human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「身の丈の必要」を探る思想について

前の続きです。
無名性、象徴、役割、そういったものに関して。
そして新たなトピックとして、自給に関して。

 × × ×

kurahate22.hatenablog.com

自給について、いろいろな表現が試みられたturumuraさんの記事のなかで、
いくつか、僕に合うものがありました(記事の中でスターをつけたもの)。
これらについて連ねてみたい言葉については、後で書くかもしれません。

 ・自律的なものに出会う方法。
 ・備わるものを生かすこと。流れを掴むこと。
 ・あるものにゆだねること。主体になること。
 ・必要を知り、必要に応じること。探り、確かめていくこと。

僕は一般にいう自給自足の生活をしていません。
畑もなく、自分でなにかを作って糧を得ているわけではない。
でも、「身の丈の必要性」を知ろうとし、それに従う生活をしています。
それは自給生活をすれば自ずと(必要にせまられる形で)実現するはずのものです。

僕においては「自ずと」ではなく、つまり意思に基づいている。
その、生活中の個々の行動を導く意思は、思想に基づいている。
そうしないと実現できないから、そうしている。
そしておそらくそうしたいから、そうしている。

 × × ×

人間関係の、象徴や無名性との関わりについて考えています。
生活に自ずと生じる人間関係には、象徴や無名性がついてくる。
言い換えると、そこに個性は、表立っては出てこない。
「個性と個性のぶつかり合い」と表現されるような人間関係は、
人間関係のための人間関係のことを指している。

家族の関わりは複雑で、おそらく両者を含むと思います。
後者の例として…
いや、サービス業やサークル活動がその例だと思ったのですが、
これらも、両者を含みますね。
前者の例として、近所付き合い、学校や職場の交友関係など、
と…これらも、両者を含みます。

どんな人間関係にも上に分けて書いたものの両面性をもっていて、
その比重が変わるとすれば、関係の深さと相関するのではないか。
これは比較的単純な考え方で、それが当てはまることも多いけれど、
たぶん僕は、このようではない場面、について考えようとしています。


話は変わりますが橋本治という人はとても個性的な作家で、
しかし彼の文章には驚くほどの普遍性がある。
ものを書くことは、人に伝える文章を書くことで、
自分だけで閉じない文章はもちろん必然的に、普遍性の獲得を目指す。

「個が普遍に至る」という表現を氏について何度も使ったことがあって、
けれどそれは「個性的であり過ぎて普遍に行き着く」なのか、
「個性的であることを超えてはじめて普遍へ至る」なのか。
この2つの違いもわかりにくいですが、
おそらく後者には、どこかで質的な変化がある。
そして後者の現象には、
個性と、無名性あるいは象徴との作用が、関係している。

いや、身体性という側面を忘れていました。
身体は、各個で異なりながら、同じである。
「異なる=同じではない」とは脳の判断で(大きさ、美観、等々)、
身体にとっては、ほかの身体に対して同じも違うもなく、
これに対する脳の妥協的解釈が「同じ」となる。
(たとえば、生理的側面、各身体部位の機能性、等々)
この、身体の「同じ」という側面が、そのまま普遍性につながる
言葉とは脳が操るもので(と常識的には思われていて)、
しかし身体が言葉を語れば、あるいはそういう状況を脳が導ければ、
彼の語る言葉は普遍性を獲得する

「無名性」と「象徴」を並列して使ってきたので今自分で混乱していますが、
身体はまず(上記の「同じ」という側面において)無名性を帯びている。
…今思ったのですが、
「象徴」は、脳を身体につなげる「なにか」を指すのではないか。
あるものの「象徴」といった時、その意味を言葉にして解説はできても、
「象徴」が指すのは、そのあるものの言葉にならないなにかをも含んでいる


話を人間関係に戻しますが、
「個性を伴わない人間関係」というものが、
現代では重きを置かれなくなっているのではないか
とふと思います。
上で触れた比較的単純な考え方からすれば、それは「浅い関係」だからです。
でも、そうとは限らない。
つまり、それは本当に「浅い」のか?

僕の関心の話ですが、
おそらく言葉でよく考えるようになってから(=読書が生活になってから)、
自分が関係をもつ人に、なにかしら普遍性を見出す*1ようになりました。
それで、最近の経験もあって、
「個性と個性がぶつかる関係」と上に書きましたが、これは言い換えると
「個性が執拗に問われる関係」でもあって、これがつまり
「個性を伴わない人間関係」の対極にある関係で、…

なんだろう、急にくだけるんですけど、
「そればっかりだと、つまんなくない?」
と思います。

 × × ×

さいきん何が言いたいのかわからない文章ばかりです(それは別にかまいませんが)。
そして新たなトピックと書いた「自給」の話が未だ出てきません。
唐突なれどそれをこの記事に登場させたからにはつながりがあるはずです。
という見込みが「知性への信頼」で、そのために頑張らねばなりません。


直感で書きますが、
「個性を伴わない人間関係」は、身の丈感覚(志向)と関係があります
それは、その逆を考えるとなんとなくわかります。

人が個性に拘れるようになったのは、身の丈の必要性が満たされたからです。
生きるのに汲々としていれば、個性にかかずらう余裕なんてない。
その時は、象徴的であっても、それを言葉にする必要はなかった。
(「象徴的」と言っているのは、現代の視点からです)


「貧乏を知っているアジアは、発展ではなく"貧乏の豊かさ"を示すべきだ」
みたいなことを広告時評でハシモト氏は言っていますが、
過去に経験したある状況があって、その状況に「戻る」という時に、
なにもかもそのまま「昔と同じ」にはなれない。
物資的な充実を知ってから貧乏に戻るには、
思想をたずさえて行かねばならない。
その思想は「知っている」からこそ構築できるし、そうせざるを得ない。

身の丈の必要がとうに満たされた現代の日本社会で、
その必要をあらためて探るためには思想が「必要」である

と、すぐ上に書いたことを個人レベルで言い換えるとこうなります。

 × × ×

turumuraさんのブログから抜粋した言葉を再掲します(一部太字化)。
以下に書くことはもちろん、この言葉を僕が吸収した上でのことです。
スターをつけたのは、これらを「自分の中に吸収できる」と思ったからです。

 ・自律的なものに出会う方法。
 ・備わるものを生かすこと。流れを掴むこと。
 ・あるものにゆだねること。主体になること。
 ・必要を知り、必要に応じること。探り、確かめていくこと。

ここにある「必要」とは、「身の丈の必要」のことだと解釈します。

「自律的なもの」は、本記事でこれまで書いてきたことを踏まえると、
「現代日本社会で身の丈感覚の維持を助ける"なにか"」を指します。
ある人物かもしれないし、考え方かもしれないし、畑仕事かもしれない。
それに出会えれば、自分は「自律」できる。
それに出会う方法がわかれば、自分以外の人の「自律」を助けることができる。

「備わるもの」。
この言葉からすぐ連想したのは「ブリコラージュ」です。
「器用仕事」と訳されるレヴィ=ストロース(『悲しき熱帯』)のこの言葉は、
内田樹氏のざっくばらんな言い換えだと「ありものでなんとかする」。
つまり「備わるもの」=「ありもの」です。が、
「ありもの」が具体的に何を指すかが、現代ではとても難しい。
便利な世の中で、(自分にとっての)「ありもの」の吟味をすること、
これは上に書いた思想=生活思想の大きな仕事の一つです

 

