human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

香辛料の国 1-7

 
 香を永遠に失った者は、月と縁が切れる。湖は止まり、波立たない理想鏡であるはずの水面に、何も映らない。
 色を吸収し尽くし返さない者を、風はすり抜ける。彼の周りで流れは淀み、その一点へ向けて、生死の定かでない薄まりは異世界への扉を思わせる。
 消失は、我々と、どのような関係にあるのか。

「絵はね、描くあいだの時間がねえ、不思議なんだよ」
「たとえば、どう不思議なのですか?」
「描こうとしてやると、何も出てこないんだ。んん、べつに何かは出てくるけれどさ、それはつまらないというかね、『ああ、いつもの時間だなあ』っていう印象」
「描くことに集中している時間の流れ方は、普段と違う、と?」
「そう言ったよ」
「すみません。こういった芸術に対する理解には疎くてですね」
「で? フェンネルくんには全く興味のないはずの僕に、なにが聞きたいわけ?」
「いえいえ、そんなことはありません。ローズマリー画伯の存在も、感性も、もちろん作品も、僕の関心を刺激して止まないことは確かです。ただ僕自身の日常からあまりに遠いところにおられるので、なかなか近づく機会に恵まれず、ついつい縁遠くなってしまうのです」
「同じこと、もっかい言わせる気?」
「……。ある友人が僕に手紙を送ってきまして、そこに『絵は香色を失った者に似ている』とあったのです。これは単純に、無機物に生の形象を定着させても有機物にはなり得ない、という形而下的事実の表現ではなく、もっと深い意味があるのではと考えたのですが、思考がこのスタート地点から進まなくて、どうしたものかと悩んでいるのです。それで、実際に絵をお描きになる画伯に、ぜひご意見を伺いたいと思ったのです」
「ふうん。君の友人が、なにを見てそんなことを言ったのか、気になるけれどねえ」
「たしか、水平線を境界にして赤と青が一面に塗られた巨大な絵だと言っていました」
「それを見て死を連想した、と。なるほどねえ。きっと彼は死と近しい仕事なり生活なりをしてるんだね」
「よくお分かりで。…それで、どう思われますか?」
「そうだな。僕らは皆、例外なく香をまとい、色を備えているだろう? それが僕らのいる世界で、だから香色を失った者は、僕らとは別の世界に属するはず。論理的にはそうで、しかし実際そう断言できないのは、その者は消化されていない、つまり香色の有無を除けば僕らと同じ存在だからだ。有機性は失われたが無機物とは言い切れず、僕らの世界の幽かな名残がある。僕らはその者を見て生を感じるのではなく、生を連想する。思い出す、と言ってもいいな」
「絵を見ても、それと同じ連想をする、と?」
「焦るな。絵を描いていて、時間が不思議な流れ方をすると言っただろう。絵に関わる行為はこれと同じ、つまり見ていても同じ。時間が止まるのではない、日常とはどこかしら異質に流れる。そう、たとえばな、動こうとする力と止まろうとする力が拮抗した状態を想像すればいい。物体は止まっている、しかしその静止は無負荷ではなく複負荷の相殺によって実現されている。彼は目を閉じて瞑想に耽っているように見える、しかし彼の内には衷心と憎悪が坩堝の中で煮え滾っている」
「おっしゃることはなんとなく分かります。が、しかし絵を見ている時の連想と、死を前にしての連想が、同じ質のものとは思えないのですが」
「死そのものは静謐だ。しかし死に対する者は静謐ではいられない。絵も同じだ」
「…それは、なぜでしょうか?」
「取り込まれるからだ。皆それを恐れる。静謐を望み、憧れはしても、いざ生身をその前に晒せば、生身が本能的に反抗し、それを恐怖として意識に上らせる。逆から言えば、日常にありふれているはずの死は見聞に過ぎず、静謐は完全に隠れ、デトキシフィケートされて恐怖は跡形もない。そうして平和を隙間なく築き上げていくほど、カタストロフは想定の外から突然やってくる」
「…なるほど。貴重なお話、ありがとうございました」
「ふん。ああそうだ、君のその友人に言っておくといい。赤と青を混ぜて紫になるのは、思い込みに過ぎんとな。色は勘違いの賜物だと」

 結局、我々はその目に映した対象に成り代わる存在なのだろう。意図に関わらず相手に乗り移り、性懲りもなくオートマティックにトレースする。とはいえ、意識は生の不可逆識閾下にあり、物理的発露なしに下剋上は成立しない。恐怖が意識を柔弱足らしめるとはいえ、入寂足るには至らない。
 きっと、その先がある。
 死を水面に映し、異世界から吹く風に晒されながら臨む静謐の、その先。

言葉の青海、類語の泡沫

久しぶりに「Cool Japanese」のタグ記事です。

言葉の意味を調べるのに、国語辞典よりは類語辞典をよく調べるのですが、それは正確な意味を調べたいのではなく、類語と比べてニュアンスを確かめたいという意図があります。
厳密に論理的な文章を書きたいというよりは、単語が元の意味から外れて使うことになっても(それが読み手を警戒させたり、ミスリードすることになっても)、その言葉遣いを自分がする、文章として定着させることで生じる「なにか」への関心を重視する。


ま、それはいいんですが、そういう経緯で類語を調べる際、ときに膨大な類語表現に遭遇することがあり、そのたびに本来の目的を棚に上げて感心することになります。

ある事象を指示する表現の多様さは、その事象に対する文化的・歴史的な視野の深さを表してもいます。
そしてこのことは、その事象に対する理解が「一筋縄ではいかない」ことも示唆します。

脳死の定義のように、行政や法の執行のために断言しなければならない事情もありますが、そういう事情がないところでは、つまり僕らの日常的な思考が、それに従うことが必ずしも常識であるとは限りません。

