなようだね。普段あまり人と会話をしないし、本ばっかり読んでるし、その読書がまたメタファーとか文体を気にするような読み方をしているものだから、なんというか、癖になっちゃってるんだろうね。本を読む時の習慣が、人と会話している時にも顔を出す。言葉のやりとり、あるいは言葉の連なりを頭で追っていくという意味では、会話も読書も同じだからね。それに加えて、その癖を制御しないで自然に任せておくことで、自然な会話になるという思い込みもある。当然、会話のキャッチボールを成立させる方がコミュニケーションの基盤になるのだから、そちらを過度になおざりにしてはいけない、という認識だったんだけれどもね」
「どうやら、過度になおざりになっていたようね」
「そうらしいね」
「……まるで他人事のような言い草」
「うーん、そういう考え方は面白いかもしれないね。本を読む自分より、会話をする自分の方が他人である。いや、他人に近い、なのかな。いや、でもこれはある意味で当たっているな。コミュニケーションは自己の境界を曖昧にして別の個体と接する行為だけれど、本は頭の中だけなのに対して対面では五感もフル活用するから、多次元的に境界が薄くなるわけだ。ああ、感覚器毎に自己の境界があるという発想はなかなか斬新だな。一考の価値があるかもしれない」
「……」
「あ、ごめん。話が抽象的過ぎたかな? いや、ジョークです。冗句。ふふ…いや、ごめん」
 フェヌグリークは笑っていない。フェンネルは、それも仕方がないと考えている。ジョークの機能は笑いをもたらすことだけではないからだ。そしてこう思う。人が聞いて、哀しみの涙を流すジョークとはどのようなものだろうか、と。

「その、思うんだけどさ、君は職業柄かもしれないけれど、円滑な会話とか、効果的な意思伝達とか、そういったことを重く見すぎてるんじゃないかな?」
「重く見すぎる? 私は当たり前のことを言っているだけよ」
「うん、それは否定しないよ。ただ、思っていることを正確に伝えるとか、誤解を生まないようにするとか、要するにコミュニケーションの効率化を追求すると、どこかでそれが面白くなくなっちゃうんじゃないかと思うんだ」
「これはまた高度なことを仰るのね。相手のことは決して理解できない、コミュニケーションはすれ違うから面白い。わかってるわ、それくらい。人と話すのが仕事の核だもの。だけど、あなたの言うそれは、基本的な人間関係が構築されたあとに問題にすることよ。お互いのことをある程度知り合って、自分の意見をぶつけ合えるような信頼関係ができてから、やっと意識にのぼってくるようなトピックなの。つまりこういうわけね、あなたは初対面の人間に対して高度なコミュニケーションを要求する、そしてそれが自然であると言い張る。何考えてるのかしら。そんなの、子供に自転車を教えるのに、初日から補助輪を外して、サドルの上で逆立ちさせるようなもんだわ」
「そうだね。君の指摘はまったく正しい。僕はきっと他人からは、自分の娘を曲芸師に育てようとするスパルタンの父親のように見えるんだろう。自分はサラリーマンなのに。そんな狂った父親のいる家には、地域の回覧板さえ回ってこないかもしれない。でもね、どう表現すれば伝わるのか、考えてみないとわからないのだけど……例えば、こう言ってみようか。今君は高度な問題だと言ったけれど、基本レベルの問題があってそれをクリアすれば高度な問題を意識する、というような明確な分類は、本来すべきじゃないのではないかと思う。ハウツー本なんかに、コミュニケーション作法とか実用心理学みたいな名目で書いてありそうなことで、コミュニケーションの方法という視点で構造化すれば、たしかにそう表現できる。でもね、そうやってマニュアル化して、その通りにことが運び、期待通りの結果を得ることを良しとする。なんだかそれはコミュニケーションを、コンベアに機械部品を等間隔で並べるような単純労働と同じとみなす発想のような気がするんだ」
「ああ、わかったわ。フェンネル、あなたね、思考が抽象的なのよ。いや、そんなこと自覚しているわね、もっと言えば、あなたの思考は抽象的でしかない。あなたが一生懸命やってる分析は、現場に活かされてないのよ。実際のコミュニケーションの場から程遠いところで、一人で楽しく思考実験をやってるだけ」
「それが無駄だと?」
「勿体無いじゃないの。あなたが嫌われる理由なんて、そりゃないとは言わないけど、わざわざ進んで自分の他者評価を下げる意味なんてどこにもないわ。人は他人なしでは生きていけないって、あなたいつも言ってるじゃない。他人と上手く付き合える頭を持ってるのに、どうしてその頭をまっとうに活用しようとしないの?」
「研究活動は当たり外れがあるからね。投入した労力の数パーセントが芽を出せばいい方だし、そのなかで大きくなって実をつけるものが出てくれば、もう僥倖だといえる」
「コミュニケーションは研究ではないわ!」
「そう言い切れるものではないと僕は思うけどね。少なくともその評価に主観が立ち入る余地はある」
「人が生きていくうえで、いちばん根っこにあるものじゃないの。人が集まって社会をつくって、人と人が協力してあらゆるものを築き上げる。何をするにも、まず最初に気を遣わなきゃいけないところでしょう?」
「いや、君の考え方を否定しているわけじゃない。嫌味に聞こえるのを承知で言うけど、まず君は、まっとうで正しいことしか言っていない。少なくともこれまで、僕の耳が聞いた限りではね。そして、これは信じてもらうしかないけど、君の話はちゃんと聞いている。頭に入れて、想像して、理解している。だから、この2つを了解してもらったうえで、それでも君の気持ちが収まらないのだとしたら、もう理由はあと一つしか考えられない。聞いたら君は確実に怒るだろうから、ここでは言わないけれども」
「……言いなさいよ。そこまで言って、ただで済むと思ってるの?」
「え? いや、まだ言ってないのに、おかしくないかな? それ」
「知らないわ。あなたが何言っても、私怒るから。言わなくても怒る」
「うーん、未来は決定済みというわけだね。それが運命ならば、甘受するほかない。……どっちでも同じなら言わないに一票」
「言ったら満貫、言わなかったら跳満よ」
「なんと! では起死回生の、暗槓ツモ嶺上開花!」
「ロン、槍槓」
「ぎゃふん」
 