*1:本記事をいちど書き上げて読み返している間に思いついたのですが、これは畑仕事をしている時に感じる「大地とつながる」のメタファではないかと思います。すごいですね、これ。

灯台守の無名性について

灯台守、センチネル、ゲートキーパ。
これも非常に興味のあるテーマです。

 鳥検番はペラル山脈にあるシシナン山のふもとに住んでいた。鳥はそのペラル山脈を越えてやってくる。鳥検番は、そういう鳥を動かし、気象を左右する力があると言われ、町の人々から怖れられていた。この世の人間として付き合うにはあまりにあの世に近づいていたからである。それでも鳥検番がいないければ鳥の統率がとれなくなる。鳥の統率がとれなくなるということは、あの世の魑魅魍魎が野放しになるようなものである。人々にとって、それ以上の恐怖はなかった。それで当番制を組み、鳥検番には定期的に食物が運ばれ、彼の仕事に滞りが起きないよう、協力する慣わしだった。鳥検番になるものは、捨て子の出自を持つ者と決まっていた。無名性が重要だったのだ。捨て子の資格なら、ピスタチオに勝るものはいなかった。

梨木香歩『ピスタチオ』

これは「物語の中の物語」からの抜粋です。
前に自分が書いたもの↓を読み返してから、
どうも「物語の中の物語」の方が物語よりも現実に近いような気がしていて、
自然と本書の「本編」とは読む姿勢が変わっていました。
cheechoff.syoyu.net

それはさておき、この「鳥検番」も灯台守の一種、
つまり「集団の内と外の境界にいて集団を守る番人」です。
読んでいて灯台守という言葉が最初に浮かんだのは、
前に読んだ同じく梨木氏の小説『沼地のある森を抜けて』の中の物語に、
この役目を担う生き物(たしか人ではなかったような…)が出てきたからです。

そして、下線を引きましたが、この鳥検番という役目の説明の中にある
「無名性」という言葉がなぜか周りから浮き上がって見えたために、
なにかを書こうと思ったのが本記事の動機です。


無名性は、匿名性とは違います。
匿名性においては、名前がない(名前を隠す)ことは、
手段、あるいは特定の機能を果たすための性質でしかありません。
無名性は、それとは違うのか。
それを、今書きながら考えています。

個性が表にあらわれない、この点は両者で共通している。
…この書き方は正確でないかもしれない。
匿名性は、個性が消されていることで機能を発揮する。
無名性は、個性が、人に宿るのではなく、役割に宿る

上の抜粋部を噛み締めているうちに連想した『海辺のカフカ』がヒントになりました。

 やがて二人の兵隊が僕の前に姿を見せる。
 二人とも旧帝国軍の野戦用軍服を着ている。(…)彼らは二人並んで平べったい岩の上に腰をおろしている。戦闘の姿勢はとっていない。三八式歩兵銃は足もとに立てかけられている。
(…)
「僕がここにやってくるのはわかっていたんですね?」
「もちろん」とがっしりしたほうが言う。
「我々はここでずっと番をしているから、誰が来るかはちゃんとわかる。我々は森の一部みたいなもんだから」ともうひとりが言う。
「つまり、ここが入口なんだ」とがっしりしたほうが言う。「そして俺たち二人がここの番をしている

村上春樹海辺のカフカ(下)』

カフカ少年が四国の森を徒手空拳になって、奥深く進んでゆく場面。
二人の兵隊が、ゲートキーパとして登場する。
その彼らはこんなことを言う。

「どうして我々がいまだにこんな重い鉄のかたまりをかついでいるのか、君は不思議に思うかもしれない」と背の高いほうが振りかえって僕に声をかける。「なんの役にもたたないのにね。だいたい弾丸だって入っちゃいないんだ」
「つまり、これはしるしなんだ」とがっしりしたほうが僕のほうを見ずに言う。「俺たちが離れてきたものの、あとに残してきたもののしるしなんだ」
象徴というのは大切なものだ」と背の高いほうが言う。「我々はたまたま銃をもって、こんな兵隊の服を着ているから、ここでもまた歩哨みたいな役を引きうけている。役割。それも象徴がみちびいているものだ
「あんたはなにかそういうものをもっているか? しるしになるようなものを」とがっしりした方が言う。

同上

役割を、象徴がみちびく。

二人の兵隊はこのような会話の最後に、ことのついでのように名前を尋ねる。
「田村カフカ」という少年の答えには、「変わった名前だ」という感想がひとつだけ。
無名の兵隊は名乗らず、過客の名前にも頓着しない。

鳥検番において無名性が重要であることと、同じことを言っている、ように見える。


「無名性」というキーワードが念頭にある中で「物語の中の物語」を読み進めて、
出会って驚いた言葉がありました。
これはどういうことだろう、よくわからないが、知りたい、と思う。

 次にパイパーは、鳥の本当の名前を、探し出すように言った。鳥には秘かに隠し持つ本当の名前が──それは「ヒヨドリ」というような群れの名前ではなく、その個体の持つ名前なのである──あり、それが見抜ければ、その鳥と鳥検番の間には見えない糸のような関係性が生じる。そうなれば、鳥の首に操り糸をかけたようなものだ。群れ全体を動かしたいと思うときは、群れの名前の向こうに、一羽一羽の鳥の名前が浮かび上がるように念じる。

梨木香歩『ピスタチオ』

「本当の名前」を知って動物を操るという話は、『ゲド戦記』にもあったと記憶します。
たしかその「本当の名前」は古代言語で表され、ゲドはそれを師について学ぶという。
思いついて書きましたが、これも関係するかはわかりません。

抜粋中のパイパーは、「物語の中の物語」の主人公ピスタチオが弟子入りする鳥検番です。
そのパイパーが、ピスタチオに鳥検番の技術を教えている場面です。

「無名性」を背負う鳥検番が、「本当の名前」を探す
僕が驚いたのは、この…何といえばいいのか(論理?)、これです。


どういうことだろう…と思考の糸口を探していて、
ふと内田樹氏が浮かんできました。

氏は長く神戸女学院大の教授をやって、教育に携わってきたこともあり、
氏のブログにはよく「センチネル」「歩哨」といった言葉が出てきます。
今ではウチダ氏自身が教育界、あるいは社会常識における灯台守の役目を
担っていると、出版界からの期待もあり、また自認もしているかもしれません。

そんな氏が、だいぶ前に、孔子の特徴だったか思想だったかについて、
述べて作らず」と表現したことがありました。
孔子の書き物のオリジナリティは自身にはなく、先賢にある
そしてこれはウチダ氏自身の著作にも当てはまります。
(たしかこんな話が『日本辺境論』のまえがきに書いてあったかもしれません)


オリジナリティは、個性と言い換えてよい。
個性が存在せず、しかしそこに物事を動かす力が宿ることがある。
 しかし?
 …「だからこそ」?
 物事を動かす?
 …正確に言い直せば、「境界を守る」、「基盤(土台)を支える」。

象徴を備えた役割の無名性が、境界を守り、集団を支える

話がつながったような、
ぐるぐる回っているような…

 × × ×

結局なにが言えたのかもよくわかりませんが、
最後にもう一箇所だけ『ピスタチオ』から抜粋しておきます。
海辺のカフカ』の抜粋中の兵隊の言葉である
 「我々は森の一部みたいなもんだから
と、共鳴していると感じました。