どう言えばいいのか、こういう「深さ」を前にして、つい立ち止まってしまう、手を止めて、耳を澄ませる。
そのようにして、なにか囁きのようなものが、聴こえてくるのを待つ。

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Physics Research with Quantum Purple 2/n

 × × ×

──初期のコンセプトとして、「身体と脳を仲良くさせる」というのがあったんです。養老孟司先生がいうように現代は脳化社会ですから、仕事をしていても、街に出ても家にいても、使うのは脳ばっかりですよね。身体は補助的な役割しかなくて、脳の制御を外れて、つまり何も考えずに無心に身体を動かすなんて機会は、子どもですら滅多になくなっている。「子どもは自然だ」というのも養老先生の言葉なんですけど、その本来性が生まれ落ちて直ちに封印されてしまう社会システムになっている。それはさておき、社会がどうなろうが、人間はどこまで行っても身体であって、つまり自然です。脳の活動があって、他人がそこに意識を見いだせれば、身体がなくてもそれは人間だ、たとえば脳だけ別の場所に設置して身体は遠隔操作で動かすことができて、人がその操作対象を人間と信じて疑わないという状況は実現可能だと、これは石黒浩教授の近著にあって、販促上反則的なタイトルのなんですけどそれはよくて、森博嗣ミステリィに実際こんなSFがあるんですよね。アンドロイド、これ小説内ではウォーカロン、自律歩行型つまりWalk Aloneって呼ばれてるんですけど、ウォーカロンを引き連れた主人公が拳銃で目を撃ち抜かれて、万事休す、と思いきや彼とウォーカロンとの電信会話は続いていて、というのも主人公の脳がウォーカロンの胴体に埋め込まれていて、彼の身体はウォーカロンによって無線でコントロールされていたからなんです。僕これ学生時代に一度読んでたんですけど、最近再読した時にこの部分覚えてなくて、「斬新だなあ」って思ったんですよ。いやあ、忘れるって幸せなことですよね。ん? なんの話でしたっけ。……そう、いつか身体を必要としない人間が誕生したり、それが当たり前になったりすることも技術的には可能で、でもそうは言っても今の僕らには身体がありますから、それに脳もその身体の一部としてあるわけですから、自分の身体を無視するわけにはいかない。脳は身体を無視してぐるぐると思考しているように見えますが、じつは意識の外で身体の影響を受けている。その事実は知っていて、でも知らないふりをしようとしてしまうのが脳なんですね。で、知らないふり、精神分析的には抑圧といいますけど、これは何事につけてもあまりよくないことで、意識下の対象を抑圧すると、抑圧した時とは別の形で、すぐ先のことか遠い未来かは分からないが、仕返しにやってくる。「別の形」がどんな形かは分からない。その対象が意識の外で活動していたものであればなおさら、戻ってくる「別の形」は想像を絶するものになる。怖い話です。そもそもそういう余計なことを考えるから不安になるのであって、最初に無視したんだからそのまま無視しつづければいいじゃないか、という意見もあって、それももっともで、というか社会的にはそれが常識になっていますが、うん、まあズバッと端折れば、僕はそれはよくないと思っています。話を……だいぶ逸れたところを戻せば、脳化社会で身体を活性化、これ僕は「賦活」と言うのが好きなんですが、まあ身体を賦活するためには、それなりの工夫がいるのです。こういうことを真面目に考えるようになったのは、内田樹先生の著書に出会ってからのことで、最初に読んだ教育関係のでいろいろ衝撃を受けたのを未だに覚えていますが、内田先生は合気道をやっておられて、武術研究家の甲野善紀先生とか、介護に古武術を活かす試みをされている岡田慎一郎さんとか、身体に深く関わる仕事をされている方々の本も、内田先生の著書を通じて読むようになりました。僕は今言った方々の本を読んで武道に興味を持って、いつかどこかで実際に始められればなあとずっと思っていて、そうは言いながら、前にいた会社に合気道サークルがあって、直属の上司もやっていて誘われもしたのに結局やらなくて、その時は「必ずしも世間で活動している武道のすべてが身体性の賦活を目的としたものではない」という言い訳を持っていたと思いますが、それは一理あって、確かに甲野先生の剣道観が剣道界では異端だったり、ラグビーやバスケットで武道的な動きが実戦的に活かせることを実地に示しても拒否感をもつスポーツ選手が一定数いる、という話を読んだりもしていたのです。ここでいう武道的な身体運用というのは、身体各部の筋肉をつけて体を鍛えて局所的な出力を増強するのではなくて、鰯の群れの方向転換で喩えられるように全身を協調させる動きを目指すもので、甲野先生の思想が受け入れられないのはスポーツ界の常識が前者で長年やってきたからだと書かれていました。そういった、僕が興味深く読んできた身体に関わる本の記述内容が、どちらかといえば世間的には異端であるという認識が、僕の身の回りにあった自分がやりたがっていたはずの活動への参加に二の足を踏ませていたように思います。今話していて、ボルダリングを始めた時に「武道的な思想をボルダリングに活かしてみよう」と思ったのも同じ理由が絡んでいたのかもしれません。つまり、単純に興味があったからやってみた、応用を検討してみたというだけでなく、スポーツと呼ばれている活動を自分がやりたいように取り組むには、どこかしら異端的な発想を持ち込まねばならないのではないか、と。
──ホンマに長いですね。実はまだ、本題に入ってないんと違います?
──えーと、どうなんでしょう。
──わからんのかいな(怒)

 × × ×

Physics Research with Quantum Purple 1/n

「ダメだよ、そのスニーカー。ダメだってことは保証します」
 なぜ、果物屋が自信ありげに他人のスニーカーを評するのか。
「ハズレですな、そいつは」
 たしかに「現品限り四十%オフ。しかも箱なし」というのを買ってきたのだが、四十%オフになっていなかった段階では、それなりの値が付いていた。現に履き心地はすこぶる良いし作りだって悪くない。私だってかれこれ四十年あまりスニーカーを履いてきたのだ。良いか悪いかくらいは分かる。が、小倉君は「いけませんな、ソイツは」と派手なシャツと裏腹に、妙に老成した物言いで腕を組んだ。
「それ、ひもがほどけ散るでしょう?」

