human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

疾風ドトールの日々、ソファ多難

年始から昨日まで何やかやとバタバタしていました。
今日は久しぶりに家で読書をしていたんですが、
頭は回転速度が落ちない。

 新しく始めることが、
 変化を生み出すことが、
 いくつも重なっている。

判断の瞬間に大きく背負うものがあって、
その一歩が「越境」に感じられるのですが、
決まってしまえばあとは粛々と進めるのみです。

粛々と、とは「静かに躍動しつつ」といった意味です。

 × × ×

タテヨコの経緯があり、引っ越すことになりました。
鶴見区から、今度は北区です。
高校の頃を含め在阪時には全く縁がなかった、天六エリア。
駅にも近く、長さが日本一だという商店街にも近い。

とても面白そうなところです。
家も、街も。


新居での配置を計画すべく家具の寸法を測っていて、
昨日は内覧時に玄関や廊下の幅を測っていたんですが、
アーバンバル風の隠れ家ライクな物件のそれは非常に狭くて、
 これまで三度の引っ越しに踏ん張ってきた読書用ソファを手放さねばならんな、
 何せ今の家にも階段を通せなくて2階の窓からロープで入れたくらいだしな、
 頭を楽にもたせられる一人用ソファってなかなかないんだよな、
と、そのソファで読書しながら気が逸れてつらつら考えていたんですが、
IKEA製のご多分に漏れず着座部分もアームレストも幅広ながら、
寝られるくらい背もたれが倒れるリクライニングタイプのそれが、

倒した時の、

高さが、

お?

!!


と、

ソファの幅より短いことに(頭の中で倒すのを想像して)気付きました。
早速立ち上がって実際に倒して、
その高さを測ると68cm。
新居の通路で最も狭い玄関ドア幅は、65cm。
背もたれを倒したソファは「くの字」なので、
横に倒して前後で持ち、左右にひねりながら進めばいけるでしょう。

やったー
ムーレン手放さないで済んだー
(ちなみに現居への引っ越し時も窓から入れんでよかったな…)


思い返せば、
神奈川の社員寮を出る時はそのように運び出した記憶がうっすらあります。
…。

まあ、何にせよ良かったです。
今回も(同じく2階の)窓から入れる可能性は内覧時に検討はしていて、
でもベランダの窓がやたら重くて外せるのか確証が得られなかったり、
窓の外は現状空き地だけど建物ができちゃった時の面倒な事態を思ったり、
(部屋の中で解体作業? 騒音バツだからノコギリで切るのか? とか)
そんなこんなで「今回ばかりは手放した方がラクか…」と諦めムードになっていたのでした。


初めてなら、なんでも"いい経験"」だと思って、
自分では思いもしない色々なことに巻き込まれてきましたが(特にここ数年)、
自分一人の問題、決定権のすべてが自分に握られている判断では、
保守的な価値観が先行してまだまだ弱気が抜けていない。

いや、反省する気はなかったんですが、
書いているうちにこうなってしまいました。
まあ、これもまた発見。


…あー、

そうだ、新居はかなり狭くなる(有効床面積は現居の半分以下)から、
ちゃんと配置を考えないとスペース不足で処分になりかねないのだった。

よーし考えるぞー

ゆくとしくるとし '18→'19 5(完)

年末年始に書くこのシリーズですが、間が空いてしまいました。
原因は2日から長野へスノボへ行っていたこと、その出発までに書き上げられなかったこと。

さっきまで読み返して、加筆修正を少ししました。
勢いで書くと読みにくい所がちらほら、
それから、文脈上「書いておくべきこと」の追加。

今回はたくさん書きました(5までいったのは初めてです)。
読み返してみて、締めくくりのしようがない相変わらずの散漫さです。
まあ、最後まで思うまま書くことにします。

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これは昨日まで滑っていた栂池高原のゲレンデ。

 × × ×

去年は転機でした。

サラリーマンを辞めて2年ほどぶらぶらしていた(一本歯で四国遍路・そのための修行@京都、夏の岩手で司書資格取得・そのついでの雪国生活etc.)のが、去年なかばから新しい個人事業の仕事を始めた。

今年はまた、別の意味で転機になると思います。
去年がpublic turning pointなら、今年はprivate turning pointになる
そんな気がします。


先に、自分は「流される性質の人間である」と書きました。
けれど、これは実際のところ、見方の一つに過ぎません。

時々、自分のことをこのように認識することがあります。
自分を取り巻く「流れ」さえ見い出せば主体的に行動できる人間だ、と。

結局、思い込みや遺憾なき想像力の発揮によっても「流れ」は発生することがある。
それが自然なのか無理やりなのか、という話でもない。

意識は、自然か人工か?
脳の宿命的機能を自己参照すれば意識は自然であり、
身体から見れば意識活動は人工そのものである。
そういう話なのです。


縁とは、自然と人工の境界にあるものなのでしょう。
双方を包み込むもっと大きな、いや、際限のない存在。

そして不思議なことに、身の丈感覚は縁と相性が良い


縁を大切にして、
自分自身の生活の充実が、
僕と関わる人々にも伝播するような、
さらにはお互いに共鳴して"我々の"充実が増幅するような、
そういう生き方をする。

今年の目標。



今年もどうぞよろしくお願いします。

chee-choff

ゆくとしくるとし '18→'19 4

今年の抱負の話をしましょう。


仕事用のHPの更新が滞っていますが、これは「とりあえず更新しておこう」というモチベーションが薄くなったからです。
必要ではない、と思うことは書かなくなった。

ですが、その更新が今月また復活すると思います。

機械設計の仕事と並行して、新しく本の仕事を始める予定です。
以前、自分の関心の中心と本とを絡めて仕事をしたいと思って、「ブックアソシエータ*1」という肩書を思いついて、その職業の人間がなすべき仕事について考えようとして、入り口に立ったことがありました(変な表現ですね)。
これはその時に書いた文章。
bricolasile.strikingly.com
それからひと月ほどして、ちょっとしたきっかけがあって(その節は、司書講座同期のM女史に感謝しています。始める前からなんですが)、始めてみようかなと思った仕事がちょうど、「ブックアソシエータ」としても適うものであった。

