human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

無題9

「疫病神みたいなもんだと思うんですが」
「悪い人?」
「いや、そうではなくて? いや、その、人って変わっていくもんでしょう」
「せやね」
「人と違うことをしたがる人ってのはある意味傾向そのもので、大勢で同じことやってる時に凝り固まるのをほぐす機能があるわけです」
「傾向そのもの? 傾向って、ものやっけ? ああ、光って見えるわけやな。照明はいらんと。存在照明ね、カッコええな君」
「あー、そのケイコウではなくてですね」
「ケイコウ灯マナー部(笑) ちゃんと勉強しいやー?」
「……。人が変っていくのは人間の傾向で、でも集団でいるとそれを忘れる。僕みたいな人はそういう時のリマインダ機能であって、集団を一人の人間だと考えれば僕個人は傾向なわけです」
「ふんふん」
「でも傾向は性質であって人ではないから、そういう人は個人としては破綻しているのです。自分で自分がわからないとか、落ち着かないけどそれでもいいのかもしれないとか思う」
「ああ、せやからいらんことばっか考えとるわけやな」
「落ち着いてしまうと変わらなくなってしまうという不安があって」
「せやけどずっと変わってくっつのも、変わらんことと変わらへんのとちゃうの?」
「マンネリ化すればそうなりますね」
「んーとな。要するに顔デカいっちゅうことや、君」
「…まあ顔にも脳は含まれますけど。あれ、いやほんとかな」
「期待を裏切らんビトレイヤやで、ほんま」

オーブンは温室である/キッチンからあれこれ

前に書いた壁登りジムへは16日に行こうと思います。
ニトリに注文していたペールボックスを取りに行くので。

 × × ×

オーブン余熱利用は今朝からさっそく始めました。
プロジェクトと銘打っただけある。

モーニングセットを焼いている間に天板の温かい場所を探して*1ベーコンの空きトレイに乗せた浸々ティッシュと種を置いておいたんですが、食後に片付けている間にふとオーブンの中に入れることを思いつきました。

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15分くらいオーブン機能を使って約1時間後のチャンバー内温度が24℃で、1.5時間経過後も数値はそのままでした。
ゴーヤの種の発芽に適した温度がたしか25〜30℃だったので、このアイデアはなかなかいけそうな気がします。
空気の循環がない分は時々フタを開け閉めしてあげればよいでしょう(種の時点で通気性は考えなくてもよいかもしれませんが)。
入れたまま忘れてしまうとかわいそうなので、タイマーを使います。

 × × ×

キッチンについて。
ひとまず大きなものはもう増えなさそうなので、落ち着いたとみなしてちょっと書いてみます。

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洗い場とガスレンジの奥には色々置けそうな幅広のスペースがあって、最初は洗い場の奥にできあいの乾燥用食器置きがあれば順当だと思っていたんですが、ものを増やしたくないのでしばらくは買わずにいて、洗った食器はスペースに直接置いていました。
何度かホームセンタに通ううちに「吸水マット」なるものを見つけ、試しに買って置いてみたところ、これがなかなかいい。
食器置きのように平皿や茶碗を立てるガイドがありませんが(ただのマットなので当然です)、そのために洗った食器をどう配置するか、その前にどの食器から洗うかに頭を使うことになります。
それが面白くもあり煩わしくもあるんですが、それを面白いと思えている時はいい気分でキッチンに立っているんだろうなと思うし、食器の一つひとつに気を配る必要性から食器に対する扱いが丁寧にもなります。

洗い方としては、小さくて底が深くて安定性の高い食器をまず洗ってマットの端に置き、それをガイドにして、あとは大きさや重さを考えて他の食器を裏返して立てかけていきます。
夜に朝夕食分を洗うなら、夕食に使う食器を先にマットに置けば、翌朝使う分だけを手に取れます。
たとえばこんな↓感じ。