吉田篤弘『圏外へ』

 × × ×

「今日はね、なんばの方へ行ってきたんですよ。なんばにもジムあります。"Gravity Research"、『重力研究』って、カッコいい名前の店なんですけど、その下にアウトドアショップがあって、靴も買えるんです」
「へえー、大正だけやないんですね」
「いろいろありますよ、市内には。まあ西区から一番近いのは大正のジムやし、他のビル街にあるジムと違って上に広々してるんで、通うんやったら僕はそこをオススメします」
「たしか岩手で始めはったんですよね。どれくらいになるんですか?」
「そですね、去年の夏前に引っ越して、司書講習が始まる前に始めたんで、1年半近くですね。1年と、4ヶ月くらいかな」
「なんかきっかけはあったんですか?」
「いや、もともと興味はあって、今まで機会がなかっただけなんですよ。岩手に引っ越して、ふと近所になんかないかなって探したら、ちょうど去年できたばっかのジムが隣の市にあったんですね。車ないと生活でけへん地域なんで中古車買ってたし、そのジムは講習受ける大学と同じ方面にあったんで、これは通えるなあ思たんですね。週6で朝から夕方まで講義で、まあ座学も多いし体動かさんとようないなあ思てたところやったんで、そしたらもう生活として始めてみようと」
「はあー。スポーツやってはらへんかったのに、できるもんなんですね」
「ええ。一般的にはニュースポーツとして大人だけやなく子どもらにも普及してますけど、僕はスポーツやないという認識でやってます」
「それは、言わはったように"生活として"ていうことですよね。他の人と競うんやなくて、自分の健康のためにやる、っていう感じですか?」
「端的にいえばそんな感じですね。ただシンプルに健康を目指してるというわけでもなくて、この辺のところはちゃんと言葉にしとかなあかんなあと普段から感じてるところなんですが」
「あ、ちょっとニュアンスちゃうんですね。その詳しいとこ、教えてもろてもええですか?」
「うーんと、時間かかりますよ?」
「かまいません」
「えーと、整理できてないんで、話が支離滅裂になるかもですけど」
「んなもんかまへんがな、もう」
「さいですか。では…」

 × × ×

昨日は朝にガレーラに行くと貸切対応中で入れなかったので、自転車で出てきたその足でなんばのGRへ行ってきました。
GRなんばは初めてでしたが、岡山へ行った時に会員カードを作ってはいました。
登ったあとに、すぐ下の好日山荘でシューズを見ていて、各メーカの旧モデル展示品がOUTLET価格で売られていたんですが、5.10のレースアップで見事にピッタリサイズのものに出会いました。
pump.ocnk.net
今は2足目ハイアングル(5.10)と3足目フューチュラ(スポルティバ)を使い分けてるんですが、ハイアングルのソールが削れて中の生地が露出し始めていて、修理キットでなんとかしのいでいる状態です。
これまで3種類使ってきて(1足目はスカルパ・フォース)、登りやすさよりはフィット感と足裏感覚を重視したいなという理想が見えてきましたが(本当は、登れるもんなら裸足で登りたい)、同時に消耗が激しいので次はなるべく低価格にしようと思っていました。
昨日見つけた旧モデルのクァンタムは、ステルスのラバーで足裏は硬そうでしたが、レースアップの効果でフィット感は抜群でした。
そして試し履きの段階で、多少きついが苦労しなくても履ける程度のサイズ感は、既に足に馴染んでいるかのよう。
ハイアングルの経験から、靴を使い込んで前後にはあまり伸びないのではとの思いもあり(フューチュラも右に同じ。逆にフォースはソールに穴が開いた最終盤はサイズもけっこう大きくなっていました)、使い込みによる今後の馴染み方も期待できそうです。

その、ラバー硬め以外は理想通りのクァンタムは「四十%オフ。しかも箱なし」で、「四十%オフになっていなかった段階では、それなりの値が付いてい」て、「現に履き心地はすこぶる良いし作りだって悪くない」、こらまさにその通りやがな、とさっき読んでいて出会った箇所をつい抜粋してしまいました。

が、ダメではありません。
ハズレでも、ありません(確信)。
たとえ「ひもがほどけ散る」としても。
たぶん。

 × × ×

香辛料の国 1-6

 
 文字のない本。ページを開けば広がるのは白紙ばかり、ではない。我々は紙の上のそれを、普通の本と同様に読むことができる。ただそれは、文字ではない。たとえば僕が、それを見る。読む。その本のあるページは、すると僕に問いかけてくる。僕はその本に対する応答を迫られる。それは解答ではない。もちろん反射でもなく、それらのあいだに位置する反応を促される。その応答がすなわち、次のページへ伸びる手の一連の動きである。我々はその本と対話をする。ただその本には、文字が書かれていない。