この抜粋は、物語本編の主人公のライター「棚」についての記述です。
ライターだった彼女が、「流れ」に導かれ、物語を書くようになる。
物語を書く者も、現実と物語の境界にいる。

小さい頃から気象の変化に興味があった上に、空の広いケニアに滞在して、大気の状況に自分の体がダイレクトに反応することに、文字通り他人事ではない興味を覚えたのだった。
 あの頃、風に流れる雲が、地上のあらゆる物へと同じように自分の上にも影を落とし、移動していくのがよく分かった。そしてまた次の雲が通過していくのも。その微妙な温度変化や風の質の変化が、草にも土にも自分にも、すべて「平等に」起こっていることに恍惚となり、このまま溶けてしまいそうだと思った瞬間、自分が何かの一部であることが分かった。自分は、何か、ではなく、何か、の部分なのだと。部分であるからには全体とのバランスのなかに生きればいい

「意識を伴う生態系」について

調和 、あるいは、
秩序 について。あるいは、
生態系 について。具体的には、
一人の中の生態系 について。

 × × ×

 「下手な本を読むと体を壊す」──このことから敷延[ママ]して、「悪い影響力を批判なしに受け入れていると、いつか"しゃべる"という機能に障害が起こる──体がいやがって、激しくセキ込んで体を二つに折るような状態になる」──このことが私の結論でございますね。つまり五月や六月に私が会った、「やたらとセキが出る」系の人々はみんな、「言いたいことが言えない病」だったというわけです。
(…)
「言いたいことが言えない病」の原因は三つあって、一つは、「自分の言うべきことを保留にしとかなけりゃいけない状態が長く続く」ですね。私はこれでした。もう一つは、「言いたいことはあるが、どう言っていいか分からないから言えない」で、残る一つは、「言いたいことを言い出すだけの根性がない」ですね。後の二つは私には関係ないけど、「世間にある」ということに勝手にしてしまった「言いたいことが言えない病」は、この三つの原因がからみ合って出来てるんだと思います。

「なんだか「あとがき」じみた、この巻の終わり」p.491-492(橋本治『ああでもなく こうでもなく』マドラ出版)

調和とか秩序とかいうキーワードがずっと念頭にあって、
その核はマーク・ストランドの詩のタイトルなんですが、
("Keeping Things Whole"、邦題は「物事を崩さぬために」)
最近読む本はどれもこのことがテーマにあるように思えます。

調和、秩序のスケール(想定される場の大きさ)はいろいろありますが、
ここでは自分、一人の人間をそのフィールドとして考えようとしています。


自分の話ですが、
抜粋書を再読していると「いかに自分が橋本治氏に影響されてきたか」がよくわかり、
「いまの自分はこういう考え方をしているな」という記述の発見がその第一ですが、
勉強になる、こういう考え方もあるのか、と思って読む部分が多々あるなかで、
あらためて感心したその思考内容を探るとそれがもう既に自分の中にあったりする、
ということもあります。

抜粋した中の下線部「言いたいことが言えない病」の原理について、
 この段落に書いてあることはそのまま僕も同じだなと思い、
 自分は「保留にし」たくなくて、自分に「根性が」あったから、
 最近よく書いてる「ある関係」がああいう終わり方をしたんですがそれはさておき、
書きたい衝動に従って書くということもこの原理に従ったもので、
もちろんそこには「書きたいけどまあ今はいいか」と思うことも含まれている。

本は読むために読むが、読み終えるために読むわけではない。
読書の時間を惜しんで書きたい(考えたい)ことを書かないのは、
読む本に期限が切られている(つまり図書館で借りている)ことがその理由で、
社会的にまっとうな考え方ではありますが、
こういうことをしていると、
知らぬうちに「読み終えること」が読むことの目標になっていく。
たとえばそれは、
小説を読み終える時にその終わりを惜しむ感覚を薄めてしまうかもしれない。
(これは今思いついたことで、そう実感したことはまだありませんが)


秩序の話に戻りますが、
書きたいことをすぐ書く、あるいはあとで書こうと保留する、
このどちらもが、それぞれ相応の作用を自分にもたらす、
これらすべてが秩序の中に含まれている、
あるいは秩序の中で起こる(起こっている)こと、
であるとして、
この「秩序」という言葉がやけに静的に響くと思ったとき、
「生態系」という言い換えを思いつきました。

一人の人間の、思考、意識の営みについて考えていて、
その流れに「生態系」という表現をもってくると、
なにやら不思議な感覚におちいります。
自分がしたいからそうする、するとその行動に伴った出力が表れる、
そういった行為や結果が、もとは主体性や予測に基づいていたはずが、
そういうものとは違う、それらを超えたなにかに従っているようである。

「意識を伴う生態系」…。

弱肉強食のピラミッド構造、エコロジカルニッチ、
そういった用語と結びつく本来の生態系と、
「意識の有無」を捨象すれば等しいのではないか、
という妄想が膨らんできました。


そういう目で、以下の「自然の"意外な"一面」を眺めるとき、
(自然に「意外性」があるという、その自然とは?)
「意識を伴う生態系」の秩序(←?)について、
なにかヒントが得られるかもしれません。

これは自分に対するアドバイスですが。

棚は、公園の池の、渡り遅れたオナガガモが、最近他種の鳥と群れをつくっていることを話した。
──混群、というのは面白いですねえ。
──カラ類でも、シジュウカラエナガ、コガラやなんかが群れをつくるし、どうかすると、キツツキの仲間のコゲラなんかもその群れに混じることがあります。同じ大きさということなんだろうけど。この間テレビで見た、アフリカのヌーの群れの中にも、シマウマやトムソンガゼルなんかが結構混じっているんです。自分たちが偶蹄目であるって、知ってるわけでもないでしょうに。
──なにか、大きな仲間意識があるのかもしれませんね。
──それで、その草原に、寝そべっているライオンの群れもいたんです。ヌーたちも、ライオンたちが今、狩りモードにないってことが分かっているかのようにリラックスしていて、みんな、気持ち良さそうに、草や木の葉をなびかせている同じ風に目を細めているんです。ヌーたちも、ライオンたちも。陽の光で、草もきらきら光って。それを見てると、ライオンすら、ヌーの群れの一部みたいに思えてきました。

梨木香歩『ピスタチオ』

別の次元の「つきあい」、もう一つのフィルタ ─ ある関係の始終についての演繹的思考 (3)

 ──ねえ。人って不思議なものね。生きている間は、ほとんど忘れていたのに、死んでから初めて始まる人間関係っていうものがあるのね。
 ──海里のこと?
 ──まあね。あなただから言うけど、その人が死んでくれて初めて、その人をトータルな「人間」として、全人的にかかわれるようになる気がする。生きているときより、死んでから、本当に始まる「何か」がある気がする。別の次元の「つきあい」が始まるのね、きっと。あなた風に言えば、「咀嚼」できるっていうか。

梨木香歩『ピスタチオ』

前↓に「記憶の供養」と書いたが、それとも繫がるかもしれない。
このことは後で触れる、かもしれない。

cheechoff.hatenadiary.jp

 × × ×

 人が死ぬと、その人とはもう二度と会えない。
 その人を目の前にすることが、全く不可能になる。
 生きていれば、まだその可能性はある。
 いかなる事情が、その人と自分とを引き離しているのであれ。

という考え方が「死の絶対性」であるが、
目の前にありうることは、ある面における重要性でしかない。
抜粋部を読んで、そのことにあらためて気付かされた。
本読みとして十分に認識していたはずが、ある経験に適用できなかった自分に。