具体的なことは、やる前から考えるよりは、やらざるを得ない状況に追い込んでから頭を回転させた方が現実的に動ける気がするので、ここではまだ書きません。
ただ、「本にポテンシャルエネルギィという潜在価値をつける仕事」とだけ言っておきましょう。
どう展開するかは、実際のところ、やってみないとわかりません。

 × × ×

ちょっと違う話を書きます。

去年の後半から「香辛料の国」というタイトルで、いくつか、超短編のようなものを書きました。
その文章には「小説的思考」とタグを付けた通り、小説だとは思っていません。
日々の生活でなにか思いついたこと、考えたいこと、あるいは考えさせられる出来事が起こった時に、それを物語らしきものに託そうと思ったのです。
そして一人称の語りの間に会話を挟む形式にしたのは、「僕ではない誰か」の言葉を借りて思考を進めようと思ったからです。

折角なので、サブタイトルをつけて、ここで整理してみましょう。
(1-2がないのは、初稿時の出来が悪くて公開していないからです)

 香辛料の国 1-1 セージと「共存の不可能性」について
 香辛料の国 1-3 ウーシャンフェンと「反省の普遍化」について
 香辛料の国 1-4 ウーシャンフェンと「自由のための限定」について
 香辛料の国 1-5 シナモンと「一般化を目指す個性」について
 香辛料の国 1-6 セージと「文字のない本」について
 香辛料の国 1-7 ローズマリーと「絵画と死の静謐」について
 香辛料の国 1-8 バジルと「比喩の神託」について
 香辛料の国 1-9 ディルウィードと「時間の主観性」について

読めばわかりますが、全ての章に出てくるフェンネルが、まあ僕のようなものです。
そしてそれぞれのスパイスたちは、特定の性格を持つと想定されたり、あるいは現実の知人をモデルにしたりしています。

そうは言っても、後者は「あの人ならこう考えて、こういうことを言うだろうなあ」というシンプルな想像ではない。
なんというのか、そういう正統的な他者思考の想定だけでなく、「あの人がこういうことを考えたら面白いだろうなあ」「あの人がこう言ったら、僕はそれにどう答えるだろう」という、具体的な知人の印象の一部を借りてそれを起爆剤にしているようなところもある
だから、僕がその人(って、誰も名前を挙げてはいませんが)に対して持っているイメージが書かれているというよりは、僕とその人の関わりが、それこそコミュニケーションの履歴が、不規則に絡み合うアモルファスな結晶の現れがここに並んでいます。

そう考えてみると、この超短編集に書かれていることは、僕が書いたことながら、僕でもその人でもない謎の主体の思考が混ざっているようにも思われて、時間が経って読み返すたびに僕自身が新たな刺激を受ける構造になっている。
…かもしれない。


これ以外にも会話調の記事を書いてきたんですが、趣旨は上記と似たようなものです。
最近になるほど「香辛料の国」の更新が減ったのは、伊藤計劃のエッセイの中で「SFの必然がないのにSFの形式にする意味はない」みたいな話を読んで「ああ、たしかに必然はないなあ」と思ったからです。
別に、なくてもいいんですけどね、スパイス達を擬人化することで、新しく表現が生まれるという現象もあるので。

まあ、気が向けばまた、続きを書くかもしれません。
ストーリーが生まれる気配は、まだありませんが。


p.s.「誰も名前を挙げない」と言いながら、改めて自分の文章を読み返すとなかなか本当に面白かったので(つまり僕が書いたとは思えないという意味で、やはり「謎の主体」の存在を仮定したくなります)、一つだけ。1-7の登場者には「画伯」という敬称がついていますが、僕の知人に画伯は一人しかいません(きっぱり)。
 

*1:アソシエータは、もとの単語から別の意味を与えた造語です。associatorとは、連想=associationを司る人…とは言い過ぎで、深く精通してその可能性を誰よりも信じているが、無意識の領野とも重なり、個人差の極めて大きい現象を「操れる」などという傲慢な考え方は持っていない。「ゆくくる」の1つ前の記事で「意識の研究」の話を書いたかと思うんですが、僕が誰でもできると言ったのは「在野でやる」の意味で、つまりプラグマティックなそれです。現象の解明よりも、実際的な可能性の開花、効果の探求に重きをおく。…話が抽象的なのは、事を始めていないから仕方のないことで、話を戻せば「ブックアソシエータ」の訳語をとりあえず提出しようとしているのでした。司書はlibrarianで、「司る」と最初に書いてみたのはここからなんですが、そうではなくて…非修飾的な表現をすれば「本と本を、または本と人を連想でリンクさせる人」になります。これを、つまりどうなのか、それによって何が起こるのか、ということも含めた表現に発展させたいと思っているのですが、そうですね、これは今後の課題としましょう。

ゆくとしくるとし '18→'19 3

実家の庭掃除をしました。

竹箒でアスファルトの上をガシガシ掃いていると、抵抗の強さと相性の悪さが身に染みます。
竹の枝一本ずつが触手となり、しかしそれらは巨大な非弾性体を前に、交信の余地なくはじき返される。

落ち葉を竹箒で集めてから、合成樹脂の箒と掃き口にゴムのついたちり取りを使いました。
小さな枯葉が中に吸い込まれていく効率の良さとは別に、先程までまざまざと感じていた抵抗がなくなって、何かが曖昧になり、もやもやとした感覚が生じました。

抵抗がないこと、それにふと、恐ろしさを感じることもある。

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これは家の庭の南天です。

 × × ×

2019年になりました。

今年は平成31年なのですね。
去年のあいだ、ずっと平成29年だと思って、その認識が改められた記憶がないのですが(いくつかの紙に29と書いたのは覚えています)、だからどうだということもない。


紅白歌合戦からずっと、「平成最後」という言葉を繰り返しテレビで聞いています。
「時代の終わり」のような雰囲気があります。

新年号が4月のはじめに発表されるようですが、なんだか、その名前を知らない今は、終わりだけがあって始まりが見えないような、展望がないというのか、宙ぶらりんの状態であるように思えます。
「未来の展望がない」、どうもこの認識も、当たり前になってしまったらしい。
人口減とか、経済の停滞のせいではなく、現在主義、「今がよければそれでいい」という無時間モデルで社会を動かしてきたのが原因でしょう。