「きっと、文字通りの意味を持ってはいないのだろうね?」セージはいつも明晰だ。
「そうなんだ、たぶん。文字がなくとも絵はあるのだろう、とか、そういったシンプルなことでもないんだ」たぶん、と繰り返す言葉を飲み込む。
「ふむ。…どこか遠くの、いくつか境界を越えた先に『絵のない絵本』というものがあるそうだね。何か関係があるんじゃないのかな」
「ああ、それは僕も聞いたことがある。その話の中で、登場者は月に導かれて絵のない絵本を読むんだ。自分が描く絵のひとつひとつが物語を語る、そういう話だったと思う」
「主人公は絵かきで、彼が描く絵が集まって絵本になるのかい? それのどこが『絵のない絵本』なんだ? 月の存在も気になるけれど」
「いや、詳しくは知らない。ただ『絵のない絵本』は絵本ではなく小説なんだ。普通の絵本には少なくとも絵があるけれど、絵がなくたって十分に絵本として機能する、そういうことがあるとすれば、その本は小説であると同時に絵本でもある。誰かがそう言っていたのを聞いた覚えがある」
「そうだな。"そういうこと"は多分にありそうだ。絵と文字は全くの別物でもないからね。きっとその小説は、文字によって絵を描いているのだろう。そして月はその手助けをしているのだろうな。月は我々に限らず、あらゆる生命の意識下に神秘的な作用を施す存在だ」
「うん。そして絵と文字の重なりは、絵本と小説の重なりでもある」
「それで?」
「うん?」
「話を戻すけど、結局君の言う『文字のない本』とは結局何なんだ?」
「うーん。『絵のない絵本』のことを念頭におけば、”文字はないが普通の本と同様に本として機能する本”ということになるのだけれど」
「抽象的だね。なにか、言語の違いとか論理能力の差に左右されない、ある種の普遍性を備えた本ということかな? これも抽象的な言い方だが」
「そういう性質はエスペラントというらしいね。境界を跨いだ争いを根絶させる志向を持つようだけれど、跨いだことそれ自体を疑わない姿勢には問題があると思う。いや、そうではなくて…うん、そういうことでもないんだ」
「大体それ、どこで聞いたんだ? …フェンネルか?」
「うーん、鋭いね」

 我々は本を読む存在であり、本は我々に読まれる存在である。誰もがそう信じ、それを疑問に思うこともない。ただ、我々が鏡であることを思い起こせば、明朗活発な常識にも一抹の翳りが見える。

 鏡は非生命である。一方、生命を宿す鏡としての我々は、魔法を身に帯びる。世に言うマジックミラーだ。僕が明るく光を発せば、相手には僕が見える。僕が昏く静まり返れば、相手は僕を媒介して相手自身の姿を目にする。僕も相手も闇を抱えたまま向き合えば、雁首揃えて覗き込むは、果ての知れぬ深淵。
 本は生命である。つまり普通の本は、我々と同様に魔術的な鏡である。「文字のない本」は、そうではない。それはいわば、純粋な鏡である。我々は鏡と対話するようにそれと対話する。では我々は、「文字のない本」を読むことで自分自身と対話しているのだろうか? 否。

「それ」には、自分には見えない自分が書かれている。純粋に鏡的でありながら鏡ではない「それ」は、我々が纏う魔法を撥ね返し、魔法同士を干渉させる。これが、世に言うカオスだ。