ある期間に深く関係した人と会えなくなる。
その関係が、現実的なその関係が濃密であればこそ、
会えなくなることで、関係が絶たれた、なくなったと思う。
その喪失感に圧倒されて、「なくなった関係」について考えることを、
未練があると思い、それが後悔や自己批判の堂々巡りを引き起こす。

「記憶の供養」と僕が書いた時、僕は、
比喩的に「その関係の記憶」自身が変化を欲していると考えた。
そして恐らく、供養が適えば、記憶は鎮まる、
具体的には顕在意識に現れなくなると考えた。
そしてその時点で、
いや、そうではなく、
記憶となった時点で「その関係」はなくなったと考えたはずだ。

でも、そうではないかもしれない。
あるいは、それだけではないかもしれない。

記憶でしかなくなった関係は、そのあり方を変えたのだ
梨木氏のいう、”別の次元の「つきあい」”が「生じた」ともいえる。
そしてその「つきあい」が未だ存在することは、
僕にとって可能性なのだ。
…抽象的すぎるので違う表現を探してみる。


"別の次元の「つきあい」"は、変化する。
現実的な関係はもう存在しないのに、変化する。
この現実的な関係がもたらす入力は、
"別の次元の「つきあい」"に対する唯一の入力ではない。
そう考えてしまうのは、上述の「ある面における重要性」を重く見過ぎるためだ。

梨木氏はこうも言う。
 "その人をトータルな「人間」として、全人的にかかわれるようになる気がする"
これは、単に「盲目的、近視眼的でなくなる」というだけではない。
冷静になって客観的に考えられるようになることだけを意味しない。

少し遠いところからこれを表現すれば、
その人の目で見ることができる」ようになる、といえないか。

自分がある場面に立ち会ったり、ある事件を見聞きした時に、
「あの人ならこれをどう考えるだろうか」
と想像することがある。
この「あの人」とは、一方的に憧れていた現実の知人であったり、
その思考に感化されて私淑するようになった著述家だったりする。
梨木氏の言葉に、どこか、この想像と似たようなところを感じる

「記憶の供養」について書いた記事の書き出しに、
なにかにつけてその人のことを思い出すと書いた。
この現象を「未練」というフィルタをかけて解釈すれば、
過去を悔やみ、反省し、あるいは現実的な関係の再構築を望んでいる、
という意識を自分の中に見出すことになる。
しかし、今ここに、それとは別のフィルタを発見することができた。
何と名付ければよいだろうか。

わからないので命名については保留しておくが、
その人と共にした経験が自分の一部となり、
自分の思考や価値判断に直接影響を与えている自覚はないものの、
その可能性、すなわち思考の可能性や判断の可能性を提示している

そういうことではないか。

そして、その可能性の提示は、
新たな関係、すなわち別の人との関係の構築を助けてくれる。
"別の次元の「つきあい」"が、新たな人間関係を仲立ちする。
それ自身が変化してこそ、このことを可能にする

それは、変化しながら生きていく自分の一部となったのだから。

 × × ×

なるほど確かに、森博嗣氏の言う通り、
「思考は自身を救うものである」と、
本記事を書き終えて実感した次第です。

考えることは、基本的に自身を救うものである。(…)「考えすぎている」悪い状況とは、ただ一つのことしか考えていない、そればかりを考えすぎているときだけだ。もっといろいろなことに考えを巡らすことが大切であり、どんな場合でも、よく考えることは良い結果をもたらすだろう。

森博嗣『孤独の価値』

cheechoff.hatenadiary.jp

梨木香歩と橋本治と「物語」

以前に「併読リンク*1」というタグを作って、
そういうタグを作ったからこのテーマが書きにくくなった、
ということについて書きましたが、
その理由を「"併読リンク"という現象が自然発火的でなくなる」と書いて、
それはそうかもしれないがそれは根本原因ではない、と今は思います。

ではその根本原因はというと、
書きにくくなった理由は、もうシンプルに、
「書きたいという衝動もなく書こうとしている」からですね。

たとえば、連想でつながった2つの文章(内容)が、
それらだけで「言い尽くされている」時には、
その連想主体の僕が言い足すことは何もない。
「言い足す」とは、もちろん、自分にとって。

言葉を換える、というか別の話になるけれど、
「連想」とは、思いついてハイおしまい、ではなく、
「そこからさらに続くなにものか」へのきっかけなのですね


最近このテーマでよく投稿しているので、
あらためて少し考えて、以上のように書いてみました。
だからといって、タグを作る気になったわけでもありませんが。
タグは後々の整理のためで、そういう動機が今はない。

以下、本題です。

 × × ×

三原のいうこともまた、真実ではあった。が、しかし、その括り方は違うと思う。起こった事態を掬い取れるだけの「つくり」になっていない、と棚は感じた。けれど、では、「起こった事態を掬い取れるつくり」とはどういうものなのか。

 片山海里の言っていたという、死者の「物語」こそがそれなのだろう、と思う。人の世の現実的な営みなど、誰がどう生きたか、ということを直感的に語ろうとするとき、たいして重要なことではない。物語が真実なのだ。死者の納得できる物語こそが、きっと。その人の人生に降った雨滴や吹いた風を受け止めるだけの、深い襞を持った物語が。──そういうものが、けれど可能なのだろうか。

梨木香歩『ピスタチオ』、筑摩書房

江戸時代の日本人にとって、重要なのは、「赤の他人がしでかした事件の真相」なんかではなかった。ただ「あ、知ってる」と思うだけの事件の断片が、舞台の上で、「自分も同化出来る、自分も関係があると思われる人間のドラマ」になって行くことだった。
 "事件の真相"というものは、実は、知ってもあまり救いにはならない。真相というものは、結局のところ、"事件"という破綻に至って終わるだけのものだからだ。だからこそ、"真相"を突つき回しても、得るところはなんにもなくて、"ただ一時の騒ぎ"で終わる。それに対して、"事件の真相"なんてものに知らん顔して進められるドラマとは、「人間社会に起こりがちな、この厄介な"ドラマ"というもつれは、一体どのような方向に導かれることによって救いを得るのであろうか?」という、模索なんですね

「第二十四回 ドラマ論」p.411(橋本治『ああでもなく こうでもなく』、マドラ出版)

後者の本は、『広告時評』という雑誌にかつて連載されていた橋本治氏の時評集です。
院生の時に「人生のバイブル」のように読み込んで、それから10年弱、何度かの引っ越しに耐えて本棚に居続けたこの時評集を、最近また読み始めました(毎朝読んでいます)。
朝食時に読んでいた一つ前の本が、読了が一日遅れたら(その次の日が図書館に行く日曜だったので)次に宇沢弘文*2の本を読むつもりだったんですが、前日に読了してしまい、図書館に行く日の朝に読む本がないなと自分の本棚を眺めていてふと手に取ったのがハシモト氏のこの本でした。

時評と言いながら話は古代とつながったりして(たとえば「持統天皇野村沙知代みたいだったらどーすんだ?」みたいな。実際こういう調子=口調で書いてあるのです)、それは当時の氏が(新編?)平家物語を書いていたかららしいのですが(この理由も相当おかしいですが)、そういう時空を超えていろいろとつながる時評は当然これを読む自分にもつながってきて、併読リンクなどと言って処理し切れない事態にもなるんですが、それはそういうものとしてもう一度目に読んだ時に納得はしていて、二度目の今回は線は引かず、前の自分が書き込んだ後を眺めつつ「へえ」と思うだけにしています。