僕は、派手なことが流行らなくなる、「縮小社会」としてこぢんまりとして、世相が落ち着いていく、こういった流れができていくことを、十分にポジティブな「未来の展望」だと思っています
人のために生きる、と言う時、このような認識を分かち合って、関わる人の個人の顔が見えて、各々が落ち着いた表情をしていればいい、それが一つの「自分があるべきあり方」だと考えています。


「べき」という当為の言葉をいま使ったのでちょっと脇道にそれます。

この表現は、あるいは責任という言葉も同じですが、自分に使うものだと思います。
他人に向かって使う時、その言葉は相手に届く前に、自分の中で響いている。
「自分ができないことを人に言うな」ということと、似ているようで少し違います。

相手の身を考えない、無責任な発言。
宴会の席ではそういった調子の良い言葉が飛び交うことでしょう。
あるいは、まじめに話している時に、自分はこうは考えないが、相手の考え方に沿って、自分が信じてもいない助言をすることもある。

それが、いけないのではない。
「自分が信じていないこと」を言って、それが何かの結果を招いた時に、自分の発言が自分自身には遠いものだったという理由で、その結果に関心を持たないこと。
これは、自分の言葉に対する裏切りなのです。
言葉への信頼を考えるとき、本当に大事なのは発言の内容ではありません。
自分の発言という事実を軽視すること、言葉をその場限りのものとして使い捨てる・消費することが、自分の言葉を、もっと言えば自分が考えることを、自分自身からどんどん遠いものにしていきます。

たとえば、そのようにして言葉は、感情の道具となって、論理の実質を失っていく。


感情に奉仕する論理、それは単語の一つひとつがすべて感嘆詞になるようなもの。
そういう言葉遣いを流行らせる人間には自覚があるが、その流行を享受し、波に乗ること自体に楽しみを見出す人々には自覚は芽生えない。
なぜなら、自覚がないこと自体が、波に上手く乗る条件だから。

こんな話になったのは、今朝の朝日新聞の文化欄に大塚英志が書いていた内容を読んだからだと思います。
その一部を抜粋します。

 ウェブは個人が自分の考えを持ち、他者と言葉を通じて合意をしていく近代、そして民主主義のツールになりえたはずでしたが、感情的な「共感」を促すインフラとしてむしろ今はある。しばしば問題とされるポピュリズムとは、民主主義の「感情化」であり、近代をサボったツケです。言語による合意形成をスルーし、感情で一体化する社会のリスクは歴史が証明しています。

「感情振動 ココロの行方 1」大塚英志インタビュー記事(2019年1月1日 朝日新聞

スマートフォンはわかりませんが、PCの画面の前に座って言葉を打ち込む時、感情的であることはほとんどありません。
感情的な文章を書こうとする場合、そこには「感情的になろうとする意識」があるために、感情の発露は意識を挟んだ間接的なものになる

痴話喧嘩のような、意味の欠落した言葉の応酬は、相手の顔が目の前にあってこそ成立する。
言葉に意味がなくとも、感情は全身で、また発言の形式で表現でき、伝わるからです。
これと同じことを、液晶画面に向かってできるという時、さぞや想像力の豊かな持ち主がいるものだ、と思っていました。
その解釈が、僕にとって「しっくりくる」ものだったから、それ以外には想像できなかった。

それが、言葉の運用方法という視点を与えられた時に、別の可能性があることを知りました。

言葉が感情と状況に付随して、論理の効果を封印されて使用されることがある。
これが「感情的な言葉」の本来のあり方です。
その一方で、
「感情的な言葉」を使いさえすれば、感情にも状況にも関係なく、感情表現ができる(ことになった)。
上と対比させた言い方をすれば、
感情と状況が言葉に付随して、感情と状況が言葉に含まれているという合意形成がなされて、本来の感情と状況の、言語情報以外のすべてが骨抜きにされて、仮想化した。

「感情社会」のメカニズムは、このようなものではないかと、今考えてみました。


「仮想こそが現実である」、街中でスマホを見ながら(しかし行く手の索敵は怠らずに)歩ける人間は、このことを体現していると言っていい。

うろ覚えですが、今読中の森博嗣のWシリーズ(4作目『デボラ、眠っているのか?』まで読みました)のどこかに、「現実と仮想が入れ替わったのかもしれない」といったことが書いてありました。
このシリーズは西暦2200年台の、人間の寿命がバイオ医療によって百年を超える伸びを見せ、ウォーカロンと人間の区別が見かけではつかなくなった遠未来世界が舞台ですが、抽象性の高いこの物語は、抽象性の高さによって現代社会を映すことが可能となっています。

技術には進歩の段階があり、それを段飛ばしで駆け上がることはできず、発展のスピードは遅々として、踏み締めるべきステップに1つ1つ足跡をつけていく宿命にある。
けれど、個人の思想には原理的に階梯はなく、飛躍が可能で、価値観を規定すると思われている生活物資の影響を受けながらも、つねに予想外の変化の可能性に満ちている。

言いたいのは、あるSFに描かれた、ある未来の技術水準とその社会の価値観に対して、現代社会の技術水準とその社会の価値観は、同じ関数で対応しているわけではないことです。
たとえばの話ですが、SFのその技術水準に、あと二百年もすれば達するかもしれない一方で、同じSFが描く価値観と、現代社会の価値観にはそう大きな違いはない、という見方があり得る。


話を少し戻しますが、
仮想領域が現実性を帯びていくほど、思考の意味するものは重要になってきます。
AIが進歩して労働がどんどん機械に代替できるようになっていくというのも、同じ流れです。
人間のみが担い、駆使できる意識・思考というものを、社会が軽視できない状況に進んでいます。

AIの研究や脳神経科学は、意識・思考の解明をめざすものですが、その(社会的な)目的は、それを随意に操作できるようにすることにあります
研究者個人の志向は様々あると思いますが(たとえば阪大の石黒浩教授はそんなこと考えてもいないでしょう)、研究が純粋に個人事業としてできない以上それはそういうものです。

「研究が純粋に個人ではできない」、書いたそばからなんですが、これは嘘です。
意識の研究なんて、人間なら誰でもできるはずです。
「意識の研究ができる」、人間をそう定義しても違和感がないくらい。

意識の研究、その成果の社会的な利用、この流れは明らかに、二極化へ向かいます。
本当は誰でもできること、それをすることで、この二極化を冷静に見つめることができるでしょう。
これが傍観となるか、流れの変化につながるかは、社会ではなく、個人の側に決定権があります。