家の葬式、曲の葬送

 
 ──「家の葬式」のことを、前にちらりとおっしゃっていましたよね。
 ──はい。我々建築家は、家を新しく建てる場面に比べて、家を解体撤去する場面に立ち会うことが圧倒的に少ないのです。近頃はリフォームやリノベーションが流行しておりますが、世間の建築家に対するイメージは大方、「新しく建てる仕事をする人」に留まっていると思われます。しかし、人口はピークを既に過ぎ、空き家が増加し続けている現代には、「家の終いのお世話」がもっと必要になってきます。いえ、それは希望的観測で、必要になるべきだ、というのが正直なところですが。じっさい、賃貸マンションや貸家に住む人はもとより、分譲マンションに住んでいる人ても、マンションそのものがその人の所有物ではないのだから、自分が長年生活してきた家の最期を看取るという発想には、至らないのが普通です。持ち家に住む人であってすら、その傾向に大差はありません。建てたのは自分ではないから、家で育てた子どもは都会へ出てしまうから、取り壊す費用がすぐに捻出できないから、等々、いろいろな理由が幅を利かせている結果が、全国的に存在する大量の空き家という現状なのです。
 ──家の葬式というニーズが、出てきそうで出てきていない、ということですか?
 ──いえ、きっとニーズはあるのだと思います。そして、そのような世話ができ、実際にしてきた建築家のもとへは、そのような依頼が寄せられているのです。細々と、だとは思いますが。
 ──なるほど、そういう話でしたか。僕は「家の葬式」という言葉をその内容も知らずに聞いて、ある別の連想をしていたのです。
 ──それは、どのような内容のものですか?
 ──同じように言えば、「歌の葬式」となるでしょうか。あるいは、葬送曲という言葉を念頭において「曲の葬送」と表現してもかまいません。歌は、いやもっと広く音楽は、僕らのあらゆる生活場面で背景を飾り、また時に前景として映えることで、僕らを励まし、癒やし、楽しませてくれますよね。その点で、音楽は無償の愛のような存在だと言えるかもしれない。音楽は僕らに何も求めず、それでいて多くを、とても多くを与えてくれる。そして音楽には流行があり、ある時代には世界中で同じ一つの歌が流され、同時的に異国の人々が同じ曲を耳にすることがある。また、そのように世界を席巻していた音楽が、次の年にはぱたりと止み、現実の空気を震わせることなく、人々の頭の片隅に追いやられ、次第にその残響も薄れていき、最初からそのような音楽は存在すらしなかったと、年鑑を見たり、往年のヒットチャートを振り返る特番をテレビで見たりしない人間は、それを信じて疑わないといったことにもなる。今言ってみて気付きましたが、このテレビ特番はある意味で、かつて流行した歌の葬式とみなすことができます。
 ──なるほど。
 ──でも僕が言おうとしたのは、個人の中でのこと、非常に私的な事情のレベルでのことで、かつて自分にとても大きな影響を与えた、暇があれば家のCDコンポやウォームマンで繰り返し再生し、歌の歌詞を暗唱できるほど自分のものにし、歌詞の意味が自分の生活と密接に結びついて、今の自分の存在を、あるいは自分と親しい人との関係をこの歌が象徴している、肯定している、そういった自分と一体化していたと言ってもいいほどの歌が、あるちょっとしたきっかけで、友達とケンカした、恋人と別れた、仕事が忙しくなった、そう、本当にどうでもいいような些細なことが原因で、その歌のことが念頭からぽろりと転がり落ちる、忘れてしまうと言わないまでも、自分の中でその歌が響かなくなる、他の歌と同じように「いい歌だけど、ただそれだけ」という、口にする機会もないが敢えて言えばそう評価できる、といったような位置づけに成り下がる。こういうことは、よくあります。日常的な現象とすらいえます。
 ──そうですね。意識されないだけで、本当によくあることだと思います。
 ──そしてこれは、よくよく考えてみれば、親友に知らせずに遠くへ引っ越したり、説明もなく挨拶すらせず恋人のもとを去るようなものです。かつて自分を励まし、高めてくれたものに対する感謝の念が、ここにはありません。完全に失われている。忘れるというのは本来、そういうことかもしれません。そして、忘れた頃に、本当に久しぶりに、そのかつての歌を、偶然の機会かなにかで耳にしたときに、懐かしいなとは思って、それが感謝の念に結びつくということは、あまり多くはないと思います。……なぜ多くないのか。それはきっと、儀式がなかったからなのです。
 ──儀式、ですか。
 ──そうです。「ああ、この歌は昔によく聴いたな、懐かしいな。あの頃は良かったな」、こういう感想は、まず感謝ではない。「あの歌に自分はいつも励まされていたな。実際にいい曲だし、俺にはことさら、自分のことを歌っているように思えたものだ。いや、当時にあの歌に出会えて本当に良かった」、たとえばこういう述懐が、稀にある感謝の念が込もっていると言えますが、これは実は、儀式にまでは至っていません。遠くに去っていく、あるいは去ったそれを、親しげに見つめ、あるいは感無量の涙とともに心を注いでいても、その彼は、ただそこに、今彼がいる場所にぼうっと突っ立っているだけなのです。目は閉じられているかもしれない、でも、手は合わせられていない。その手は無為に垂れ下がったままでいるか、生活のために忙しく動いている。
 ──はい。
 ──僕が思うのは、きっと、いや、「ここ」でかは分かりません、適切なタイミングについては考えていませんが、「手を合わせる」ことが必要なのではないか、ということです。身振りで示す。自分がそれを、すべきだと思った人に対してするのと同じように、音楽に対しても。そして、その身振りによって、かつて自分の一部のようですらあったその歌は、頭の片隅に追いやられるのではなく、また新たな形で、自分の一部となるのです。儀式によって忘れないということではなく、昔のように熱心に聴かなくなるのだから、頭の中をメロディの一部がふと流れるようなことがなくなり、その存在自体を忘れてしまうことはもちろんある。ただそれは、たとえば、日中オフィスで忙しく立ち回っている時に、自分の足の爪や十二指腸の存在を忘れるのと同じことなのです。その存在を明確に知覚することなく、あるいは知覚できないくらい自然に、自分の一部となる。音楽という、形を持たないもの、波動として鼓膜を震わせはするが跡形もなく消え去る、経時的でありながら瞬間的でもある存在、そのような音楽が、無時間性という虚無を脱して、身体に定着する。そのような儀式の存在を、ふと思い浮かべてみたのです。
 ──そうですね。葬式というのは通常、「形のあるもの」に対する儀式ですが、その同じ身振りを無形物に対して行うことで、その「形のないもの」が何かを獲得する、ということはあると思います。その何かは、今おっしゃられたことについては、歌が獲得するのか、それとも貴方が獲得されるのか、どちらになるのでしょうか?
 ──難しい質問ですね。その「何か」とは何なのか、とも思いますが、それはどちらとも言えないのではないでしょうか。
 ──どちらでもない。……その答えから導かれるに、その「何か」とは、「関係」ではないでしょうか?
 ──ああ、その通りですね。さすがです。関係を手に入れるのは、その関係者の誰でもなく、敢えて言うなら、関係そのものですからね。
 ──所有の概念が曖昧になるところが、その概念の限界を表してもいるのですね。

 × × ×

 僕がその曲をもう聴きたくないと思ったのは、そのメロディーを耳にすると島本さんのことを思い出してしまうからというような理由からではなかった。それはもう以前ほどには僕の心を打たなくなったのだ。どうしてかはわからない。でも僕がかつてその音楽の中に見いだしていた特別な何かは、既にそこから消えてしまっていた。僕が長いあいだその音楽に託し続けてきたある種の心持ちのようなものはもう失われてしまっていた。それは相変わらず美しい音楽だった。でもそれだけだった。そして僕はもうその何かの亡骸のような美しいメロディーを、何度も何度も繰り返して聴きたいとは思わなかった。

村上春樹国境の南、太陽の西』 太字は文中傍点部

香辛料の国 1-1

 
 透明の理想。感覚に夾雑物がなく、思考が研ぎ澄まされた状態。圏外から流入する全てを許し、境界の内側から生み出される全てを受け入れる。生きていること以外に興味がなく、すなわち生命の存続に拘りがない。混じり合い、溶解し、呑み込まれ、分解される。香は色を失い、座標を失い、無に漂う。
 香の煌めきは時間の狭間に由来する、色の華やかさが儚さに由来するように。瞬間と永遠のあいだ、そのいずれよりも脆弱で、可能性に充ちた狭間。「目にすれば失い、口にすれば果てる」、これは禁止ではなく、観察された事実に過ぎない。我々は失われて初めてその存在に気付き、朽ちた姿を前に祈り呟く。
 生命とは祈りであり、廃墟とは消えない蜃気楼である。