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ボウルやザルなどの調理器具はマットとは違う位置のスペースに直接置きます。
しゃもじやへらといった手で扱う器具はマット上の皿に立てかけることもあります。
2枚目の写真の右側はサラダスピナで、野菜の水切りに使います。
『サラダ教本』(坂田阿希子)を読んで初めて買ったんですが、この本の言う通り、水をしっかり切るだけでサラダが見違えるように美味しくなります。
水菜やレタスなどの葉っぱもの、それから玉ねぎや根菜のにんじんでも薄切りにした場合などは水切りの効果大です。
…本題に戻りますが、このサラダスピナは部品が全部で4つに分かれるので、洗ったあとの置き方にしばらく試行錯誤したんですが、この写真の感じでいちおう落ち着いたような気がします。
今朝のことなので、まだ定着していませんが。

キッチンまわりは落ち着いたと言いながら忘れていたんですが、生ゴミのテンポラリな行き場についてはまだ思いついていません。
シンクのコーナにカゴを置くとシンクが狭くなるし、蛇口の付け根から網状の袋をぶら下げるのがスペース利用法として妥当かなと思っているんですが、それはなんだか審美的に許容できない。
思いつくまでシンク横の作業スペースの端に固めて置くことにしているんですが、もうこれでもいいかという感じもします。
『野菜のだしで作るVegetable Soup』(樋口正樹)では、調理で出てくる野菜の切れ端を集めて煮込む「野菜だし」が全レシピ必須の素材で、これを実践していると生ゴミは細かいものというか、あまり細々とは出てこなくなるのです。
それで生ゴミは1日1回ペースで直接燃えるゴミ袋に放り込んで、週2の回収に出しているんですが、今はいいとして夏場は大丈夫かどうか。
暫定的という意識は持っておきます。

シンク奥スペースの窓に立てかけている洋書は、海外のアパート部屋の写真集です。
引っ越してきて間もない頃に段ボールの中の本を整理していて、この本は変則サイズなので本棚に他の本とは並べにくくて、周りを見渡すとがらんとしたキッチンが目に入って、何げなく置いてみたのがそのまま定着しました。
要するにディスプレイなんですが、キッチンの審美性を意識するおまじないでもあるし、水場における本という「生もの」の存在感もあります
3つ目は今思いついて言葉にしましたが、紙にとって水は大敵であって、カバーも付けずにキッチンの作業スペースに置くなんて常識的にはありえません(この洋書は表紙が厚いので水は若干弾きますが)。
が、上に書いた吸水マットに食器を並べる話とも通じるんですが、水はねを嫌うものが近くにいることで、シンクにおける炊事のふるまいが丁寧になります。
これらのことは、僕が常にそういう意識を持って台所に立てるというよりは、僕が自然にそう振る舞うようにマットや本が配置されている、いわゆるアフォーダンスについての話です。
前者と後者は一緒に見えて全然違っていて、出力側から見れば同じにも思えますが入力側から見れば全く異なる。
例えば、テスト勉強せずに単位が取れて喜ぶ大学生なんかは前者のマインドに該当します。
過程を大切にするというのは、出力だけでなく入力も(そしてもちろん「入力と出力の間のこと」も)見ることです。