ゆくとしくるとし '18→'19 2

人はどのように回復していくのか。

この問いを念頭に、訥々と言葉を紡ぎ続けているturumuraさんのブログをずっと読んでいます。
昨日投稿された記事の内容は、普段のように深く考えさせるものでありながら、年の瀬にふさわしいようにも思えました。

以下のいくつかの抜粋は、その記事の中からです。

kurahate22.hatenablog.com

「幸せ」になるために生まれてくるのではないと思う。生まれてきた時点で終わりであって、全ての人は難民としてこの世界にきていると思う。生は無秩序であり、容赦がない。

「容赦がない」、たとえばこのような語りには、容赦がない。
現状把握の、客観あるいは主観の認識の手を緩めない、これはニヒリズムに通じる。

でも僕は、turumuraさんの一貫した姿勢は、つねにその先を目指しているように思え、だからこそ、時に冷徹で無慈悲な表現にも厭世を感じない。

僕が好きな言葉、宮崎駿の「突き抜けたニヒリズム」を、草の根で実践されている。

コントロールする「意思」ではなく、どうしようもなさが生きものの特徴であり、人間の特徴であるのだと思う。人間を意思の主体と考えるか、どうしようもなさを生きるものと考えるかで、そこに生きる人たちのやさしさは随分と変わるだろうなと思う。

”自分のやりたいことが、できない。
お金がないから、家族が邪魔をするから、みんなが自分の価値に、才能に気付かないから。
生まれや境遇や、不運のせいで、今の自分は妥協に甘んじている。
今やっていることは、自分がほんとうにやりたいことではない。”

主観としてありうる認識だし、客観的な分析として根拠を抽出し補強することもできる。
でも、ありうる認識は、ただ一つの認識ではない
当然だ。
それを、他には選択肢がないかのように思い込むのは、「自分にしっくりくる考え方が正しい」と決めつけているから
陰謀史観はそのようにして、根を絶やさず伝達されていく。


でも、冷静に考えてみる。
叶わぬ夢を持つのは勝手だし、現状に不満を持つのも勝手だ。
けれど、そういう満たされない気持ちを抱えることは、同じく選択肢の一つなのだ
僕らが選べるのは、人生の岐路と呼べるような大仰なものだけでもないし、日々の些細な行動が全てでもない。
その行動の一つひとつに、あるいは何もしていない時に、自分が意味づける思考も、選ぶことができる

選択肢があるという意味で、思考は行動と変わらない。
自由度の高さという指標をとれば、この2つは月とスッポンの差だ。
あるいは、子供用の折り畳みプールで水遊びをするのと、大海でイルカと戯れるほどの違いがある*1


つねに本気でトライする。
どんな状況でもベストを尽くす。
それが理想的な生き方とされて、怠惰に生きたり、生産性のない暇潰しで一日を終えるような生活を、努力が足りないなどと中傷する。
それはたしかに一つの見方としてありうる。
ただ、逆に考えることもできる。

僕らがやっていることは、意識的に複数の道筋の中から一つを選ぶ場合も、選択の余地なく行動を強いられる場合も含めて、何かしらの基準で「よかれ」と思ってやっていることだ
選択肢などというものは、自分が立たされた状況を自分が鵜呑みにした段階でリストが固定されるもので、状況を無視すれば、枠を取っ払えば、その場から逃げ出せば、身の回りのすべてを破壊し尽くせば、どうにでもなるものだ。


いじめを苦にする小学生は、クラスから逃げ出す発想を持たない。
親の虐待を耐え忍ぶ子供は、家庭の外へ助けを求める方法を知らない。
良し悪しを別にして、彼らはみな、状況を前提として、その状況の中で最善を尽くしている。
家族を養うために嫌々会社に通う父親だって同じだ。

彼らが選択肢がないことを嘆くのであれば、それは自分自身を嘆いていることになる。
自分で、勝手に、しかも意識せずに、道を一つに絞っているのだから。
選択肢が増えれば、彼らの中には、救われる者も、喜ぶ者もいるだろう。
でも、それに自覚が伴わなければ、救いも、喜びも、彼自身の内に留まる。


自覚は、意識は、思考は、一人の人の内部に滞留すれば消えてしまう儚いものを、普遍化する力がある。
自覚によって、人はいつだって、スタート地点に立つことができる。
命の絶える、直前にだって。
そしてこれは言祝ぐべきことなのだ。

だって、一つのゴールは、その次のスタートのためにあるのだから。

わたしとは、この状況というピンボール台にいれられたピンボールなのだと思う。記憶や認識とは状況であって、わたしではない。

そんな感覚がふつうに感じられるようになることが僕にとっては救いであるように思う。

ついこの間、ある女の子と「自分の中にいる他人」について話をしました。

彼女がいうには、なにか行動に対する判断をしたり、行動している自分をふと客観的に見るような時に、「自分の中の人」にお伺いを立てることがある。
その人は、実在の人でありながら、彼女のその人に対する印象の産物ではなく、主観的には完全に自分とは別の人なのだという。
自分の中に、自分ではない人がいて、その人と会話ができる。
そのことによって、自分の考え方が広がった、前の自分なら凝り固まって結論がパターン化するようなことがなくなったという。

彼女の元々の表現とはだいぶ変わっているようですが、僕はその話を聞いて、「人とのコミュニケーションが生データとして蓄積されている」という表現をしました。
その別の表現、「コミュニケーションの履歴」という言葉が彼女は気に入ったようでしたが、それはさておき、僕にはそのようなことはできない、とその時は返答しました。

他人との会話や、表情の交換、総称してコミュニケーションですが、あるいはその蓄積が印象となった(特定個人に対する)人間関係。
後者ほどデータに手が加えらているんですが、僕の場合は、人とのやりとりはなんらかの操作、加工、分析を通して内に蓄えられていくというイメージを持っています。
「あの人ならこう考えるだろうなあ」という「あの人」は、僕の思考回路、情緒回路で濾過された結果として僕の中に生成されたものです。
当然、それは生データとは言えない。