が、まあ前段に書いたとおり書きたくなったので書いているわけです。


梨木氏の本の物語は終盤へ向かっていて、そんな中で前者の抜粋を読んでいる時にハタと「ドラマ論」(=後者の抜粋)が連想されて、並べて引用してみました。
並べてみると、下線部は最初に結びついたところだったんですが、その中での太字部も、共鳴しているように思われます。

後者の抜粋の「事件の真相」とは、それを扱うワイドショーのことを指しています。
この時評の執筆時期には「貴乃花宮沢りえの離婚騒動」があったらしい。


そしてこの時評では「再現ドラマ」についても書かれています。
この論も本記事に関係してきそうなので少し抜粋します。

 再現ドラマのある番組で重要なのは、ドラマではない。ある人間の問題を「ああだ、こうだ」と討論することに主題はある。討論のための参考資料が再現ドラマで、だから、再現ドラマによって語られるものは、ドラマのあらすじであり、骨組みでしかない。だからこそ、役者の顔はいらない。(…)「"事実"こそがすさまじいのだから、余分な演技力はいらない」ということで、テロップに名前の載らない無名の役者達による再現ドラマが登場する。
(…)
普通のドラマに"真実"はなくて、あらすじだけの再現ドラマの"事実"ばっかりが有名になると、そこに生きてる人間のあり方ってのは、きっとどっかに行っちゃうな──というのは、再現ドラマの語るものは、「私の人生とは、演技力のいらない役者によって演じられるものである」ということだからだ。自分の人生から"問題=あらすじ"だけ拾って、"表情=演技力"を捨てちゃうっていうのは、かなり空しくないかなーと、「貴乃花宮沢りえのだんまり」に興奮する私は思うのでした。

p.413-414 同上

梨木氏小説の抜粋にある「人の世の現実的な営み」は、直上の抜粋の"事実"(あるいはその一つ前の抜粋の「事件の真相」)と対応して見えます。


このつながりから、またいろんな方向に連想が及ぶのですが、
(情報過多の現代人の欲求不満とか、「あらすじと分析の書評」の機能とか)
たぶんこれまで何度も考えてきたことが多いので、
そういうのはちょっとおいて、
別のことをちょっと書いておきます。


男は身体(性)の重要性について頭で理解するしかない(スタートはそこにしかない)、
内田樹氏の文章を数多く読む中で実感して、そのことを何度も書いてきました。
この実感と同じようなことが、今起こったのではないかと、書きながら思いました。

どういうことかというと、
梨木氏は架空の物語を書いていて(これは「物語についての物語」でもありますが)、
ハシモト氏は時評という現実寄りの文章を書いていて、
しかしハシモト氏のこの(抜粋の)文章も物語について書いている。
これらがつながることで、「現実よりの文章」が「架空の物語」を照射する。
照射されて、「架空の物語」はその生命性を増進させる。

でも、
というかどの接続詞を使えばいいかわかりませんが、
ハシモト氏は「徹底的に身体の人」なのです。
(若干余談ですが、内田樹氏の身体論の本『私の身体は頭がいい』のタイトルは
 ハシモト氏の言葉が由来なのだそうです。たしか時評にもそんな言葉があった)

 × × ×

物語は、現実と離れていることにその特徴と効果があって、
でも「離れている」は「関係がない」ではなくて、
つまり物語は現実と、ある面で「繫がっている」こともあって、
その、離れたり繫がったりすることによって、
物語はきっと、

 現実の中で離れたものを繋げたり、
 あるいは繫がったものを離したり、

することができるのだと思います。
 

*1:「併読リンク」とは造語で、いくつかの本を同時に読んでいて(=併読)、ある本の記述を読んで別の本の内容を連想すること。そのつながり(=リンク)を見つけること、あるいは連想によって見つけようという動機が生じること。

*2:内田樹氏がよくブログで「社会共通資本」について論じる時に引く経済学者で、そのブログで宇沢氏のことを知ってからずっと読みたいと思っていました。

シモーヌ・ヴェーユと岡潔と「渾身系」

長いまえおきですが、まず花巻近隣の公共図書館について。

 司書講習の後半くらいから、図書館めぐりをしていました。
 車があったので、高速を使って市外へも行きました。
 東北の有名どころとしては、南相馬、川崎村、一関へ行きました。
 岩手県外ではあと、仮設の名取へも行きました。
 (うろ覚えですが以上4つは福島県宮城県かのいずれかにあります)
 市内は東和以外の3つ(花巻、大迫、石鳥谷)へ行きました。
 そして花巻市のお隣の、北上、紫波へも行きました。

 各図書館の比較や批評をするつもりはなくて、
 ただ紫波町立図書館のことをちょっと書いておきたかった。

オガールという紫波中央駅前の複合施設の中にあるその図書館は、
できてからが新しく、いろいろと先進的な特徴もあります。
が、これまで二度行きましたが、ほぼ100%利用者目線で行ったので、
ここでは一利用者としての感想だけ書きますが、
蔵書がとても充実していました。

松丸本舗松岡正剛がプロデュースした書店の本棚)の紹介本があって、
そういう書評本を読むと読みたくなる本が一気に増えるので普段は近づきませんが、
この前行った時はあまり考えずに手に取ってぱらぱら眺めてしまい、
案の定で読みたくなった本が5,6冊ほど出てきて、
そのタイトルをメモして館内検索にかけると、
その全てが蔵書にありました。


家から遠いのでそう頻繁には通えませんが、
貸出延長も使って月1で行く習慣にはしようと思っていて、
今はそのペースに合わせて全6巻の『特性のない男』(ムージル)を
月に1冊ずつ読み進めようと思っていて、
それがけっこうウェイトがあって他に「重い本」を差し挟む余地は少ないのですが、
上に書いた5,6冊(どれも館内でいくらか読みました)の中で、
これは借りて帰って読もうと思ったものが1冊ありました。
(これ以外にハイゼンベルクの自伝『部分と全体』も「保留」にしてあります)

根をもつこと

根をもつこと

この人のことは「名前は聞いたことあるな」くらいの印象でしたが、
本のタイトルを見てまず『根をもつこと、翼をもつこと』(田口ランディ)を連想し、
ランディ氏はこれを読んだことがあるかもしれないと思い、
(エッセイを読んだ記憶では、たしかランディ氏は大学で哲学を学んだ時期があったはずです)
また原語タイトルが "L'enracinement" とあって、
デラシネ(根無し草)の対義語だなと思いました。
そしてT.S.エリオット(たしか詩人)が書いている本書の序文を読んで、
これは「渾身系」の本だと思いました。

「渾身系」というのは造語で、
司書講習を一緒に受けたI画伯(多分野の本に詳しい)と話す中で生まれたのですが、
手癖や手管でなく、渾身を込めて、やむにやまれず書かれた本、
あるいはそういう風に本を書く著者に対して用いる表現です。
画伯と話した中では、そういう著者として鶴見俊輔高村薫を挙げていましたが、
最近読んでいる本の中では、岡潔宮崎駿もそうだと思います。