思いつくまま、気のままに書いていますが、最後にスピーカの話を。
シンク奥スペースの両端にある小ぶりの黒いスピーカは木製で、底にコルク製の脚がついているから音の響きが床に邪魔されず良好であるというONKYOの売り文句になるほどと思い、2004年に購入してからずっと使っています。
何度かグレードの高いものに買い替えようと思ったことがあるんですが、別にこのスピーカの音に不満があるわけでもなく、そのつど家電製品店で物色したりネットで探したりしながらも、時間が経つうちにうやむやになって今に至ります。
村上春樹は昔小説家になる前はバーだったか小料理屋をやっていて、その頃からずっと使っているのだったか一度買い替えたのだったか、レコードデッキと共にスピーカに対しては強いこだわりがあって、「スピーカはその人の音楽鑑賞における身体を形成する」というようなことをエッセイに書いていました。
つまり、最初は安物で間に合わせて手持ちのお金の余裕に合わせてだんだん高価なスピーカに買い替えていく、というサラリーマン人生になぞらえたような音楽鑑賞スタイルは身体(耳)ではなくお金(収入)の都合でしかなく、廉価品であれ高級品であれ、どんな質のスピーカであっても長い間それで音楽を聴き続けるうちに、耳というよりは身体全体が振動に適応していき、そのスピーカの音が「自分に合う音」になっていく
時間のスパンが全然違いますが、カツ丼を食べる前にずっとカツ丼のことばかり考えていると「胃の内側がカツ丼の形になる」(@内田樹)というのも同じことです。
…話を戻しますと、スピーカを水場に置くというのも家具が全然足りない引っ越し当初に場当たり的に決めたことだったんですが(床に置くよりは何でもいいから台の上に乗せたい、という程度のことでした)、置いてみるとこれも予想外にフィットして、キッチンに立つ楽しさを根っこの方で支えてくれています。
そしてこのスピーカも、マットや洋書と同じく、アフォーダンス的存在でもあります。
ただ、右側のスピーカがガスレンジの右側コンロの真正面にあり、炒め物や揚げ物をする時に(調理の丁寧さとは関係なく)油がはねそうな気がするので、何か対策をした方がよいかもしれません。
アルミシートを立ててガスレンジを囲うのは論外だし、スピーカの前に壁をつくると音が跳ね返ってしまうので好ましくない。
妙案はすぐには浮かんでこない*2ので、これもひらめきをゆっくり待つことにします。

こういう生活じみたことをつらつら書くのはとても楽しいですね。
 

*1:チャンバー内壁と天板の間になにかしら配管が通っていたりすると放熱具合が変わってくるので。そんなことはなさそうでしたが。

*2:スピーカのすぐ横の壁が両側とも木なので、ネジか釘を打ち込んで足場をつくってスピーカを(たとえば布巾かけより上に)浮かせると絵的にはステキなのですが、あまりに目立つ穴を開けるのも気が引けます。突っ張り棒もNGですね(今はトイレの上の方に物置き用に渡すのも許せません)。うーん。

「ゴーヤハウス」プロジェクト始動/怪物クッキー

観葉植物を部屋におくという話を前に書きましたが、それより先に、気分が乗ったので屋外に種を植えてきました。

前にホームセンタでゴーヤの種と肥料と軍手を買い、スコップが良いものがなかったのでしばらくそのままにしてあったんですが昨日100円ショップで(機能性よりはデザイン的に)よいものが見つかったので購入し、道具が揃いました。

今日は起きたのが昼前で、昨日までは遅くとも8時台には起きていたのにこんなに遅くなったのは昨日の夕食がマヨネーズ作りから入って「マセドアンサラダ」(気が向けばまた別記事に書きます)を作って食べ終えたのが23時前で、それから花巻図書館で借りた『未明の闘争』(保坂和志)をだらだら読み続けたせいなんですが*1、それはさておき午後の買い物途中で菓子パン1個食べたものの一日二食でよくもったと思うんですが。

昼前の朝食後からずっと部屋作りをしていて、カーテン代わりのアジアンクロスをもう買ってあるスクリーンに変えるのが残っている一番大きい作業で(カーテンレールを別の窓から付け替えるところからがスタート)、でも面倒臭そうだと他の事をちまちましているうちに種まきのことを思い出したのでした。


テーマは「めざせゴーヤハウス*2」です。

散歩中に家並みを眺めていて壁という壁が蔦に覆われた家なんか見つけるとステキだなあ思って、夏なんか涼しいんだろうなあと想像していました*3
ただ今までずっとマンション暮らしで、ベランダでプランターを使って育てる手もあって、会社の同期でベランダ菜園に凝っていた人もいたんですが、実践には至りませんでした(フェイクグリーンで満足していたのでしょう。「目の保養」という観点ではそう大差ない)。

一戸建てだとマンションのようなせせこましいことをしなくてよくて、それは実際の家回りの地面状況にもよるんですが、今回借りたところは玄関のすぐ横に菜園スペースが若干あり(幅1m前後かな)、その他は砂利に覆われています。