「やあ、フェンネル」彼方から声が近づいてくる。
「こんにちは、セージ」
「今日は、どうだ?」
「まずまずだね」
「このところ、界隈の空気が濁っている感じがする。会うたびに同じことを言っている気がするが」
「そうだね。仕方ないことだけれど」
「いや、そう早々に諦めるものではない。我々は空気を享受するだけではなく、わずかながら空気に介入している。我々は空気がなくては生命が続かないが、空気は我々の存在に関知しないと割り切れるものではない。空気は我々が理解している以上に、未知な現象だ」
「そうかもしれない。空気の成分を厳密に測定したり、その時間経過を図式化したりして、なにか相手を把握した気になっているけれど、それは僕らが勝手にそう決めつけているだけのことだからね」
 セージは中空の一点を見つめている。遠くには青い空が無辺に広がっているが、彼の関心は空よりは幾分か手前にあるらしい。
「空が暗くなり始める頃に注意した方がいい。これも挨拶のようなものだが」
「そうだね。ありがとう」
 風のように出会う我々は、擦れ合いすれ違うその一瞬に、濃密な時を経る。

 考えてはいけないことは、何もない。空気のことも、星と月のことも、「瞬発」のことも、あるいは生命の意味についても。僕は考える。けれどそれを誰とも共有することができない。僕も相手も、それを共有したところで何の益もないからだ。僕の思考が深まるわけでもないし、誰かの寂しさが紛れるわけでもない。お互いに相手の求めるものを持っていないし、仮にあったとして、僕に提供する気があるのかどうかも怪しい。相手が眼中にない者同士が一緒にいて、碌な事が起こらないのは火を見るより明らかだ。そんな場を想像すると、いっそのこと焼失してしまいたいと思いたくなる。
 そんな時、燃えて灰になるのはいつも僕で、相手ではない。なぜなら、秩序はつねに我々を泡の内側に抱え込む一方、自覚は界面をすり抜けて泡の外部にその顔を晒すからだ。秩序はそれと意識されてはならない、秩序はそう考えている。だが、意識されてはならないことなど何もない、そうではないだろうか?

 我々のあいだには、一緒にいるべきではない関係というものがあるに違いない(それは関係と呼べないかもしれないが、ある2つの存在の相対位置を比較するうえで、広義にはそう呼んでもよいだろう)。お互いに相手が見える位置にいると、本領が発揮できない。相性の悪い関係、いうなれば、その存在自体がlose-loseな関係。
 それなのに、そういう間柄の者たちが一つの空間に詰め込まれ、無作為に選ばれ、近接を強要される。その場に素敵な出会いが生まれることが稀にあるが、そういう僥倖を除いたほとんどの機会は、僕をひどく落胆させるものだった。この強要の意味は何か、ここに何らかの法則性が見出せないか、酷い目に遭うたびに僕は考えずにはいられなかった。そしてその時に見つけた意味や法則性は、最初は輝きをもって僕を励ましてくれたが、やがて光は弱まり、その力を失っていった。

 それでも僕は考えることを止めたことはないし、止めようと思ったこともない。
 秘密は解き明かさねばならない。

香辛料の国 1-5

 
 存在するものを共有できる人数は限られている。しかし、存在しないものを共有する人数には、限りがない。これは、その価値や重要性とは関係がない。ただそれが、存在するか、しないかの違いだけだ。
 けれど、その「ないもの」を、あるように見せることができる者がいる。無形物に輪郭を与える者、あるいは、自らその「ないもの」の具現化となる者。この現象には、物理法則が介在しない。無から有が生まれ、一が瞬くうちに百となる。
 彼は、何になったのだろうか。何になろうとしているのだろうか。

「やあ、シナモン。この間の集まりは楽しかったかい」
「ええ。あの時は初めからずっと和やかで、みんな嬉しそうで、私も幸せだったわ」
「君もウーシャンフェンも、よく立ち回っていたよ。あの場が大成功に収まったのは君たちのおかげだね」
「そんなことない。フェンネルだって、すみっこの方でひそひそ話をしていたけれど、周りにずっと気を配ってくれていたのは遠目に見て分かっていたのよ。どこかで喧嘩でも起これば、駆けつけて仲裁してやらなくちゃっていう目つきをしていたわ」
「それは買いかぶり過ぎだな。僕はそんなにお節介じゃない。会場の隅にいたのは、密度の高いエリアで背後を晒すのが嫌だったからだし、気を配っていたのではなくて、たんに観察していただけだ」
「照れる必要はないのよ。ああいう集まりに普段なかなか出ないあなたが来て、楽しんでくれたのが何よりだわ。また次にも、来てくれるかしら?」
「たぶん。前も言ったけれど、気が向けばね。今回は楽しかったから、また次も出るかもしれない。ところでシナモン、君はいつも誰かと一緒にいるようだけれど、独りでいる時間はあるのかい」
「…そうね、改めて考えてみると、そんな暇は無きに等しいわね。そばに誰かがいれば必ずやることがあるし、誰かのために行動することが好きだからじゃないかしら」
「うん、それは僕もわかるよ、君はいま君が自分のことを表現した通りに僕には見える。ただ、ずっとコミュニケーションし続けるのは疲れないかい? 君みたいにいつでも全力を尽くすには、それ相応の充電時間を必要とするように思えるんだけど」
フェンネルは孤独が好きだからそういう風に見えるのよ。独りでゆっくり考えたり本を読む時間が休憩で、みんなの前に出て混じり合うことを仕事だって言うんでしょ。でもね、あなたのようなタイプはたぶん珍しいほうだわ。私だって極端だけれど、それでも、調合が元気の源だというのは常識の部類に入るんじゃないかしら」
「その通りだと思う。僕らは誰であれ、単独では十全に力が発揮できない。それぞれの個性が、混ざり合うためにあるものだからね。僕も自分が異端だとは自覚している。ただ君を見るといつも、もう少しゆっくりしたり、休む時間をとった方がいいんじゃないかとつい思ってしまうんだ。だからこれは独り言のようなものだね。気にしなくていい」
「ありがとう。フェンネルは優しいのね。あなたの忠告、大切にするわ」