「渾身系」の本の特徴は、
書いてあることをそのまま論理的に理解するものではない、ということ。
書かれてある言葉に、その人の人となりが陽に陰に表れていて、
正偽や虚実の視点(判断)から漏れてしまうものが多大にある。
言い方を変えれば、その人を知って読む場合とその人を知らずに読む場合とで、
読む人が受け取るものがかなり違ってくる本。
それはまた、こう言い換えてもいい。
読むことによって受け取れる、連想されるものの質、量が、
それを読む人の一人ひとりによって大きく違ってくる本*1


そういう本を今の僕はわりと選択的に読んでいる気がしていて、
それも借りた理由の一つなのですが、
もう一つ、こっちが決め手になった理由ですが、
今読んでいる、上でも触れた『特性のない男』に書いてあることが、
同じテーマで、それも同じ趣旨でこの本にも書いてあるのを見つけたからでした。

テーマをいえば「理想の国(の作り方、在り方)」というもので、
趣旨はここで簡単に触れるには力量不足なので省略しますが、
少し考えてみれば、このテーマは、
同時に今読んでいる(つい最近読んだ)別の2冊、
『ピスタチオ』(梨木香歩)、『風の帰る場所』(宮崎駿)でも触れられていたのでした。

 ちょっと脱線しますが、後者は宮崎氏のインタビュー集で、
 インタビューでもそのことに触れていますが、
 作品として実際に提示されているのが漫画版の『風の谷のナウシカ』だということでした。
 映画作品のマンガといえば、映画の映像の静止画を切り貼りしたイメージがあって、
 あまりまともに読んだことはないのですが(ジブリもたぶんナウシカ以外はそうです)、
 ナウシカはそうではなく、またストーリーも映画とは違うということをこの本で知りました。
 それでこの漫画版ナウシカも今借りてじわじわと読み進めています。

 × × ×

と、ここまでが長い前段でした。

そんなこんなで、
『根をもつこと』を借りたはいいが読むタイミングがなかなかなく、
1週間経った今日、の先ほどにやっと読み始めたのですが、
例の「横文字」的現象がまたまた起こるので、
もう書かずにはいられないと思ったのが本記事を書く最初の動機でした。

本記事のエッセンスは、一つ前の記事とおなじく「併読リンク」です。

 根こぎは、人間社会のずばぬけてもっとも危険な病患である。なぜなら、根こぎは増殖してゆくからである。完全に根こぎにされた人間には、ほとんどつぎのどちらかの態度しか許されない。すなわち、古代ローマ時代の奴隷たちの大部分とおなじように、死にほとんど等しい魂の無気力状態に陥るか、さもなければ、まだ根こぎにされていない者たち、ないしは、部分的にしか根こぎにされていない者たちを、しばしばこのうえなく暴力的な手段によって、根こぎにすることをめざす活動に飛び込むか、である。
 ローマ人は一握りの亡命者にすぎず、それが人為的に寄り集まって都市をなしたのである。彼らは地中海地域の諸住民から、その固有の生活、祖国、伝統、過去を奪い去ったが、それがあまりにも徹底的だったので、後世は彼ら自身の言葉を信じてローマ人をこの地域における文明の創始者とみなしてしまったのである。(…)スペイン人やイギリス人は、十六世紀以降、有色人種を虐殺したり奴隷化したりしてきたが、彼らのほとんどは、母国の深い生命とは接触をもたない冒険家たちだった。フランス植民地の一部にかんしてもおなじことがいえる。とにかくそれらの地域は、フランスの伝統の生命力が弱まった時代につくられたものである。根こぎにされたものは他を根こぎにする。根をおろしているものは、他を根こぎにすることはない。
「第二部 根こぎ」p.78-79(シモーヌ・ヴェーユ『根をもつこと』、春秋社、2009新版(1967初版)、[135.5/べ])

 [科学の発達における]利益に対して、害のほうはというと、戦争一つだけでも実にたっぷりと害があります。いま世界が二つに割れて相争っているのも、科学が機械を生み、その機械が科学をないがしろにしていることの結果です。しかも、その害はこれからどこまで大きくなるかわからないという現状にあるのです。いまの世の姿はギリシャ時代からローマ時代に移ったときとそっくりだと思いますが、文芸復興まで二千年間ローマ時代の文化の状態が続いたことを考えると、これからやはり二千年間はローマ時代が続くのかも知れません。五十年間でこんなありさまになったのですから、その四十倍というとどんなひどいことになるか、想像もつきません。ただ一つ確信をもっていえることは、人類はこんな大きな試練にはとうてい耐え得ないということであります。いま、真の中における調和を見る目がどれほど必要とされているかがおわかりのことと思います
「数学を志す人に」p.143(岡潔『春宵十話』角川ソフィア文庫)、[ ]内は引用者挿入

 いまはギリシャ時代の真善美が忘れられてローマ時代にはいっていったあのころと同じことです。軍事、政治、技術がローマでは幅をきかしていた。いまもそれと同じじゃありませんか、何もかも。ローマ史を研究するつもりなら現代をながめるだけで充分だと思うんですよ。月へロケットを打ち込むなんて、真善美とは何の関係もありゃしません。智力とも関係ないんですね。人間の最も大切な部分が眠っていることにはかわりないんです。
「新春放談」p.170 同上

太字部はまた別の記事で書きたいことで、ここでは下線部です。

上に書いた「渾身系」というキーワードに応じて、
シモーヌ・ヴェーユの本は岡潔のように読もうと思って読み始めて、
それだからかもしれませんが、
さっそく抜粋前者を読んでいる時に岡氏を連想して、
探して見つけたのが後者の抜粋です。

とくに分析はしませんが、
「読み方はこれで間違っていない」
という認識をもたらしてくれた連想でした。
 

*1:「言葉」に"本来"期待されている機能と対極にある性質をもつ本。これはとても不思議な現象だと思います。おそらく進化や発展という文明の指標からは外れる性質でしょう。

岡潔と安西水丸の共通点

まさかこの二人がつながるとは。

 好きな画家は大観と久隅守景、外国ならゴッホ、ラプラードなどである。
(…)
 守景のは実物は見ていないが、ある画家から新聞に出ていた写真版の「夕顔欄」を見せられて好きになった。この絵には半裸の夫婦よりも、それを見ている作者の気持が描かれている。いいかえれば、日常茶飯事にあらわれている心の動きを描いている。私自身いつも情緒だけを取り出して、それを見ようとしているのだから、こんな絵が好きになるのは当り前だともいえる

「好きな芸術家」p.159(岡潔『春宵十話』角川ソフィア文庫

何をもって普通というのかわからないが、世のなかのごく一般的な考えや仕種に以前から興味を持っていた
いつか普通な人々のことを漫画に描いてみたいと思っていた。
ぼくは本来、漫画における「ギャグ」や4コマものの「起承転結」にはほとんど興味がなく、「ギャグ」などに関しては、むしろ白ける方で、4コマものの「起承転結」も同様だった。
今や「おやじギャグ」と言われる「駄じゃれ」とほとんど同レベルのように思えてならないのだ。
まあそんなぼくの勝手な漫画に対する思想はひとまず置いておくとして、とにかく日常目にしたものや感じたことをそのまま漫画として描いてみたかった

「chapter 1 ぼくの仕事」p.36(『イラストレータ安西水丸』執筆:嵐山光三郎、安西カオリ、村上春樹

前者を読んでいて、ふと「これは水丸氏のことではないか」と思い、
そのような文章を最近読んだ気がして調べると後者に行き当たりました。

後者は水丸氏の手がけた仕事が作品例とともに紹介された本からの抜粋で、
この文章と同じページには『普通の人』という漫画から数ページ抜粋されています。

普通の人 (宝島comics)