が、それほど徹底していない砂利で所々に土が見え苔があったりしていて、同じ間取りの隣家では砂利スペースの石を一部取っ払って花を植えたりしていて、前に不動産屋にこのことを聞いた時は「まあ、その辺はてきとう*4で」ということだったので、まずは「窓の眺めが緑いっぱい」を目指すべく読書スペースに面する窓下に種を植えることにしました*5

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元あった土に肥料を混ぜて種を植えただけですが、土いじりをしている間に虫をほとんど見かけなかった(1匹だけ見ました)こと、やたらと土が湿っていることなどに「これでいいのかな?」と思って、ネットでちょっと調べると(主にこのサイトを参考にしました)、芽が出れば簡単に育つが発芽までは工夫(というか温度)が必要だそうで、東北のこの時期では屋外の温度は期待できませんが、まあもう植えてしまったので残った種で室内発芽を試そうと思います。

(以下想像)平たいトレイに水に浸した綿を入れて種を乗せて、さてどこに置くか…日当りが長時間続く場所はなくどの部屋も気温が低めなので、ヘルシオ(ウォータオーブン)の上に置くことにします。
毎朝使っているので、わずかな時間ではありますが天板が温かくなります。

料理しながら種の発育を助けるというのも、なんだかいいですね。
循環しているというか。
肥溜めで肥料作るみたいなもんですかね。

…言うんじゃなかった。

 × × ×

昨日マヨネーズを作った時に余った卵白でクッキーを作りました。
cookpadで見たレシピ通りに作ったつもりなんですが、生地がかなり液状で、アルミホイルに垂らしてしばらくすると4つ作るつもりが全部くっついてしまいました。

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怪物化したカーバンクルみたいですね。
いや、あれはもともと怪物か。

*1:だらだらといえば、この小説のだらだら具合がすごいです。要約が一言「だらだら」で済んでしまうほど。細かいことを考えずに読む本ですね。

*2:タンポポハウス」(@藤森照信)や「ニラハウス」(@赤瀬川原平)のような路上観察DIY緑化なんかいいですね(赤瀬川原平『我輩は施主である』参照)。ゴーヤの蔦と葉で外壁も屋根も埋め尽くすとか…まあそこまではっちゃけることはできませんが。貸家だし。

*3:この点東北に来てからは実はあまり惹かれませんが…曇りや雨の日が寒いです。涼しいではなく、寒い。6月に冬の服装(暖かい上着、ズボン下etc.)や掛け布団&毛布なんて、関西にいた頃では考えられません。

*4:「適当」でもなく「テキトー」でもなく、その中間というニュアンスでした。なんのこっちゃ。

*5:作業を終えて部屋に戻って気付きましたが、これなら家の中から水を撒けますね。S&Mシリーズ(森博嗣)の中で犀川が研究室内の観葉植物にコーヒー用のケトルで水やりする場面が「カッコいいなあ」と思ってたんですが、これがやっとできます。もちろん、じょうろは買いません。

親指よし手首やよし/壁があったら登りたい

前にスライスしてしまった親指はなんとか順調に回復しています。

しばらくは血が止まらなかったり止まったと思って絆創膏を外すとまた出てきたりしていましたが2日で落ち着き、傷口がガーゼを取り込んで固まるとよくないのでラップを直接巻いていましたがけっこうたびたび痛くて、なんとかならないかと薬局に行ってたまたま見つけたキズパワーパッド↓を貼ってみると良い感じになっています(というのはこの製品の解説書の想定通りに傷が推移しているからです)。
www.band-aid.jp
血は止まって、でも傷口が赤く潤んで露出している場合に効果的のようです。
参考までに1日経過時のスライス写真を小さめに載せておきます。
指を一日ラップでくるんでから外した直後で指がふやけています。

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2枚目の「皮膚をスパッとキレイに持ってかれた感じ」がセラミック刃の切れ味を物語っています。
切った瞬間に接触抵抗も痛みも全くないのに「うげえ」と声が出たんですが、あれはたぶん金属の刃に対する切れ味の異次元さに生理的な違和感を覚えたからだと思います。
今想像しても気持ち悪いなあ。