彼女の中にあるものが「生データ」であること、それが本当かどうかは僕にはもちろん彼女にだってわかりませんが、僕がすごいと思ったのは、それを確固たる主観的な認識として持っていることでした。
そしてどうやらそれは、彼女の「自己と他者の境界が薄い」ことと関係している。
たとえば「ドアの入り口とか机の端とかに、手とか足よくぶつけるねん」とかいうドジっ子発言は、単に微笑ましいことで済ませることもできますが、他と照らし合わせて考えると、それは「自己の境界が身体の末端である手足よりも外側にある」という稀有な人間性の現れを示すものでもある。

自分が手にしているコップも、その下のテーブルも、今喋っている目の前の人も、私の身体の一部である。
彼女がそう意識して行動しているのではなくて、彼女の身体が、それを前提として活動している。
そして彼女は、女性の多くがそうであるように、身体と脳が非常に密接に結びついている。

それがどういうことなのか、今の僕にはわかりません。
そして、とても深い興味があるが、それは分析したい、というものではない。
ただ、彼女の近くにいれば自分は確実に変化できる、そんなニュートラルな予感だけがある


turumuraさんの言葉に続いてこんなことを書いたのは、なにか関係があるという直感が先にあったからです。

自己と他者の境界が薄い。
あるいは、自己が身体の境界を超えて延長している。
それは、自我の肥大であるかもしれないし、自己の希薄化であるかもしれない。
体積の増加に注目すれば前者の、体積増加による密度の低下を仮定すれば後者の認識が得られます。
こんなことは、いや、これだけだと、解釈の違い、言葉遊びに過ぎません。


「わたし」が、当たり前の「わたし」を超え出ていること。
それは、希望の糸口でも、絶望の前兆でもあり得ます*2
そして、そのどちらであれ、ここでは変化の坩堝が口を開け、中では何か得体の知れないものが渦を巻いている。
その渦は、とりもなおさず「流れ」である。
中心へ向かうほど速度を増す、急流あるいは激流の総体。

けれど、

身の丈の感覚を維持する限り、その「流れ」は「よきもの」である。
珍しいことに僕の脳と身体は、この意見で一致を見せているのです。

 × × ×

今年は年の変わり目の初詣は行かないかもしれません(もう数分前ですが)。
紅白見ました、椎名林檎は会場に来ちゃうと本領発揮できませんね。
米津玄師が一昨年の林檎ポジションでした。

皆さま、どうかよいお年を。

chee-choff

*1:これは、ボルダリングの入門書で室内壁と外岩の違いの喩えに使われていた表現です。

*2:権力者は身の丈を超えた思想を持たないと集団を統治できないと同時に、権力の暴走と権力者の身の丈感覚の希薄さは強固な因果で結びついています。

ゆくとしくるとし '18→'19 1

年の瀬です。

今年は大阪に移ってきたので、年末年始は実家にいます。

去年は岩手にいて、積もった雪がすべての音を吸い込んだ静寂の夜を初詣に歩きました。
近所の神社では身の丈の数倍は高く燃え盛る焚火が生命の中心で、ぽつぽつと訪れる人々はみなひっそりとしている。
神社の人に手渡された餅はやわらかく、つきたての感があり、ありがとうと目を合わせたおじいさんには、固有の表情がある。

思えば、「やりたいことをやる」より「したくないことをしない」生活をしようと考えたのは、昨年にお遍路から戻ってからか、その後の岩手での1年滞在の間のことだったか。
会社員時代から生活はシンプルでしたが、目に触れる情報の量が減って、「余計なこと」をしなくなって、精神的な地盤がしっかりしてきました。
なにか、「わるいもの」に振り回されることがなくなった。
流される性質の人間として、流されるもの、僕を流れに乗せようとするものに対する、僕自身の姿勢が落ち着いてきました。
相手を選ぶわけではない。
近づいてくるものを、言祝げば親しくなり、受け流せば遠くなる


唐突にゲームの話をしますが、最近ロマサガをはじめとする「サガ・シリーズ」の総集編的復刻版のようなものがスマホのアプリで出たのを、ボルダリング仲間がやっているのを見て知りました。
ロマサガ3は一番よくプレイしたし、ゲームの曲は今でもよく聴きます(小説やマンガを読む時に、雰囲気が合った曲を頭の中で流すのです。それについて書いた記事を張っておきます。『宝石の国』(市川春子)×「水晶の廃墟」)。
レベルアップの時に技や魔法を覚える、というRPGの定石があった時代に、戦闘での攻撃時に確率に応じて技を閃くという「閃きシステム」が当時は話題になりました。
その技の話。

単体の敵に攻撃するという時、こちらから仕掛ける技よりも、相手の直接攻撃があった際のカウンターとして反撃する技の方が、消費技ポイントに対する攻撃力が高く、僕は槍の「かざぐるま」や大剣の「切り落とし」を(「デザートランス」や「鳳天舞の陣」という戦闘陣形と共に)好んで使っていました。
その一方で、発動形態はカウンター技と同じですが相手の攻撃を無効化するだけの回避技もあって、剣の「パリイ」がその代表なんですが、僕はこういう技を「カウンター技でも相手の攻撃を無効化できるのに、敢えて使う意味がない」と軽んじていました。
もちろん後者の方が基本的に成功確率が高いということはあるのですが、それにつけても、と。

ロマサガ3の武器は大別すると小剣・剣・大剣・斧・棍棒・槍・弓があって、それぞれの武器に固有の技があり、お金で買って身につける術と違って、戦闘中に閃くのはこちらの技です。
そして固有種の技は上記のほかにあと一つ、武器を持たない体術がある。
体術にはカウンター技の「カウンター」と回避技の「無刀取り」の両方があって、消費技ポイントは後者がグンと高い。
ゲームに熱中していた当時は「無刀取り」なんて閃いた瞬間に封印(つまり「お蔵入り」)していましたが、
今思うと「なるほどなあ…」という感慨があります。

バガボンド』(井上雄彦)を読んだ記憶によれば、柳生石舟斎だったかその師匠かが、その無刀取りの使い手だった。
打ちかかってくる敵の、その手からいつの間にか刀が消えて、はっと気づけば、今斬らんとした相手がすまし顔で手にしている。
奪い取ったその刀を使えば、素手の敵など容易に斬れようものですが、無刀取りの使い手にその気はなく、敵は戦意喪失して、斬り合いは終結する。
戦いなど、最初からなかったかのように。