極北にて、連想強化と無私

 彼はよく言ったものだ。原始時代の泥の中から這い出して以来、我々は「不足」によって形づくられてきた。なんだっていい──チーズ、教会、作法、倹約、ビール、石鹸、忍耐、家族、殺人、金網──そんなものはみんな、ものが足りないから出現したものなのだ。ときにはものは「決して十分ではない」し、またあるときには「ぜんぜん足りない」。とにかく万民に行き渡るということがない。人類全体の物語とは、生活の資を得ようと悪戦苦闘して、それに失敗する人々の物語でしかない。
 その悪戦苦闘の痛みが、人類に忍耐というものを教えた。

マーセル・セロー『極北』(村上春樹訳)

 またローマの橋と言えば、人々はすぐにもコルドバに現存し、かつ現在の自動車道路の一つとして使用されているグアダルキビール川に架けられた巨大な石橋のことを思い出す筈であるが、まずあの橋は、セゴビアの水道橋とともに代表的なものである。けれども、言うまでもなく代表的なものだけがあるわけはないのであって、実にローマの橋はスペイン各地に無数にのこり、かつ存在しているのである。
 このローマの道と橋が、どんなにおそろしい山中にあるかということは、このあたりの名産であるチーズについてみればわかるのであるらしい。このチーズは、山がけわしいために山中で出来る牛乳その他を平地に降ろすことが出来ないために、牛、山羊、羊等の乳をまぜこぜにして作ったもので、それは途方もない強烈な匂いを放ち、そのまま冷蔵庫に入れておくと他のものがみなこの匂い、あるいは臭いをうつされてしまうほどのものである

「1 アンドリン村にて」P.20(堀田善衛『スペイン断章 - 歴史の感興』)

 × × ×

 なおかつ父はこうも言った。自分はものが過剰にある世界に生まれてきた。これはまさに上下が逆さまになった世界だ。そこでは金持ちは痩せ、貧乏人は太っていた。彼の若い頃には、ノアがアララト山に箱船を繋いで以来、世界に出現した人類の総数よりももっと多くの人間が、世界にひしめきあっていた。

同上

 新たな「満足」を手にすることよりも、開発のもたらす損害から身を守ることのほうが、人々の一番求める特権になった。もしラッシュアワーの時間帯以外に通勤できる身となれば、そのひとはすでに成功者であるにちがいない。自宅で子供を産める身となれば、そのひとはおそらくエリート校に通える身分でもあるにちがいない。もし病気でも医者にかからずに済ませられるとすれば、そのひとは他にはない特別の知識に精通していることだろう。もし新鮮な空気を吸うことができるとすれば、そのひとは金持で幸運なひとにきまっている。もし自分の手で丸太小屋を建てることができるほどのひとならば、そのひとは本当は貧しいとはいえないのだ。今日の下層階級を構成するものは、逆生産性のお荷物一式を消費しなければならないもの、みずから買って出た奉仕者たちのお情けを何としても消費しなければならないもの、にほかならないのだ。これと逆に、特権階級とは、逆生産性的な装置一式と手前勝手な世話やきを自由におことわりできる人々のことである