 × × ×

花巻に来る前に秋田の玉川温泉へ行って手首の腱鞘炎と足首の疲労を治そうとして、手首は悪化したと前に書きました。
手首の痛みは大学生の頃にタイピング*1にハマって以来大なり小なり続いていて、ついこの前温泉で悪化した時はその「大なり」、手首を指の背の側に曲げるだけで痛み、日常生活にも支障が出ていました。

玉川温泉で治らんのだから病院に行くかと思い(本当は順序が逆なんですが)、花巻に来てから整形外科に行くと(たぶん今から1週間くらい前かな)、関節近くの節にステロイド注射をされました。
遅効性で効果は出るなら2、3日後かなと言われ、確かに打った日とその翌日くらいはむしろ痛いくらいだったと記憶しているんですが、その後はしばらく手首のことを忘れていて、つい最近そういえばと思って左手をいろいろ動かしてみると、なんだか痛くない。
両手の指を組み合わせて手のひらを外に向ける伸びもできるし、手のひらを床につけて腕立てもできる。
逆立ちは恐いのでまだやっていませんが*2、どうやらステロイド注射が効いたようです。
苦しんでいた年月からすればあっけないほどの効き目です。

こんなことならもっと早く…とは思いませんが、どうも、玉川温泉で手首の痛みが悪化したのは確かなんですが、炎症起因の痛みは増したけれども別の症状は治癒に向かわせてくれたのではと思っています。
そう考えないとこの呆気なさ、長年あった痛みが突然なくなって痛みがあったことを忘れるほど(痛みがなくなったことに気付かないほど)の唐突さがうまくのみ込めません。

まあいいんですが。
嬉しいことには違いない。

 × × ×

ボルダリングは神奈川に一度だけ行って、とても面白くて僕自身ととても相性の良いスポーツだと思ったんですが、その時は友人の車で遠出して行って、その後は機会に恵まれませんでした。
京都へ引っ越してからもやろうとは思いながら人出の多い所を避けていたので結局行かずじまい。

が、花巻へ来てまたボルダリングのことを思い出し、車もあることだし近くで行けないかと探してみると、ありました。
北上市花巻市の隣なんですが、地図を見ると4号線沿いのニトリのすぐそば。
ニトリへは家具を買いに何度も通っているので、このジムまでは全部知った道です。
車で20分もかからない。
clambonclimbing.kitakamicity.com

また、ジムまでの2倍くらい距離はありますが、花巻市内の大迫*3地区にある体育館にもボルダリング用の壁があるようですね。
道具を揃えるようになったらこちらにも行ってみましょう。

大迫地区体育施設|花巻市体育協会

手首の懸念が解消されたので、親指が復活したらすぐにでも行こうと思います。
引っ越し後の荷物整理と部屋作りはもう終盤なので*4

*1:Typewellというwindowsで動くタイピングソフトです。働き始めた時にmacに変えたんですが、そのおかげで離れられたのかもしれません。

*2:首周りを鍛えるために日常的に逆立ちをやっているんですが(最近は1回50秒程度を一日5,6回)、手首を痛めていたので拳を握って指を床につける「拳立て」でやっています。

*3:「おおはさま」なんですね。つい「おおさこ」と読んでしまいますが、内田樹氏の昔のブログには「大迫力」さんがよく登場していました。「おおさこちから」さんだそうです。

*4:内装やら何やらを整える過程をブログに書こうと最初は思っていたんですが、面倒臭くなりました。なんというか、文章化するような話ではあまりないのですね。とはいえ、かつてない力の入れようで、ろくに発揮したことのない美的センスをフル稼働させているので、いちおうの完成形にたどり着けば写真を載せようと思います。

受講動機の作文を書く

司書講習の応募に使う作文を書き上げました。
まずは気ままに1枚書き、読み返して「…で?」という感じだったのでtake2を書き、文字数が意外に不足していたので肉付けをして。
ここまでで約2時間。