「刀」は、現代でいえば「鎧」でもある。
相手に無防備をさらして傷つかぬよう、突然の中傷に耐えられるよう、幾重にも張り巡らせる、言葉の鎧、鈍感の鎧。
昔、vocaloidでこんな歌がありました。「対人武装」という。(→ニコニコ動画piapro

僕はある種の女性の化粧も武装だと思うんですが、女性側の見解は全く別にいろいろとあるのでしょうが、深入りはしませんが(先に言い訳)、少しだけ。
化粧の中には美人化を目指すものがあるはずで、それは没個性化でもあり、用途としては攻撃よりも防御の意味合いが圧倒的に大きいと思われる。
両者の見分けは僕にはほとんどつきませんが、女性が街中を歩く場合と、親しい人とプライベートな空間にいる場合とで違うはずで、きっと普段僕が目にするのはほとんど前者でしょう。
なんというか、それも、鏡なのですね。

己の身を固く守っている人の目前に立てば、自然と、自分がその人を攻撃しようとしているように思えてくる。
その人に対する自分の関心の有無にかかわらず。
対人の場とはそういうもので、それは複数の人が同じ場所に居合わせればその状況の意味に関係なくそこが対人の場であり、しかし、そうは思っていない人があまりにも増えている、というかそれが当たり前になっている。
テレビの家庭への普及が始まりで、スマホの普及がその「当たり前」を確固とさせたのだろうと思います。


話を戻しますが、「したくないことはしない」という話ですが、僕が人混みの多い場所に行きたくないのは、そういう理由からです。
そこは、「質の悪い対人の場」であるから。
自分のやりたいこと、魅力的なものが多くある場所でも、感度を落とさないとその場にいられないから。

「何をするか」ではなく「どうありたいか」という状態の志向を前提とした時、その場では現在が「未来への投資」へと否応なく変わる。
そして、それが許せる場合にだけそこにとどまる、ということになる。

いわば「妥協」であるこの認識は、習慣化すると簡単に失われる。
これが、感度の擦り切れ、鈍感化のメカニズムです。



一度、切りましょうか。
今年を振り返る…よりは、その振り返りが来年にどうつながっていくか、に興味があるので、そういう風に書ければいいですね。

「現在主義」と終末論、知と地と血

 壮大なる「時の知(chronosophie)」、予言と時代区分の混合、(…)普遍史の言説は、絶えず歴史につきまとってきた。未来への問いから生まれた、このような構成物は、その前提事項と同様、千差万別で(それらは総体的に、循環的にしろ、直線的にしろ、展望なるもの(ペルスペクティブ)を特権化していた)、根本的に過去と未来の諸関係を把握しようとするものであった。
(…)
 これらの筋立て(…)は、西洋史において非常に長きにわたり存在し、大きな影響力をもったが、こうした筋立てにおいて、古代・中世=中間の時代(Media Aetas)・近代という分割が、まずはルネサンス期の人文主義(ユマニスム)とともに行われた。そして、未来と進歩の開けは、終末の期待からいっそう分離していった。これは完成という理念の時間化による。この時、人は、過ぎ去ったものとして過去のみならず、現在をも過小評価するまでになった。現在とは、「輝かしい」わけではないにしてもより良い未来の前夜にほかならないのだから、犠牲にされうるし、そうあるべきだ、というわけである。

「序章」 p.36,38(フランソワ・アルトーグ『「歴史」の体制』)

文脈を汲み取った抜粋ができませんが、本書を読んでいて下線部に立ち止まり、意味が取りにくいと思って何度か読み直すうち、太字部の「行間」から言葉が浮かんできました。

終末論にはプロセスがない」という。


僕の読解ですが、抜粋文中の「終末の期待」とは、たとえば産業革命以前の思想を指します。
科学技術の発達、その段階的な進歩が視認できるほどの発達が、「完成」というものがある日突然神が宣告するようなものではなく、それに達する階梯が存在するものであるという認識をもたらした。
これを「完成という理念の時間化」と呼んでいるのだと思います。

抜粋後半、特に下線部以降は産業革命以後の価値観を表現していて、けれど現在は、そこからさらに先にいる。
それが本書副タイトルにある「現在主義」で、本章以後を読んでいくとそれが分かるのだろう、というのはまだ読んでいない僕の単なる想像です。


話を戻します。
僕は「終末」という単語に反応したのですが、「行間」に作用したもの、つまり連想のきっかけは何だろうと考えてみて、ここ数ヶ月再読を続けている『太陽を曳く馬』(高村薫)だと気づきました。

組織に倦んだ内省的な警察官、東京都心に僧坊を構える宗教者たち、それに科学主義的知性を手放さずに座り続ける副住職を交えた膨大な宗教論争の論点の一つに、オウム真理教が取り上げられています。
オウムとは何か、それは宗教なのか。

宗教によって生物学的死の無残から逃走するというとき、高木が言ったとおり、そこでは当然死が前提となっているし、その意味では、宗教は必ず人間の生物学的死の周りをめぐる言辞ではあります。然るに、オウムにそうした死への視線はあるか。彼らが目指した神秘体験やニルヴァーナの境地はいずれも現世拒否への表明ではあるが、あくまで今生で達するだけで、その眼差しは死にも、また死を通り抜けた彼岸にも届いていないと言うほかない。(…)しかし、彰閑和尚はさらにこう問うてこられたのです。すなわち、オウムが目指した不死はほんとうに不死と言えるだろうか、と。正確にはこれは不死ではなく、たんに究極の生き残りということではないか、と。不死には決定的に死が張りついているが、生き残りはどこまでも生き残りであり、生は生であって、そこでは死は、あくまで生き残る価値のない他者の死に留まり続けるのではないか。ただ無感覚なものとして、自分の外に累々と転がるだけではないのか
(…)
そもそも、この社会の平和と退屈の産物でしかなかったノストラダムスの終末予言ブームが、オウムではなぜ現実の世界破壊に具体化されるに至ったか。(…)オウムの場合、グルも信者も社会に対する強烈な疎外感がおおもとにあったと言われていますので、社会の全否定は比較的容易に起こりえたと考えられますが、問題は、全否定がなにゆえ皆殺しになるのか、です。いつの世でも宗教は戦争をしてきたけれども、殲滅思想をあらわにした宗教は一度たりとも存在したことがない。このことから、オウムが無差別大量殺人を説いたことには、聖なるものが発現するには俗なるものが死ななければならないという宗教の基本構造ではない、なにか別の仕組みを考えなければならないのは明らかだ、と彰閑和尚は言われたのでした。謂わば、生が虚構と直結してしまうような仕組み。いや、もっと言えば、生が自分のために死を必要としてしまうような仕組み──」