 個性が反応する対象は個性だと考えてみる。一般性は媒介にしかなりえず、個性がまっすぐ一般性に向かうことはできない。いや、できない、という表現は妙かもしれない。目指すことはできるのだ。決して叶わない夢を見て、それを一心に追い続けることができるように。
 ただ、ある個性が一般性を目指すとき、別の個性はその媒介に成り下がる。一般性をひたむきに見つめる彼の目は、相手の目をまっすぐとらえながら、その光は妖しく乾きを帯び、焦点は相手を突き抜けた遥か彼方に設定される。すぐ近くにいるようで、とても遠くにいるように思える存在。
 そして我々は鏡であり、焦点の合わない目と向き合う僕の存在は、希薄になっていく。あるいは彼と僕の存在密度が、反比例的に変化していく。それはとてもつらいことだ。一緒に薄くなるのはまだいい。彼が濃くなるごとに、僕は薄くなっていくのだ。そして彼はここにはいない。
 僕はどこにいるのだろうか? 僕は、どこに行くのだろうか?

桐野夏生とタカラヅカ

 
「姐さんは桐野夏生をご存知ですか。……ね、あの人の小説すごいですよね。重いというか、ズシッとくるというか。僕は『OUT』を最初に読んだんですけど、いや、食事中に話すのもアレなんですけど、死体を切り刻む描写にウッときて……そうそう、弁当屋の工場の。……"村"? あー、たぶんわかります。読んだことないですけど。あの、書評で何度か見たことがあって……ああ、村山由佳。そうそう。……へえ、似てるんですか? どう違うんですか?……胸が悪くなる。うーん、そうですね、キリノ小説はちょっと違いますね。なんというか、いろいろ悲惨なんですけど、「それでも私は生きていく」っていう強さというのか、こう、生命力に溢れてますよね。僕にとっては梨木香歩とは別の、かなり別な意味で、女性の未知な領域を教えてくれますね。……え? うーん、あれハッピーエンドですか? まあ、人生の新しい道を切り開いてく、っていう終わり方は前向きですけど、ハッピー、とは違うような。……ふーん、そうなんですかね。いや、その、宝塚からなんで桐野夏生が出てきたのかというと、姐さんがいうように、どっちも「女性のリアル」に絡んでるんだろうなというのは一つあって。でも思ったのはですね、タカラヅカは「女性の理想の物語だ」っていう評論をどこかで読んだことがあって、橋本治だったかな。まああの人なんでも書くからだいたい彼だってことにしちゃうんですけど…えーと、その、宝塚って「リアリティ無限大のアクチュアリティゼロ」なんですよ。「パンが無ければ」ってあるじゃないですか……あ、あれが「ベルばら」か。その、マリー・アントワネットだって、「可哀想…」だとか感情移入したり、なんか一悶着あったらすぐ決闘だとか……え、オスカルもアンドレも? へえ。そう、まあその劇的なドラマに現実性なんてカケラもないんですけど、でも観てる女性が感動するのは、そのドラマの何かが観客の頭の中にピッタリ嵌まるからですよね。そのぴったりフィット感がリアリティというわけで、でアクチュアリティってのは、一言でいえば身体感覚ですね。身体感覚に基づく現実感というか。……ね、決闘にそんなもんありゃせんでしょう。「カッコいい!」って思えるのも同じことで……それで、ここからが勘所なんですけど、キリノ小説は「アクチュアリティ無限大」なんです。まあ無限大ってのは大げさで、比べたから言ってるだけですが。小説ってふつう、リアリティに訴えるものですよね。文字は身体性のない抽象的なものなんで、構造的にその方がやりやすいから。でも桐野夏生はアクチュアリティに訴える小説を書けるわけですよ。殺人の場面なんてミステリーなら「常識です」って感じであるし……そうそう、「人の死なないミステリー」なんて妙なジャンル考えたもんですよね。あれPCと関係あるんですかね。……その、拳銃で撃つにしても、頭に当たって目玉が飛び出るとか脳漿が飛び散るとか、そういうのをリアルな描写っていうんでしょうけど、それは「想像力豊か」ってやつで、やっぱりリアリティの方なんですね。それがあの、風呂場でノコギリ持って工場仲間の死体の腕切り始めて、骨に達した時のガリガリっていう抵抗だとか、これって読んでて想像したら、想像から実感がはみ出てくるでしょう。僕学生の時にこれ読んで、しばらく食欲なくしましたからね……これがアクチュアリティだと思うんです。たぶん。……姐さん平気ですね。さすが年の功(笑)……うーん。そうですね。例えばちょっと…手貸してください。…こう、握るじゃないですか。男性と女性がディナーの席で手を重ね合わせる、なんてシチュエーションは、心ときめくものがありますよね。これがリアリティ。で、でも実際に手をとった時に、肌の接触から得られる情報がいっぱいあるわけですよ。肌の弾力とか、あれ、なんか見た目以上にカサカサしてるなとか……いえいえ、一般論ですよ? Don't take in personal. まあ今のはさすがに無理ありますけど。いやいや、すみません……でその、例えば相手の手の、他には指の長さとか血管の出方だとか、そういうマテリアル方面への興味を、アクチュアリティの一つだと考えていいと思います。今夜の食事会を会う前に想像する場合と、実際にその席で起こった場合とだったら、想像する方がリアリティの強度出ますよね。同じ場面を小説で読むならなおさら。……え? うーんと、だから「タカラヅカのアクチュアリティ」とは何かっていうところに興味があるなって話に……なりませんか。すみません。…なんか話してるうちにふと、リアリティとアクチュアリティの区別って、男性的な発想なのかなって。男にとって後者は得難いというか、身近でないんですよね。妄想で生きていけるってのもリアリティに偏ってる証拠で。じゃあ女性はどうなのかっていうのが……うん、ちょっと考えてみてくださいよ、せっかくなんで。明日タカラヅカ観ながら。…冗談です、はい。……ええ、シンシャさんにもよろしく。きっと感動すると思いますよ。これが日本のB級カルチャーなはずがないわ! って。知りませんけど」