花巻に来る前に書こうとした時はプレッシャが強かったのか、ネタになりそうな材料を箇条書きにしてもどう書けばいいのか見当がつかなかったんですが、今朝はふと思い立って(この話は別の記事に書きたい…がモチベーションが保つかどうか)自分が前に書いた橋本治氏や保坂和志氏についての記事を読み返していて、ちょっと休憩とトイレに立った時に「あれ、今なら書けるかも」と思って、テーブルに戻ってきて書き始めたのでした。

落ち着いてからとは思っていましたが、5/27に住み始めて「目的に対する生産的なこと」をしたのはこれが初めてですね。
提出期限が6/Eなので意外と早いといえば早い(締め切りに追われて書き始めるだろうなと思っていたので。何せ最近小田嶋隆氏のこんな記事を読んだところだったので)。


思ってもみなかった達成感の表現として、テキストエディタに書いたtake2を貼っておきます。
これでもかというくらい小さい画像にしましたが、段落ごとに1行空けたので起承転結の感じがわかります。
この原稿は何日か寝かせてから見直して、手直しの後に完成稿とします。
字数制限800字のところ、現在777字。

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そしてついでにtake1も。
受講動機に関する作文なんですが、読み返して呆れて最後まで仕上げなかったせいもありますが、何が言いたいのでしょうね。
ただ、これを書いたおかげで調子づいたのは確かです。
とにかく書いてみるもんですね。

シンプルな構文にしようという意味で、少しだけ村上春樹の文章を意識しました。
内容は推して知るべし。

 本は読む人の世界を広げると言います。読書をすることで、人から教わるのとは別の形で何かを教わる。私は本から教えられることの中から「一人でいることの充実」を挙げます。読書は本質的に個人の営みです。読む本やその著者をコミュニケーションの相手とする考え方もありますが、それは比喩的なものです。本による教示や示唆を受けて、読者は一人で思考を深めていきます。ある種類の思考によってその人の考え方そのものが変化する場合もあります。人と出会うことで変われるように、本と出会うことで自分が変われることもあります。
 スマホを持たない人の方が珍しいというネット社会では、LINEやフェイスブックによって人と常時繫がることが当たり前になっています。そのような高度情報社会においても、本の機能は昔から変わりません。世の中をうまく渡るための情報は、ネット検索で手に入るかもしれません。しかし、世の流れから離れてふと立ち止まった時に求められるのは、本に書かれた内容であり、紙媒体の冊子を読むという形の営みです。
 毎年出版される本が増え続けているのは、出版業界が好況の証ではありません。けれど、もし出版社が軒並み廃業となっても、図書館はあり続けるし、その蔵書の果たす役割も変わらずにあり続けるでしょう。

しかし『小田嶋隆のコラム道』の巻末対談で内田樹氏が言っていたけれど、こんな書き方だと鉛筆で作文用紙に書く段ではお手上げですね。
…講義のテストで記述問題出たらどうしよう。
杞憂ですが。

棚をしまう/「無駄のない生活」とは?

小田嶋隆のコラム道』(小田嶋隆)を読了しました。
小田嶋氏の文章からはしばらく遠ざかっていましたが、思えば会社を辞めてからは本もネットコラム*1も読んでいませんでした。


小田嶋氏と内田樹氏の対談が巻末にあり、その中で「携帯電話が流通し、ネットが発達して物事を記憶する姿勢が失われた」という話が出てきます。

かつては必要に迫られてものを覚えていた。
その必要がなくなれば、余計なことは覚えなくて良い。
 でも、何が余計なのか?
 軽くなった頭に、何を代わりに詰め込むのか?
記憶の一部を機械に外部委託して、覚えなくてはいけないことが減った分だけ「大事なこと」「人間にしかできないこと」に頭を使えるようになる。
この発想は、脳を機械(演算装置と記憶装置)に見立てたもの。
でも実際は有機物である脳は、使わなければ動きが鈍り、どんどん劣化していく。
記憶力を要する機会の減少は、頭の回転数の低下と軌を一にしている。