「第五章 僧侶たち」p.216-218高村薫『太陽を曳く馬(下)』新潮社)

オウム真理教が異常者の集団で、彼らが起こした事件は特異な一過性のものである、という楽観的な見方は当時にもあったようですが(今は「忘却」という意味で増えているかもしれません)、僕は、そうではなく彼らは当時の普通の日本人たちであり、一連の事件は社会の現代を映す鏡であった、という認識で書かれた本をいくつか読みました。
(いちばん記憶に残っているのは『アンダーグラウンド』(村上春樹)です。読んだ時に書いた文章を張っておきます)
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高村薫の文章をいま長々と抜粋して、ここに書かれているのは「現在主義の一形態」ではないか、と思いました。
社会にシステムとして埋め込まれた(「整備された」と言ってもいい)現在主義の、極端な発現の一形態。


先の「終末論にはプロセスがない」という言葉について。

ノストラダムスの大予言については、内容は知りませんが恐らく、誰が何をしようが何年何月何日に世界が破滅する(たとえば隕石が地球に衝突して)といったものでしょう。
その「必ずやってくる破滅の日」までの束の間のどんちゃん騒ぎが、日本各所で起きていたのかもしれません。

本当かしらと思いながら書くのですが、
「現在主義」に対する一つの解釈を与えるとして、
それは、
「現在主義」とは、"破滅の日"を永遠に先送りしながら意識し続けている態度・姿勢である
と考えてみる。

これは改めて考えてみれば突拍子もない話でもなくて、
たとえば"破滅の日"は、環境問題として実際に懸念されているものでもある。


…なにか、ここから話が一気に発散しそうなので止めておきます。
こういう時に残った「わだかまり」は詩として発散するのが良い手です。
少なくとも書き手にとっては、ということですが。

 × × ×

 知の蓄積、共有、効率的利用。
 知は地に降り注ぎ、蒸発を知らず、太陽なくして芽を育む。
 知の肉抜き、骨抜き、魂抜き。
 知は血を濃縮し、精製し、複製する。

 地なる知は風化し、血なる知は腐食する。
 知の蠢き、地殻の轟き。
 知の瞬き、鮮血の輝き。
 人知は、地なり、血なり。
 

境界の連想、ものさしの忘却

『歴史の体制』(フランソワ・アルトーグ)という本を読み始めました。

序章の終盤に「境界」という言葉が出てきて、なにかが繋がりました。
「この繋がり方には覚えがある」と思い、「岬」がタイトルに入った本を連想して、ブログ内で検索すると『境界領域への旅 岬からの社会学的探求』(新原道信)だとわかりました。

この本が今手元にないのが非常に惜しいのですが(岩手から大阪に来る時に処分してしまったようです)、連想した時に読んでいた文脈と似たことを抜粋してないかと思い、過去の記事をいくつか読みました。

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なんというか、これらを書いている時の精神状態などが想像されて、時の経過について考えさせられました。

内容に違和感がなくて、今の自分に同じような論調で書けないとも思うけれど、
それはこれらが「血肉化」したからだと思う。
きっと、ある面においては論理で納得する段階を越えて、
思想の基盤となり、自分の基本的な振る舞いにそれが現れるようになっている。

この経過に時間というものさしを当てようとして、測定不能であることを発見する。
ものさしは、変わらずここにある。
でも、ものさしを持つ者が変わって、目盛りの読み方を忘れている。
ものさしの目盛りが、なにかをわかった気にさせるものであったことを、忘れている。


とにかく、『境界領域への旅』を再読したいと思った次第です。

 × × ×

このようなこと、関心の持ち方、姿勢について、新原氏の本にも書かれていたはず。
そしてこの連想によって、僕がアルトーグ氏のこの本に「呼ばれた」ことに気づく。

現在の状況から導かれた省察は、絶えず現在の状況との間に距離をとり、そこによりよく立ち返るために時間を遠くにまで遡る。ただし、決して俯瞰的立場にいるという幻想に溺れずに。かつて私は、知的信条もしくは趣味から、限界、敷居、方向転換と回帰の契機、不協和を特権視し、「境界線をずらす運動」を選びとったことがあった
(…)
オデュッセウスに関しては、『オデュッセウスの記憶』という本を書いたが、これは古代世界における文化的境界について問うたものであり、私にとってオデュッセウスは、この展望を象徴する者である。最初の旅行者にして境界の人間でもあるオデュッセウスは、境界を設定し、自分の位置を見失う危険を冒しながら、境界を常に越え続ける者である

「序章 時の秩序・「歴史」の体制」p.47-48(フランソワ・アルトーグ『「歴史」の体制 現在主義と時間経験』伊藤綾=訳、藤原書店

 × × ×

歴史の体制 現在主義と時間経験

歴史の体制 現在主義と時間経験

境界領域への旅―岬からの社会学的探求

境界領域への旅―岬からの社会学的探求

謎の異交通 - free dialogue in vivo 6

 
 言葉が通じているかが不明。
 返事がない、ただの独り言のようだ。
 問いかけた同じ数の沈黙が降り積もる。
 それでもこちらは言葉にするしかない。

 問いかけを自分で聞いている。
 答えを想像することはない。
 沈黙に耳を澄ませる。
 問いの反響が仮想域に長く谺する。


 ふと閃きが訪れる。
 静寂の欠片が幽かな燐光を帯びる。
 意想外の出力が眼前に現象する。
 光の残像は熱の記憶を跡に残す。

 決意の刹那。
 意図に紛れ込む無形の呼び水。
 偶然と決然が必然を導く。
 情報の奔流、大河の一滴


 眠りと覚醒の常態。
 言葉の単交通からそう解釈せざるを得ない。
 同時に相手の目を仮想構築。
 宛らこちらは唄う水飲み鳥か。

 粒子であり波動であるもの。
 不定であり螺旋であるもの。
 次元は座標軸を失いメビウスと化し。
 連想は既成を無視し量子跳躍を試み。

非人称の明晰

 当事者でない人々にとって、白黒をつけることはメリットであるに違いない。それは社会が好コントロール装置だからである。たとえば、ハンチントン病を発症する可能性のある人々に対して、生命保険会社はどのように対処すべきか、という問題を考えてみればよい。保険会社にしてみれば、白黒をはっきりさせて、白ならばすっきり保険に加入してもらいたいし、黒ならば加入を拒否したいと思うだろう。物事はあいまいであるよりははっきりしている方が管理し易い。確実な知識、確実な予測は科学の欲望であると同時に、社会の欲望でもあるのだ