「2 公的選択の三つの次元」p.40-41(I.イリイチシャドウ・ワーク - 生活のあり方を問う』)太字は本書傍点部

 × × ×

 なぜ私にそれがわかったのか──またなぜ彼がそんなことをしなくてはならなかったのか──いまだに不明だ。しかし、人々のなす暗い行為について深く考慮しても詮ないということを、その後に巡ってきた歳月が私に教えてくれた。不思議なことだが、人々は理念のために戦っているときに、最も残虐になれるようだ。カイン以来私たちは、どちらが神のより近くに立つかということを巡って、延々と殺し合いを続けてきたのだ。私の目には、残酷さとはものごとのひとつの自然なありように見える。そんなことについて個人的に突き詰めて考えても、頭が混乱するばかりだ。誰かを傷つける連中は、自分たちが望んでいるほど、相手に対して強い力を有しているわけではない。だからこそ彼らは残虐な行為に及ぶのだ。

同上

「個人的な立場では、そんなに簡単に引き金はひけないと思うな。人が人を簡単に殺すときって、必ず、もっとなんていうのか、妄想的な力がバックに存在している」
「妄想的な力?」
「うん、つまり、神とか、国家とか、あるいは組織とか

「そう……、そうですね」
「そういう力に、自分は後押しされている。それで自分が動いている。自分はその使徒なのだ、と解釈して、引き金をひく。だけど、けっしてそうではない。その妄想を作り上げたのも自分だし、すべては自分の責任なんだ。ただ、そうやって責任を自分の外側にあるものだと偽って、人を殺そうとする」
「何故、殺そうとするのでしょうか?」
「さあね……、でも、たぶんそれは、殺したいという気持ちがあるからだと思うな。破壊したい、むちゃくちゃにしたい、そういう感情が人間にはある。それがいけないことだ、という社会的観念が、こんなにも強固に作られたことが、裏返せば、その純粋感情の存在を証明していると思う。人間は理由があるから殺すんじゃない、殺すための理由を探すんだよ」
「ああ、嫌だ」西之園は首をふった。躰中が僅かな悪寒に包まれるのを振り払いたかった。

「第4章 悲しみの高まり」p.214-215(森博嗣εに誓って』)

 × × ×

同じ思考を繰り返していると、その思考が強化される。

パブロフの有名な実験では、犬に餌をやる前に声をかけるだったか鈴を鳴らすだったか、餌と直接関係のない刺激を犬に与えるという一連の動作を繰り返し行う。
食事と特定の音とが犬の頭の中で強固に結びついて、その音を聞いただけで、餌を出していないのに犬は涎を垂らすようになる。

犬の例はもっと単純で通俗的ですが、原理は同じだと思います。
正確な用語は知りませんが、無秩序に茂るジャングルに轍を踏み固めていくように、特定パターンのシナプスの反復的な発光がニューロンの結合強度を高める、といったこと。

ただ、反復によって強化される「思考」、これは何を指すのか。
僕が想定しているのは、風景に結びついた記憶とか、音楽が呼び覚ます経験とか、五感を(直接に)介在する場合ではありません。
ある思考が、その思考が開始されるといつも、同様の経路に従って特定の結論に落着する。
たとえばそのような思考を「強化」されたものと考えます。
だから、その思考の中に間接的に五感が含まれる場合はある。


想定するというか、こうだったら面白いなと思うのは、その思考が具体的であるほど反復によって強化されやすいことはイメージしやすいのですが、より抽象的な思考のレベルにおいても同様の強化が起こらないだろうか、と。

「思考のクセ」というのも、一つの抽象のレベルです。
物事をなんでも構造主義的にとらえる(ことができる)、とか(僕は内田樹氏がそういう人だと思っています)。

あるいは、これが本命なんですが、「連想的思考」という抽象のレベル。

思考の飛躍によって特定の対象にリンクする可能性の強化ではなくて、思考が飛躍すること自体の発生頻度の強化

これも思考のクセの一種なのかもしれませんが、もっと抽象性の高い次元のことかもしれません。


そういうことがあるとして、そのような強化が極端になされた人間がどうなるかといえば、分裂症というよりは、無私に近くなるのでないかと想像します。
いや、分裂症と無私とは、そう変わらない精神の状態ではないかもしれません。
自我の統合を振り切って「私」が分かれていく、その「別の私」の数をカウントできる間は分裂症と呼ぶ、そしてさらに分かれ分かれて、制御どころか分類すら不能となる。
無数と思える各々は手が(誰の?)届かない地点に達し、なおかつ各々は周りなど素知らぬ顔で落ち着いている。
『24人のビリー・ミリガン』という本をタイトルだけ知っていますが、24ではまだ足りないのでしょう。

それは、24が素数でないことから明らかです。

 × × ×

極北

極北

εに誓って (講談社ノベルス)

εに誓って (講談社ノベルス)