そうかもしれない、と僕は自分のことを振り返って思いました。
検索すればすぐ分かる情報は、その内容を覚えるのではなく検索方法を覚える方がいい、何しろ情報過多の時代だから、と思っていた。
その方が効率が良いしスマートである、と。
これは主に仕事に対する認識のはずでしたが、影響は日常生活にも及んでいました。
本の内容が、覚えられない。
どういうことが書いてあったか、という印象レベルの話はできても、具体的に書いてあることを思い出そうとすると、その印象はもやもやしたままで形にならない。
これまでは必要がないからそうなのだ、と納得してきたんですが、果たしてそれでいいのだろうか? と『コラム道』を読んで思いました。

いや、それはそのままでいいのかもしれない。
「昔の記憶が形をもって溢れるように出てくるのは40代からだ、だから若いうちはとにかく色々経験し、本を読んでおくべきだ」といったことが書かれていました。
これを信じるなら、今覚えようとして読んだ本の内容が記憶されないと嘆く必要はありません。
意識の届かない記憶の底の方にちゃんと溜まっているのだから。

昨日書いた話とここで繫がるんですが、「必要のないことは覚えなくていい」これは上に書いた通りで、でも「手間を省く、楽をするために(外部記憶に頼って)頭を使わない」のはよくない。
言い換えれば、今の自分がやるべきことを未来の自分に棚上げしてはいけない。
そんなことばかりしていると、棚上げばかりしていると、棚卸しの仕方を忘れてしまう。
棚卸しの機会が永遠に来ない棚上げは、無為でしかない
日頃から無闇に使わないよう、棚「を」仕舞っておきましょう。


今の生活において、周りのことで頭を使う必要がなくなった分だけ些細なことに脳をフル回転させている傾向がありますが*2、どんなことに頭を使うかは、ちゃんと考えて選ぶようにします。

「後悔しないように」という言葉の意味は、後悔しないことをすることではなく、後悔しない生き方をすることを指します。
その姿勢が問題なのです。

 × × ×

いつからか忘れましたが、文章を流れ良く書くのが苦手になりました。
自分が書きたいと思う文書の傾向のせいだと思います。
論理的な、全体的に整合性のとれた文章ではなく、飛躍はあっても時に琴線に触れる言葉が生まれるような文章。
一度書き終えてから読み直す際に自分で下線を引くのは、琴線に触れるかはさておき、書いている間に偶然生まれた、今の自分に何かを語りかけてくる言葉です。

が、これは今後を考えると矯正せねばなりません。
ひとまず今月中に司書講習募集要項にある「受講の動機について」の作文を書く必要があり、講義が始まれば論理的な文章を書く必要性も出てきましょう。
必要があれば…そうか、放っておけば勝手に治るかな。

とりあえず読みにくい文章ですが今はこのままにしておきます。

*1:日経BO連載の「ア・ピース・オブ・警句」のこと。『コラム道』を読んで、また日課で読もうかなという気になりました。少しは社会の出来事を知っておいてもいいし、何より小田嶋氏の語り口に触れると自分も文章を書きたくなるからです。

*2:昨日はホームセンタで洗面所で使うタオルの色の組み合わせに15分くらい悩んで、結局買いませんでした。いや、これは自分としてはいいのか。洗面所の内装を頭に思い描いて調和のとれるタオルを選ぼうとしたのですが、妥協しなかったのは時間が存分にあるからで、要領が悪いということではなく、この場では要領の良さが必要とされていない。無意識に「費用対効果」の価値観が前面に出てくると、悩んだ時間を単なる浪費とみなしてしまいそうになりますが、そんな価値観には「じゃあ"無駄のない生活"ってのは何だ?」と聞いてやればよい。それは自己矛盾だし、「家事の時間を節約」みたいな宣伝文句に踊らされるようならその"無駄のない生活"を可能な限り具体的に想像してみるべきだ。想像する過程が、匿名的な資本主義的消費に個性を吹き込む