普通の人 (宝島comics)

氏のイラストは(僕なら村上春樹氏の)本の表紙や挿絵でお馴染みで、
もちろん漫画も同じ調子で、漫画になって急に劇画っぽくなったりはしませんが、
単発で出てくる挿絵よりも漫画の方が抜粋下線部について「なるほど」と思えます。


上手い下手は関係なく、というかこれもある意味で余分な要素で、
目にしたものや感じたことをそのまま」描く、しかもそれだけを描く、
というのは大人にはすごく難しいことなのだと思います。

で、そういう絵を水丸氏が描くいっぽうで、
絵を「そういう見方」で観賞する岡氏がいる。
つまり「情緒だけを取り出して、それを見よう」とする見方。


二人の絵に対する姿勢について、
「抽象性」という言葉が最初に浮かんで、
言葉が足りないかとその説明を考えているうちに、
「ものすごく具体的」という言葉も出てきました。

「批評的態度から遠い」と別の視点からも言えて、
これについては抽象的、ものすごく具体的、の双方に当てはまる。

違わないはずはないのに、
この両者の違いが分かりません。
どういうことだろう…

 × × ×

春宵十話 (角川ソフィア文庫)

春宵十話 (角川ソフィア文庫)

イラストレーター 安西水丸

イラストレーター 安西水丸

人への興味、「突き抜けたニヒリズム」 ─ ある関係の始終についての変転的思考 (1)

 マティは、ぼうっとした顔をして、三本脚の腰掛に座っていた。屠ったばかりのヤギの皮をああいう形に組んだ木の杭に被せておくと椅子になるんだぜ、どんどん固くなっていくんだ、と三原が傍らでどうでもいいようなことを囁いた。そこに座っている人間より、人間を座らせている「もの」、民芸品や生活用品の方が三原の興味のプライオリティの上位を占めるのだろう。いや、自分のそういう部分をわざと強調する、これは彼独特の、露悪的なシニカルさなのかもしれない。

梨木香歩『ピスタチオ』

なぜか、ここを読んだときに、ふと「カウンセラー」という言葉が浮かんできました。
そういえば、高校生の頃に精神科医になりたいと思っていたことがありました。

 司書系の仕事を毎週ハローワークで探していて、
 それと同じ要領で「カウンセラー」をキーワードに仕事を探すと、
 岩手県内で(正社員募集で)70件ほど出てきたのに驚いて、
 (司書系だと正規はほぼゼロ、バイトで5,6件程度)
 資格欄を見て言葉をひろって行くと、
 「精神保健福祉士」「社会保健福祉士」「臨床心理士
 あたりが出てきました。

 そこから資格取得についてちょっと調べると、
 前二者(国家資格)は「大学で通年講義→試験」、
 後者(民間資格)は「指定の大学院卒業→試験」、
 という道筋がありました。

へえ、と思って、
とりあえず前者を養成する大学の募集要項を取り寄せる、
ところまではやってみました。

大学はまあまだ通えるだろう、
という手応えを先の2ヶ月半では得ていて…

 × × ×

「人に興味がある」、
あるいはこれと同じ意味で
「人が好きだ」、
ということを今回の出来事のいちばん最後に実感しました。

 当事者であるとともに、どこか他人事でもある。
 客観的に見られる、という表現はあまり使いたくはなく、
 「自分より大きな"もの"が僕らを見ている」、
 という感覚があったかもしれない、
 「当事者かつ他人事」という自分の状態を成り立たせたもの
 幸福も不幸も、そこにはない。

 責任は「負うもの」だが、
 責任を引き受ける大きさ、広さは、自分の身の丈サイズ。
 それ以上はその「自分より大きなもの」に委ねる。
 僕自身に引き寄せればそれは「流れ」かもしれない。
 良い悪いの判断は、そこにはない。

生きていくのは惰性でもできますが、
生きたいという意志は、
人と「全的に人として」接することで、
湧き上がってくるものだと思いました。

 × × ×

単なる思いつきで、
それが不思議であったから文章にしてみたまでで、
じっさいはほとんど何も考えていません。
関心は気ままの散漫で、
調べた大学の近くのボルダリングジムを探したりしている。

 × × ×

そういえば最近読了した『風の帰る場所』(宮崎駿)に、
突き抜けたニヒリズム」という言葉がありました。

ニヒリズム、あるいは虚無主義という思想が、
それだけでは現実否定的なニュアンスを帯びていて、
別の言葉はないかと探したことが過去にありました。
行雲流水とか、諸行無常とか…
しかしこれらは思想というよりは、
自然、人間を越えたものを指しています。

宮崎氏はこの言葉をたしか堀田善衛氏について使っていて、
この二人と司馬遼太郎氏の鼎談書『時代の風音』は読んだことがあり、
その本(まだ手元に残っている)を読んだ印象を思い起こし、
宮崎氏の映画について語る言葉とその映画を思い浮かべて、
これはいい言葉だと思いました。


『風の帰る場所』はボルダリングジムに近い北上図書館で借り、
その図書館のすぐそばに「日本現代詩歌文学館」というところがあって、
行くとそこでは通年で現代詩の展示会をやっていて、
見学者参加型の作品がひとつありました。

 横一列に狭い間隔で縄がぶら下げられていて、
 隣り合う縄同士が所々で縒り合わされていて、
 食堂によくあるビーズ紐の簾が網の目に絡まったような状態。 
 縄は太いので網の目の隙間はほとんどない。
 見学者は栞状の紙に「ある言葉」を書いて、
 絡まった縄の隙間にはさみ込んでいく。

ある言葉とは、僕の記憶ではたしか
「大切な人へ」「未来(過去)の自分へ」
向けての言葉だと、作品の解説に書いてあったと思います。

僕は栞に、名を記さず、ただ「突き抜けたニヒリズム」とだけ書きました。

 × × ×

風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡

風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡

時代の風音 (朝日文芸文庫)

時代の風音 (朝日文芸文庫)

道徳の動特性、夢の責任 ─ ある関係の始終についての演繹的思考 (2)

それゆえ、これを認識すれば、もはや道徳の規範を固定した不動の規則とはみなさず、その更新のために働くことを絶えず人間に要求する動的な均衡とみなすようになる。無意識に獲得される反復の傾向を個人の性格のせいにして、その性格に反復の責任を取らせたりする考え方を、偏狭な見方だと次第に理解するようになる。内部と外部の相互作用が認識されるようになる。そして、まさにこの人間の非個人性を理解することで、個人的なものを、人間の基本的で簡単な行動様式を、つまり、鳥の営巣本能にも似て、ほんのわずかな方法と多様な材料で自我を作りあげる自我建設本能を、新たに探る手がかりを得たことになるのである。

ムージル著作集 特性のない男Ⅰ』(Robert Musil著、加藤二郎訳)p.307-308

抜粋の下線部に、妙に心を捕らわれた。

「道徳が人間に要求する」。
この擬人化に何の意味があろうのだろう?
ここから見出せることを考える。
そして、それはあるかもしれないがそういうことではなく、
まさにこういう場を自分が経験したことに思い当たった。

自分の経験に、ある意味で的確な言葉が与えられた、と思った。


道徳、いや常識でもよいが、
それは集団に属する個人同士の関係を円滑にする機能をもつ。
共通認識という面もあるし、教育という面もある。
それは、集団の状況によって変化する。
時代、文化、技術、他集団との関係、等々。
それは個人が取り決めることではなく、
自然発生的にゆるやかに形をなしていくものであり、
完全に固まることはなく、変形を続ける不定形のものである。