本の可能性を「草の根」で賦活するために

『「本の寺子屋』が地方を創る - 塩尻市立図書館の挑戦』(「信州しおじり 本の寺子屋」研究会)を読了しました。

表紙裏に抜粋された、まえがきの一節には、こうあります。

「本の寺子屋」とは──
塩尻市立図書館が中心となって推進している取り組みで、
講演会、講座等のさまざまな事業を通じて、
「本」の可能性を考える機会を提供するもの。
地域に生きる市民の生活の中心にもう一度、本を据え直し、
読書を習慣化させるための方策を、
書き手、作り手、送り手、読み手が
共同して創り出そうとする仕掛け。

「本」の可能性を考える。
僕自身珍しく、書店で新品の本を購入したのは、このキーワードが目に入ったからです。
それは常に念頭にあって、ずっと考え続けていることだから。

本書には塩尻市立図書館の「本の寺子屋」が立ち上がるまでの経緯、事業に関わった人々の思想と熱意、開始以後の事業報告などが書かれています。
まだ図書館で仕事をしたことはありませんが、大学(岩手の富士大)で2ヶ月の図書館司書講習を受けて資格を得た者として、身近といえばちょっと違いますが、半分当事者として読みました。

講習の同期生はほとんど公共図書館学校図書館で働いていて、今もやりとりをしている人もいますが、彼らが読めば、内容がそのまま身にしみるということもあるでしょう。
僕自身は、図書館という人が集まって本と関わる場所から離れて、あくまで「個人と本との出会い、その生活」を中核として、「本の可能性」を考えています。


ただ、地方から立ち上げる、地域の草の根の活動から始まる、という理念は、本や読書の可能性に限らず「その通りだ」と思っています。
たとえば、政治、教育、治安といった領域。

いや、ここでそれらの領域の話をしたいわけではありませんが、世の中の仕組みや価値観、そういった何かをよくない、変わるべきだという思いを持った時、革命的にというのか、大きな範囲での劇的な変化を期待するのではなく(自分一人では起こせないから、他人任せな姿勢になってしまうのは仕方のないことです)、変えたいという思いを能動的に活かすには身近なところから始めるしかない。
そういう思いは人それぞれ持っていて、たまたま自分は「本」を通じて、その思いを形にしたいと思っている。
だからこの本の熱意は僕に十分伝わってきたし、では僕は自分なりに、どういうアプローチでやろうか、と改めて考えさせてくれました。

 × × ×

大量の本を入手する伝があり、上記の講習同期生(M崎姐さんと呼んでおきましょう)の助言、というか発言に対する閃きがあり、ネット古書店を始める準備をしている、という話を前に書きました。
今はその、仕入れたままシェアオフィスにダンボール山積みになっている書籍を収納するための書庫を製作しています。
9割方完成していて、あとはまあゆっくり進めようと思っているさなかに、M崎姐からメッセージをもらい、こちらの準備状況を写真と共にお知らせしました。

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シェアオフィス1F談話スペース。壁四面を本棚で埋め尽くすまで、あと少しです。
するとその返事にはこうありました。

 「一階? ウォークインのお客様もアリなのね?」

今までその用途を(閉架)書庫としか考えていませんでしたが、
さも自然にこう言われてみると「ああ、アリなのか」と思いました。

それがこの前のこと。
そして今この本を読み終えて、ほぼ全景を現しつつある壁面本棚の、開架書庫としての使いみちを考え始めています。


ビジネスとしての成立要件よりも先に、「本の可能性」がグラスルーツで活性化するために、何ができるか。
会社ではなく、個人だからこそできるフレキシブルな活動として、どうあり得るか。

ここには、もう一つの(というより今はこちらが主力の)「ものづくり」の仕事を絡めることもできる。
今製作中の書庫は、同じ建屋の同階手前にある工作スペース(アトリエ)で材木を切る所から全てやっているし、元々余分に購入した材料と、製作過程での発見や思いつきとで、別の何かを作れないかとも考えています。


さあ、どうしていきましょうか。

 × × ×

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天満橋ジュンク堂で購入。高校が近かったので昔から馴染みでしたが、いつの間に、マンガ売り場が書籍エリアとは分かれていました。

「本の寺子屋」が地方を創る 塩尻市立図書館の挑戦

「本の寺子屋」が地方を創る 塩尻市立図書館の挑戦

instinct resolution

保坂和志の本で「主体の解体」についての記述を読んで、「解」という字の不思議を感じた。
それについて以下に書く。
まず一言でいえば両義性ということなのだけど、あとで別の表現が出てくるかもしれない。

本題に入る前に、…(以下後略)。*1


保坂氏は「主体の解体」という言葉を、人間は自分のことをすべてわかっているわけではない、意識として把握できるのは全体のほんの一部だし、意図したり計画してそれが思い通りにこなせるという制御性はそのほんの一部の表れに過ぎない、といった文脈で使っている。