「不治の病を予測する」p.164(池田清彦『やがて消えゆく我が身なら』角川書店

『ウェクスラー家の選択』という本の紹介、というか解説の一節。
「好コントロール装置」というのは池田氏がよく使う表現で、その簡潔な説明もこの抜粋の中にあるが、僕が引っかかったのはそのあと、最後の一文だった。

すぐに二つの本の一節が連想され、それらとの関連について考えてみたくなった。
これを書くのは、書かなければ分からないからだ。

 明晰と呼ぶにふさわしい、すぐれた頭脳の持ち主は、古代世界全体で、おそらくふたりしかいないかった。テミストクレスカエサルであり、ふたりとも政治家である。一般に政治家は、著名な人も含めて、まさに愚かなゆえに政治家になるのだから、このことは驚くべきである。
 もちろん、ギリシアとローマには、多くの事柄について明晰な思想をもっていた人々──哲学者、数学者、博物学者──もあった。しかし、かれらの明晰さは科学的な次元の明晰さであり、いいかえれば、抽象的な事柄での明晰さである。科学の対象とするすべての事物はどれも抽象的であり、抽象的なものはつねに明快である。科学の明晰さは、それをつくる人の頭脳のなかよりも、かれらが語る事物のなかにある

「第二部 世界を支配する者はだれか」p.203-204(オルテガ『大衆の反逆』中公クラシックス

「肉体は生かすことができる。呼吸も鼓動も戻せる。体温もあり、血も通っている。不思議なものだ、脳の活動だけが、まだ完全にコントロールできない。やってみないとわからない。君は、どうしてだと思う?」
「いえ、わかりません。どうしてだと考えたこともありません。というよりも、コントロールできる方が不思議です。やってみないとわからない、というのは自然の大原則なのではありませんか?
工学者らしい投げやりな意見だ」ヴォッシュは微笑んだ。「しかし、それが本当のところかもしれないな。理論物理の世界にいると、不確定性さえも法則になる。すべてが計算で確率的に割り出せる世界なんだ。思うようにならないことは、まだ人知が及んでいないと信認する。理論を盲信したい。なにもかも確信したい」
メンデレーエフまでは、そうだったかもしれません。あるいは、アインシュタインまでは」

森博嗣『デボラ、眠っているのか?』講談社タイガ

まず、最初の抜粋に戻れば、「科学の欲望」なるものは存在しないと思ったのだった。
それは社会の欲望の反映であり、科学が社会で成立するために(=科学者という仕事で食っていけるように)社会が科学に背負わせた十字架なのだ。


オルテガのいう「科学の明晰さ」という言葉が、ここしばらく、ずっと頭に残っている。
これは、文脈のうえでは抽象性に結びつくが、ここで焦点をあてたいのは、非人称ということ。

複雑と観察される事象を、論理明快に展開し、解説できる。
誰かがその解説をしたとして、それが彼のオリジナルだったとしても、その明快さ、明晰さは彼の所属ではない。
彼は、「論理明快で頭脳明晰なツール」を用いたに過ぎない。
彼に特徴があるとすれば、そのツールの使用に習熟している点にしかない。
見方を変えれば、彼は伝道者であり、彼こそがツールなのだ。

「論理明快で頭脳明晰なツール」。
それをつくり上げたのは、人間だ。
でも、それができたことは、人間が明晰であることを必ずしも意味しない。

人間は、つねに未知に囲まれている。
現在とは、色褪せた過去と、霧深い未来にはさまれた、ほんの僅かな割れ目である。
狭くて身動きがとれず、暗くて見通しが悪い、不安定な足場。
人間がつくるものは、その未知が前提にある。
未知が創造の原動力である、ということだ。

そんな人間が苦心してつくり上げたものは、果たして既知といえるだろうか?
否、それもまた未知である。


非人称の明晰。
森博嗣のWシリーズ(Wはウォーカロンの頭文字)で、「人類の共通思考」と呼ばれるものも、その一つだ。
だがそれはSFで、現在に話を戻せば、歴史、学問、技術、その蓄積。

通常いわれる明晰さが人に属するのは、なぜだろうか?
その判断を人が行うからだろうか。
チェスや将棋で、AIが人間に勝利する。
高性能の、明晰な人工知能
その判定者は、価値を認定する者は、人間。

「非人称の明晰」は、人間の価値判断が及ばない領域にある、と思いつく。
どういうことか。

ある対象を評価できないということは、それが既知ではないことを意味する。
計れるものさしがない。度量衡がない。
が、ないのだが、なぜかしら「すごさ」を感じられる。
理由もわからず、敬意をもち、真摯に接しようとする。

そして結局、それは人間自身に還流してくる。

(…)そもそも、人工知能は人間のように私腹を肥やすとか、権力を欲しがるといった欲望を持たないはずだ。人間に比べれば、デフォルトが天使寄りなのである。
 それは、ウォーカロンでも同じだろう。皆素直で、正直に生きているではないか。
 そういった設計をしたのは人間なのだ。人間は、自分たちの至らなさを恥じ、もっと完璧な存在を目指して、コンピュータやウォーカロンを作った。その技術の初心を、忘れてはならないだろう。
 そうでもなければ、生命の価値が消えてしまう
 それでは、あまりにも恥ずかしい、と僕は思うのだ。

同上

「初心」を持つ者たちは、既にこの世にはいない。
けれど、「忘れて」しまったそれを「思い出す」ことができる。
これらの動詞は、どちらも非人称だ。


つまり、意識という生命活動が非人称なのだ。

 × × ×

大衆の反逆 (中公クラシックス)

大衆の反逆 (中公クラシックス)

やがて消えゆく我が身なら (角川ソフィア文庫)

やがて消えゆく我が身なら (角川ソフィア文庫)