その道徳を、個人は所有する。
個人なりの解釈で、また経験のもとで、ある一定の形で内に留める。
そして個人は、それに頼ることで社会生活を営む。

個人が所有する道徳は、変形の圧力を、内から外から受ける。
外から受けることの例は上に書いた。
内からとは、変形がその個人の経験に起因することを指す。
自分が常識(ここではこの方が通じるので言い換える)だと思って、
相手にした行為が、関係の亀裂を生み、問題が円満に解決しなかった。
こういうことがあると、彼は選択肢の一つとして、自分の常識を疑う。
理由は、今後のために「使える常識」に修正すべき可能性があるからだ。
そのために彼は、常識の実行形態とその周辺状況について考察を重ねる。


道徳は、その使用によって円満な人間関係の維持を人々が目指すものだ。
この「維持」という表現は、道徳の不変性を示唆するように見える
不変性は、安定性でもある。
しかし、上に書いた通り、道徳は変わりうる。
よって、道徳は「利用」したり「依拠」するものでは、本来ない。
「使用」と書いたが、「生かす」がよいかもしれない。
変化することを本質とする生物のように。

だが、「それは"個人の考え方"のようなものではないか」と思えるかもしれない。
それは、違う、とここでは言い切る。
みながもつと想定してこそ効果を発揮する道徳、
そのようにして「想定される道徳」と、個人が培う内なる道徳の関係が、
ここで問題になる。
個人の考え方に、この内なる道徳は、近い。
近いが、あるいは後者は前者の一部かもしれないが、違う。
内なる道徳は、それが変わることで「想定される道徳」も変わるからだ。
個人の考え方の中でそういう効果をもつもの(部分)が内なる道徳だ、
と言ってもよいかもしれない。

道徳の存在の肯定は、その信頼へとつながる。
道徳への信頼は、社会的な人間関係をより円滑にする。
しかし、その道徳は変化しうる。
その性質を忘れると、道徳は形骸化する。

(教育とは別に)道徳は押しつけるものではないことも、これと関係する。
道徳の変化を前提することで、道徳の発揮状況を常に観察することになるからだ。
それは、相手をよく見るということ、
もっと言えば、相手の内なる道徳をよく見るということでもある。
この時点で、内なる道徳が個人の考え方と異なることが明確になる。
なぜなら、深く自覚的でなければ、個人は内なる道徳に責任を感じないからだ。

個人が責任を負わなくてよいように、人は道徳や常識に委託している。
思考の責任、あるいは意思の責任を。
このことも、道徳や常識の機能の一つであり、
つまり人間関係を円滑にすることに貢献している。
ただ、ここでいう円滑は「上滑り」と言ってもよく、
つまり表面的なやりとりで事が済む人間関係を前提としている。
集団においては、そういう関係が圧倒的に多いことは確かだが。


話は唐突に逸れるが、
文学はこの"責任"を個人が負う営みである
と定義できるかもしれない。
思考の責任、
意思の責任、
あるいは、
夢の責任を。

「夢の責任」と書いたのは、イェーツの詩の一節を思い出したからだ。
村上春樹は『海辺のカフカ』の中で、この一節を以下のように訳した。

  "In dreams begin the responsibilities"
 「僕らの責任は想像力の中から始まる」

 

「横文字」的現象について(ホントなんだっけな…)

一つ前の記事を書いてる途中なんですが、
(途中でもう投稿しちゃいましたが)
「タイムリー」の話になったので寄り道します。

今日偶然読み始めた『ゲド戦記』(ル・グウィンの原作小説の方)もそうなんですが、
なにかの節目にそれとなく読む文章が非常に高確率で身に染みます
こういうの横文字でなんていったっけな…
セレンディピティ」ではなくって…
内田樹氏がよく使うんですが。

漸く落ち着いて - human in book bouquet

ちょっと前に書いたこの「横文字」がなんなのかが相変わらず思い出せなくて、
こういう事態が過去に何度もあった記憶もあってけっこう「かゆい」んですが、
そんな中またこの「横文字」についての文章を見つけて、何重にか驚きました。

ウチダ氏のこの「横文字」の使い方としてはたとえば、
自分が考えているあるテーマを氏の友人(たとえば平川克美氏とか名越康文氏)も
特にそのテーマで喋ったわけでもないのに同じ時期にそのテーマに関心を持っていて、
対談なんかをしてそのテーマの話になった時にお互い「おお!」とびっくりする、
といったもの。

僕が上の記事で使ったのは、
自分がちょうど今関心をもっているテーマが偶然手に取って読んだ本に書かれていて、
まるで本が自分を呼び寄せたのではないかという気持ちになる、
といった意味でです。

 『図書館の主』(篠原ウミハル)の児童図書館司書の御子柴は、
 悩みを抱えた子どもや時には大人に「まさに今自分が読むべき本」だと
 その人が思える、自覚するような本を手渡せるスーパー司書ですが、
 もちろん時々はハズレを薦めたりもして、まあそれはいいんですが、
 そんな時に御子柴氏はこう言う。

 「お前が本を選ぶんじゃない。本がお前を選ぶんだ

 いいですね。
 これは事実ではもちろんなく自覚のレベルの話で、
 だから御子柴氏のような司書がいるかどうかとか、
 そんな司書がいたらいいとかなれるかどうかではなく、
 人と本がいればそういうことが起こりうるし、
 図書館がそういう出会いを生み出せるのなら、
 図書館は司書であり、御子柴氏なのですね。

話をもとに戻して、
今日出会った「横文字」的現象について書かれた文章を抜粋しておきます。
何重にか驚いた、の意味は…
あれ、なんだったかな、話がそれた間に忘れちゃいました。
入れ子構造」というキーワードだけ覚えてるんですが…
あ、この言葉もこの本↓の中に出てきます。

(…)けれど、何だろう、この一致は。
 こういうことは棚には比較的よく起こる。棚の周囲を織りなすそれぞれ独立した流れであったはずのものたちが、いっせいに何かの符号[ママ]のように同じ合図を送ってよこすのだ。だからといって、すべてに意味があるわけではない。何十年も自分を生きてきたのだから、そんなことは分かっていた。そこに必要以上の意味を読み込もうとするのは野暮だ。楽しめばいいのだ、すべてを面白い偶然の一致として。今まではそう思ってきたが、さすがに今回はちょっと、眩暈がするような気がして、棚はしばらく目を閉じた。

梨木香歩『ピスタチオ』(筑摩書房、2010、[913.6/ナシ])

「棚」というのは主人公の女性ライターのペンネームで、つまり人名です。

この小説冒頭でその説明があって、画家のターナーが由来らしいのですが、
その画家の画風について、
何か明確でないものを明確でないままに描こうとしていた人だったな」
と書かれてあるのを図書館で立ち読みで目にして、
これを読もう、と僕は手に取ったのでした。

と、「横文字」的現象に出くわすとついその偶然性を説明したくなるんですが、
抜粋にある通り、ある程度の傾向とその「面白い偶然の一致」によるもので、
説明し過ぎると意味を見出す姿勢になってきて「野暮」になります。

そうだ、抜粋して気づきましたが、「符号」はきっと「符合」の誤植ですね。
…いや、どっちでも意味通るのかな。