「解体」とは、統合された、輪郭のはっきりした一個体である主体、そういった仮想物を「バラバラにする」ことを指す。
バラバラだから、構成は雑多で分類できないし、一望俯瞰も不可能である。

でも、「解体」が通常用いられる意味は、「対象が巨大かつ複雑で、そのままでは理解できないから、その対象を要素ごとに分解することで把握する」ではなかったか。

いまでは接尾語的な名詞となった「解体新書」はたしか、蘭学者の訳した人体解剖書だ。
人間という複雑極まりない生体に、機能を与えて肉体的な境界を設定し、部分に名前をつける。
バラバラにすることで、全体を一望俯瞰し、理解する。

解決、解答、解読。
「解」をもつ単語のほとんど(全て?)は、物事をスッキリさせる語感を持っている。
解体だけが例外、なのではなく、これも元はその仲間である。

だからといって、保坂氏の文章が特別なわけではないし、文脈に違和感もない。


これは分析だけど、たぶん僕は、同じ「解体」が理解可能と理解不可能の両方を目指す(目指せる)ことに不思議を感じて(「いや言葉の両義性なんてのはどんな単語にもあり得ることだ」と"逃げ"を打ちそうになってそれは止めたのだけど)、考えてみると「解体」ということばはほんとうに対象の現状に対する解体行為なのだ。

という言い方は意味不明で…

 何か全体を分かっているつもりの「一個」をバラバラにすると、わからなくなる。
 広きにわたって込み入った全体の「一個」をバラバラにすると、わかる。

対象の構成に変化を与えて、把握の仕方を変える

解体の意味を、もっと言えば「解」という字が含む意味をこう取れば、矛盾かと思えた両義性の論理が明快になる。


それで、今書いてきたことは「解」の字の解釈ということになるのかもしれないが、「解」がほぼ「わかる」の意味でしか使われていないのは、科学的思考の一形態、要素還元主義が全盛だった(流れは変わりつつあるが、今だってそうだ)からというのもあるし、大学受験を牙城とする受験教育熱の凄まじい日本の国柄と関係があるようにも思う。

「解体」することでわからなくなる、それは「知識が増えるほど分からないことも増える」、無知の知という古くからある知性のあり方だし、保坂氏はもとより、『「分からない」という方法』というこの文脈にうってつけの本の著者・橋本治(つい最近論語についての本が出ましたね。いつ書いたのだろう)、話を複雑にした方が物事はわかりやすくなるという持論で連想と隠喩を駆使する思想家・内田樹など、そのような思考を体得し本に著し続けている人々を僕は何人も知っているし、そういう本を好んで読んでいる。


問を「解決」すること。
謎を「解読」すること。

そうして「解く」ことが、自然と「わからない」へ向かうようになること
それはとても、心躍ることのように思える。

 ──と、こういうことを考えてみると、今回「わかること」への批判を賭けずに『フランドル[への道]』のことになってしまったのは無駄ではなかったことになる。小説の書き手は解釈されることをやみくもに嫌っているのではなくて、小説家の意図として想定される主体が、主体が解体した人間像を持たない解釈者の主体の反映としての主体に置き換えられてしまうだけのろくでもない読みに対して腹を立てるということなのだった。

「5 私の解体」p.105(保坂和志『小説の自由』新潮社)

 

*1:スポルティバのクライミングシューズに「ソリューション」というモデルがあって、メンズのデザインが黄色系と白のマーブル文様だったり、最近は直線的な幾何模様になったようで(昨日ジムで新品を履いた人のを見ました)、僕も同感ですがデザインはあまり好評でないようです。靴の性能自体はたぶん素晴らしくて、僕は前にフューチュラを買う時に店頭比較で試し履きした程度ですが、5.10のハイアングルよりはスマートに、ただ同じく足裏感覚を犠牲にして立ち込みもトゥー・ヒールも抜群にできる、僕の感覚では「ライトアーマー」のようなシューズです。同じ視点でいえばハイアングルは比較的「ヘヴィアーマー」に近い(懐かしのSFCバハムートラグーン」のキャラで喩えれば、前者はルキア・ジャンヌ、後者はグンソー・バルクレイといったあたり)。いずれにせよ「鎧をイメージするガッチリさ」があって、足裏感覚を重視したい僕の好みではなかったんですが、つい最近、5足目となるニューシューズを購入して、それがレースアップ(紐靴)しばりとお手頃価格を考慮して選んだスカルパのインスティンクト・ブラックで、これが実は僕の好みに反して上記の靴と似た「高機能ゴツゴツ感」が高い。現在主力の4足目5.10クォンタムに比べるとトゥーフックは断然効きそうだが、その分つま先部分が固くて踏み込めない(これは最初だけの辛抱かもしれない)。足形へのフィット感はレースアップだけに高いので、徐々に慣らしていくしかないが。 いや、書きたかったのは「ソリューション」と命名されたクライミングシューズの意図は名前から明らかで、でも別の解釈もあるのではないか、そしてその別の解釈も以下の内容に関わってくるだろう、というだけのことだった。 p.s.ついでに調べると"instinct"は「本能、直感」という意味なんですね。いい言葉だ。靴の名に負けない登り方をしたい。 www.edgeandsofa.jp