脳の新陳代謝、雲を食べること

国境の南、太陽の西』(村上春樹)を読んでいて、ふと「脳と身体の新陳代謝」というキーワードが浮かんできました。
ある一つの場面に対して連想が始まって考え込み、しばらく立ち止まってから読む方に戻り、また別の場面で先の連想に対する反応がある(連想の繰り返しというよりは、先の連想がその別の場面によって導かれたその続きが見えてくる)。

 × × ×

脳と身体はその動作、刺激に対する反応などの傾向が異なる。
ある視点で見れば、真逆だ、と言ってもいい。
だから脳と身体を抱えて生きていく人間には、根本的な矛盾が内在している。
矛盾がどうしようもなく深いところに複雑怪奇な根を張り巡らせているので、無理のない方針として、その矛盾を解消するのではなく、共存する、なだめすかしたり、時には見て見ぬふりをしながらもその存在を常に感じながら生きていく。

ある状態や状況が、どれほど心地よく、快適で、非の打ち所がないとしても、その状態や状況がそのままずっと続くうちに、だんだんと、取るに足りない些細な場所から、少しずつ具合が悪くなってくる。
長く続いていた状態が良いものであるほど、その維持の努力の裏でひっそりと起こる変化に気付くことができない(気付かないことも「努力」に含まれている)。
変化は起こるのが自然だと認識し、自分から起こす場合もあるが、ひとりでに起きたように思われた際には、それをまっすぐ見つめ、分析し、あるいは大きくとらえて、「流れ」に乗るかどうかの判断を下す。


身体は、自身が意志を持って、ある特定の方向に変わっていく、ということがない。
台風に意志がなく、ハチに意志がないように、人間の身体にも意志はない。
(意志は「あるといえばある」もので、「ハチには意志がある」と思えるなら、そこから「台風にも意志がある」と思うところまでそう遠くはない)

活性化と減衰は身体のマクロレベルでは成長と老化であり、その波は空間的に大小のスケールで振動し(身体各部から細胞の一つひとつまで)、また時間的にも同じく長短入り交じる周期で展開している(人体の八十年、細胞の三日)。

波の周期が様々なら、振幅も様々である。
たとえば風邪は、中期的な周期の、中程度の振幅の波の下方極値点である。
(波の比喩とは、具体的には正弦波を想定しているが、風邪のプロセスが波の下に凸の領域に該当するとして、ではそれに対応する上に凸の領域があるかといえば、ほぼないか、前者よりは明確に認識できない。変曲点より上側は、もっと無秩序な、周期も振幅も安定しないものなのではないか)


脳は、身体と反対に、自然に変化していくということがない。
これは脳の働きについて言えることで、つまり生理的には脳は変化していくが、機能的に脳はその変化を認識することがない、逆に言えば、脳が脳自身の(身体としての)変化を認識しないことは脳の重要な機能の一つである。
脳が変化をとらえるのは、自然に相対してのこと、いちばん身近では自分の身体が変化していくのを目の当たりにするからである。
脳は、身体を見て、自分も身体であることを思い出す。
それは脳にとって、面倒な作業、できれば避けて通りたいことだ。

脳は計算をする、いまだけでなく明日も来月も十年後も生きるために計画を立てるが、その目的は計画の成就ではなく、計画そのものである。
たとえば、脳にとっては、明日や来月の予定を立てるのは、昨日や先月の出来事を振り返るのと、そう違いはない。どちらも、脳が今現在機能していることに変わりがないから。
人間には意志があり、夢があり、その達成や成就に向けて努力するものだという建前は、人間の物語というよりは、脳の方便である。
身体は、その意志や夢に従事を促され、あるいは活かされることもあるが、本来は、身体はその意志や夢とは何の関係もない。


雲が、ふわりと甘そうで、食べたいと思って手を伸ばしても、掴めない。
届きそうでも実際は届かないし、届くようになっても実際はその手は空を切ることになる。
近づきすぎて当初の形を失った雲を吸い込んで「ああ、美味しい」と思う、雲を食べるとはそういうことである。

 脳の新陳代謝とは何か。

雲を食べたいと思うなら、その観察を怠らないこと。
手を伸ばす前に、自分と雲の間にあるものに考えを巡らすこと。
なぜ自分は雲を食べてみたいと思ったか。

それは、他ならぬ雲でなければいけないか。
それは、晴れた朝の雲か、夕焼けに重なる雲か。
それは、都会を歩く街並みを見上げる雲か、山に薄くかかった雲か。

雲はいつも、空にある。
いつもと同じように、またいつもとは違うように見える。
雲は儚くも、永遠の生を謳歌するようにも見える。


 雲は、脳とどこか違うところが、あるのだろうか。

 × × ×

僕はとにかく自分を忙しくすることに神経を集中した。僕は前よりももっと頻繁にプールに通った。毎朝のように休みなしで二千メートル近くを泳いだ。そしてそのあとで階上のジムでウェイトリフティングをやった。一週間ほどで筋肉が悲鳴を上げはじめた。信号待ちをしているときに左脚が攣って、しばらくクラッチを踏むことができなくなったくらいだ。でもやがて僕の筋肉はその運動量を当然なものとして受け入れていった。そのようなハードワークは僕に余計なことを考える余裕を与えなかったし、毎日しっかりと体を動かすことは、日常的なレヴェルでの集中力を与えてくれた。僕はぼんやりと時間を過ごすことを避けた。どんなことをするときでもいつも集中してやるように努力した。顔を洗うときは真剣に顔を洗ったし、音楽を聴くときは真剣に音楽を聴いた。実際のところそうしないことにはうまく生きていけなかったのだ。

村上春樹国境の南、太陽の西