Can one speak about unspeakable? (1)

 
「沈黙について語る、にはどうすればいいか、考えているんです」
「それは、沈黙すればいいのではないかな? 文字通り」
「……そうですね」
「……」

「いえ、その、言葉にしたいのです」
「沈黙を言葉にする? 沈黙を破って?」
「矛盾して、聞こえますかね」
「いや、言わんとすることはなんとなくわかる。まず、君が語りたいのは『沈黙そのもの』ではないね?」
「そうです。沈黙が、それを聞く人に伝わるように、語りたいのです」
「それが伝わると、どうなるのかね?」
「……きっと、それを聞いた人も沈黙するのだと思います」
「それで?」
「それだけです」

「ふむ。極めてシンプルで、極めて漠然とした意思だね。君はそれが実現すると、嬉しいのかね?」
「きっと、そうだと思います」
「そうか。君には世の中が落ち着きなく喧騒にまみれて見える。欲望と行動が乖離して、ただ騒いでいるだけ、まるごと全てが無駄に思える」
「いえ、そんなことは」
「まあいい、程度の問題だろう。君は少しでも人々が冷静になればいいと願っている。ひいてはそれが自分の冷静をもたらす。まわりくどい考え方をするものだ」
「……」

「話を戻そうか。沈黙を語るには、もとい、沈黙を伝えるにはどうするか。王道は、言葉以外の手段で伝えることだ。姿勢。身ぶり。背中、といえば少し格好良いな。とにかく、沈黙が状態である以上、面と向かってのコミュニケーションがなければ相手は感じることができない」
「はい」
「ところが君は、沈黙という状態を言葉で伝えたいと言う。つまり、沈黙を思い起こさせるような言葉を語ることで、聞いた人自らの内側で沈黙が芽生える。そういう、これをコミュニケーションと呼ぶのかは分からないが、そうだな、状態の伝播を望んでいるわけだ」
「状態の伝播、ですか。なるほど、そうかもしれません」

「人が沈黙するのは、それぞれ理由がある。そして、したくてする行為、というよりは、せざるをえない状況に至ってさせられる、受動的な状態だといえる。つまり、理由は外からやってくるが、その種は内に秘められていたものだ」
「いや、積極的な沈黙もあるのではありませんか? 流れとして、いや状況と言ってもいいですが、自分が自然に行動を起こす場面、あるいは起こしている場面で、ふいにそれを中断したいという意思が生じた時、その意思の実行が沈黙という形態で現れる。放っておけば溢れてしまうものを押し止めるためには、積極的な介入が必要です」
「うむ、そういうこともあるだろうな。ともあれ、沈黙は何かしら複数の要素が反応した結果の産物だと言えるのではないかな」
「そうですね」
「この表現を使えば、君はその沈黙反応を不特定他者において起こしたい、あるいは、その反応を媒介するものを投じたい。言葉という手段を以て」
「その通りです」

「ふむ。どうも話している間、『沈黙』の指す意味がぐらついているように思えるが。具体的に言うならばそれは、沈思黙考ということかね?」
「ああ、そうかもしれません。言葉を失う、という状態があります。あれは、安易に軽薄なことを口にすると、今自分が遭遇している状況がなにか致命的に損なわれてしまうという恐れが、頭の中に渦巻く思念のアウトプットを堰き止めている状態です。頭が真っ白になっているという自覚を伴う場合が多いようですが、実際は思考が暴走していて頭の回転状態を把握できていないだけで、それは言い換えれば意識の中では言葉を押しのけて言葉以前が席巻しているのでしょう」
「うん? その、言葉を失った者は、沈思黙考という落ち着いた状態からはかけ離れているように思えるが」
「すみません。ええと、精神の安定度という面ではずいぶん異なった状態ではあるのですが、今思い付きましたのは、その、僕がイメージする沈黙というものが、論理的な思考を口にせずに頭の中で展開しているという整然としたものではなく、『言葉を失う』という状態とある面で共通するように、言葉以前のものが脳内で活発に活動していて、その尻尾を捕まえるというか、下手に口にしてうっすら掴めそうだった感覚を失わないように冷静に対処している。そうですね、小説の一言一句をイメージ化しながら読み進めている状態に似ているかもしれません」

「その比喩が適切なら、みながみな、小説を読めばいいことになるのではないかね?」
「ああ、そうかもしれませんね」
「……本当かね」
「うーん、もしそうなら、『沈黙について語る』が『みんなに本を読んでもらう』とイコールになる、ということですか? それは……あれ、意外とそういうことなのかなぁ」
「ふむ、イコールにしてしまうのはいかにも大雑把に過ぎるが、そういう一面がある、くらいには言えそうだな」
「そうですね。そして、僕はそういう風に限定して考えたくはないです。やはりもっと、抽象的な問題なのです」
「わかった。だが、抽象的な問題は抽象的な論理で扱わねば解決できぬわけでもないぞ。問題の要点を具体例に落とし込みながら、かつ要所で次元を上げて抽象的な思考に戻ってくる。その往復運動が大事なのだ」
「わかりました。肝に銘じます」

「その心臓への記銘はもちろん比喩だが、その銘が言葉以前であれば、言うことはないの」
「……難しいことをおっしゃいますね」
「なに、話は簡単だ。君の墓石に写実的な心臓の彫刻がしてあるさまを想像すればよい」
「想像しました」
「それでよい」
「……?」
「死人に口なし、心に朽ち無し」
「……」

 × × ×
 

Quindecim annos, grande mortalis aevi spatium.

 伝記のエクリチュールにおいて、これらの時系列の省略と対比は、ある自己の経験、すなわち不可避なものの経験を通して、自己が自己に決して一致しないということを繰りかえす経験を表わす方法である。もしくは別の言い方で言えば、世界と自己の歴史性の意識化もしくは表現である。記憶とは、「言語という手段を通して時間性の中で自分を煎じ詰めるこのような時間のエクリチュール」の媒体なのである。ある意味、シャトーブリアンは最初の自我=歴史家である!

第3章 シャトーブリアン p.158(フランソワ・アルトーグ『「歴史」の体制 現在主義と時間経験』)

抜粋した本は、かなり厄介な本で、ちょっと読んで間をあけて再読すると何が書いてあったかもう分からなくなるし、そもそも最初に読んだ時から自分が何を理解したのかわからない(人に説明なんて到底できない)という難解な本なのですが、それでも読み続けられるのは「エクリチュール」、内容そのものというよりは筆致とか著者の言わんとすること(←これは内容ですね)を言おうとする姿勢というのか、「簡単には言えないこと」を回り道を繰り返してねばり強く言葉にしていく、たとえば文机の前で正座して、真顔で懐手に腕を組む明治人のような…いや、よくわかりませんが。

その、ちびちび読むとわからないんですけど、途中からでもいくらかまとめて読むと、何か心に染み込んでくるものがあって、それは内容理解とは別の形で自分の身になっているはずなんですが、それは思考の種であって、自分でそれを育てないと芽吹かないし、放っておくと殻を破る力を失ってしまうかもしれない。
まあその、育てるというのが、ジョウロで水をやることでもあり、日光や雨に当たるように日なたに置くことでもあり、土を新鮮なままに保つことでもあり、介入の直接性・関節性には幅があって、より直接的であれば効果的であるとも言い切れない。

だからなんだという話ですが…

 × × ×

とっつきやすいところから始めましょう。

「記憶とは…媒体なのである」という表現に出会って、まず驚き、複数の連想が同時に発生して収拾がつかなくなったのでした。


記憶媒体という言い方がありますが、あるいは記憶メディアでもいいですが、たとえばそれはHDD、フラッシュメモリなどを指します。
そのスペックのことを記憶容量ともいう。
ただこれは、記憶を納める媒体(あるいは記憶できる容量)という意味で、記憶が媒体だと言っているわけではない。
媒体でなければもちろん、内容、コンテンツですね。
記憶とは内容である。

…ではない、というのがまずは、表面的な驚きでした。
つまり、常識からの外れ、奇抜さを最初に見て取ったということですが、ではこの表現そのものが非常識な、通常の感覚から理解しがたいのかといえば、そんなことはない。

僕はむしろ親近感を覚えました。
そういう考え方を自分の傾向の一部として持っていて、けれど名前を持たなかったそれに適切な表現を与えてくれた。
親近感、とはそういう意味です。

 × × ×

プロセスと結果の話について、最近の記事の中で幾度か触れたと思います。
あるいは前提と評価という対比をこの話に関連づけもしました。
この文脈に、本記事のテーマも連なります。

つまり、

 メディアとコンテンツの対比、
 一方的な重み付けと価値の転倒、
 意味の反転による本来性への回帰、

といったことです。

本当かな…
最後まで辿り着ける気がしませんが、とにかく続けます。

 × × ×

コンテンツが大事、という価値観は、それをどんどん推し進めると、コンテンツそのものの完結性に行き着きます。
完成度の高いコンテンツは、それが提供される前から、万人に価値(の高さ)が分かっていて、受け手の解釈や工夫の余地がない、あるいは拒みさえする。
これは、プロセスの消失、結果の一方的な享受、でもある。

ここで、コンテンツとしての記憶について考えてみます。
思い出と言った方がより実感しやすいでしょう。

観光業のタームで「思い出づくり」という表現があります。
親子向け、カップル向け、など対象を絞ったうえで「外れナシ」「感動間違いなし」などと銘打たれたお仕着せプラン。
これらの観光プランを練った人間は、この場所でのこういう体験が思い出に残るという幾つかの想定をして、それらをルートにしかるべく配置するでしょう。
それが本当かどうかは今は問題ではありません。
僕が思うのは、観光業者の考えている思い出が「客の個別性に関係なく定まったもの」であり、プラン内の体験が思い出として残ることの価値が「体験が記憶の中で(時間が経っても)そのままの形を留めること」にあると想定している、ということです。
これが、記憶のコンテンツとしての価値を極めた一つの形です。


もちろん、極端な言い方をしたのはその方がわかりやすいからです。
では、他方の、メディアとしての記憶について。
こちらも極端に考えてみます。

…というか、「メディアとしての記憶」の極端な一例が、引用したアルトーグ氏の本の第3章で中心人物の、18世紀末フランスの歴史家・旅行家シャトーブリアンの一生なのでした。
第3章はシャトーブリアンの伝記のようでもあり、彼の生涯をたどりながら本のテーマに合わせてアルトーグ氏が解釈を加えていく、そのような記述の一部が上の引用です。

だから本書のこの章を読めば「メディアとしての記憶」のイメージがなんとなく分かるし、僕が可能ならそれをここで言葉にすればいいんですが、先に言い訳した通りたぶん「理解」はできていなくて、親近感を抱いたという、つまり価値観としてシャトーブリアンとそう遠くないところにいるはずの僕の解釈を書いてみよう、と思ったのが本記事を書く動機でした。

…やっとスタート地点に立ったようです。さて。


上でとりあげた「コンテンツの究極」と対比させれば、その特徴が見えてきます。
メディアとしての記憶は、変化を前提とし、変化の機を内在しています

またちょっと話がズレますが、思い出に関連して「後悔」について考えると、話が少し分かりやすくなると思います。
自分の昔の言動を後悔するという時、それは振り返る当時のある特定の経験を恥ずかしいと思ったり、その経験が今の自分の境遇や人間関係にマイナスの影響をもたらしたと感じるからです。
そして、未来の自分のことをちゃんと想像して、後悔のないように行動しなさい、といった説教が成り立つ。

でも実際、わかんないですね。
未来の自分がどう考えるかなんて。
想像しろと居う方は言えるし、する方は想像してみることはできる、でも当然、その想像通りの未来がやってくるかどうかはわからない。

「あんなことしなきゃ(言わなきゃ)よかった」と言えるのは、既に過去となった出来事と、現在の状況との因果関係を想定できる位置に自分がいて、現にいま自分がそう想定しているからです。
では、後悔の原因はどこにあるのか?
過去の出来事か?
違いますね。
過去の出来事を恣意的に今に結びつけている、「現在の自分の想定」が正しい。
現状の不満や不首尾が、頭の中を後悔に仕向けるのだとしても、その現状の言い訳をするためにひねくり回す自分の頭が原因であって、現状は動機、きっかけに過ぎない。

人が自分の過去の経験を後悔するかどうかは、経験の内容に関わりなく常に、現在に懸かっています
それは、経験の記憶、体験の思い出というものが後になってから、いくらでも変化するからです。


変化を前提とする記憶とはたとえば、このようなものです。
でもこれは、たぶん「メディアとしての記憶」の性質の一つに過ぎません。

 × × ×

…話が進みませんが、力尽きました。

触れたいことがまだあったのですが、そのトピックと、あと上の引用に続く気がかりな一節を引用しておきます。
「気がかり」なのは主観ですが、この引用はこれだけで「メディアとしての記憶」の別の特徴を表しているようにも思います。

・定点観測について
  「定点からの観測」ではなく「定点の観測」
  そもそも観測ではない、客観を捨てた(緩めた)体験
・脳内BGMの記憶としての性質
  音楽のリピート再生とコピペ文化
  一回性のライブ視聴と、思考とリンクする脳内BGM

 しかし、ここでシャトーブリアンは、特に自身のことをもはやこのように存在しない者であるかのように話している。時間の作用が、自己を、自分自身からいなくならせ、究極の不在にまで至らせる。それは物事の劣化であり、自同的なものの場所に忍びこむ他者である。(…)旅行者であり作者である者は常に時間のうえで二つの寄港地のあいだにいる。「私は常に自分をもうすぐ再び船に乗り込む船員としてみている」。

同上 p.158-159