親指のスライス

クッキー周造(←九鬼周造のダジャレです)とは打って変わってマジメな話を書こうとして、でもその前に腹ごしらえをと夕食を作っていたら、セラミック刃のスライサーで大根と一緒に親指(のちょうどスペースキーを打つ部分)を3ミリほどスライスしてしまい、応急処置にあわあわしながら作り続けて食べて、食べ終わっても血が止まらなくて止血方法を調べて(→「圧迫止血」というのがよいようです。出血部分を強めに10分程度押さえる。その後はなりゆき)片手を上げつつぐったりできる方法はないかと思い久しぶりにニコニコ動画を見ているうちにマジメな話はその内容が頭からすっ飛んでしまいました。

過去にマイリスト登録した動画の中で見たいものを見るついでにリストの整理をしました。
時々別の動画に気が逸れたりしたんですが、ある動画を見始めてまず何を考えるかというと「マイリストに登録するかどうか」であることに気付きました。
つまり後でもう一度(あるいは何度も)見たくなるかを最初に考える癖があるということなんですが、これは現在に集中していない態度で、食事に喩えるなら「好きなおかずを最後にとっておく」のではなく「最後にとっておくおかずを食べながら考える」で、今食べているおかずが上の空でちゃんと味わえていない。
あるいは「未来のための貯金」が自己目的化した状態にも似ています。

保険会社は嫌いなのに自分が保険会社的な発想をしているのが不思議で(何しろまだ起こっていないことを事前に想定しておいて対策を打ちまくっているわけです)、これはたぶん「現在に集中するという実感がない」、いや言い直せば「未来の想定も現在における想像つまり現在への集中であるという認識でいる」のでしょう。
これは屁理屈で、その場にいること=実在性の強度とその場に根差さない想像=非在性の強度の差を無視した考え方であるというのが常識ですが、ここでいう「強度の差」が小さい、あるいはむしろマイナスである性質の人も存在する、、ということを野口晴哉氏の体癖論によって知りました。
体癖論における「上下型の1種」というのがそれで、晴哉氏は奥さんが1種であり「彼女は頭の中のことの方が現実なのだ」とその著作に書いていました。

僕も1種なのかもしれず、しかし「自分は1種だ」という決めつけは現実逃避の正当化にもなり得るのが厄介なところで、身体性の賦活に力を入れ始めた背景はこれだろうかと今思ったりしますが(身体はどこまでも現在のものです)、結局のところ「身体のいきいきした感じ」は身体が脳と比べて優勢の時に実感できる状態で、脳が優勢であれば「身体のいきいきした感じ」は実感ではなく理解に留まる、そういう風に納得してしまえるのが1種なのだろうか、となんだか思考が堂々巡りしています。
(堂々巡りするものを思考と呼ぶのでしょうか?)

話を戻せば、脳偏重であれ「現在に集中する」ことは可能で…、違うな(いや、今書いた当たり前すぎる事が違うのではなく、自分が言いたいこととは違うということ)、保険会社的思考だろうが無闇無謀の無鉄砲思考だろうが「頭の中の出来事」としては同じで、似非未来志向なんてのは単なる悪癖に過ぎなくて意志を以て矯正可能だということ

お金に関してはやっと「貯蓄魔」をやめて純粋な支出生活をしているのだから、頭だってそれに合わせればバランスがとれるはず。
未来のことは、ほんとうに大事なことだけ考えればいい。

というわけで「いつか見るかもしれない」と7,8年溜めてきたマイリスト動画を、今の判断基準に従ってほとんど削除しました。
本当に見たければ動画名なり作者名なりを覚えていて検索できるだろうし、逆に覚えていなければそれは別に見たい動画ではなかった、という涼しい認識。
森博嗣氏が「エッセイや小説のネタをメモにとらない」のもこれで、氏は意識下の自分を信頼できているのですね。
見習いたいです、今度こそ。

本記事タイトルはこの作品名を意識してつけました。
親指の皮をスパッと切り落とした瞬間に、この本の講談社ノベルスの方の表紙絵が思い浮かんだので(ぶるぶる)。
森博嗣氏の話で落ちたのとうまく符合しましたが、これは偶然です。

思想なき「クッキー周造」

クッキーを焼きました。
ヘルシオ効果のモチベーションで、お菓子作りは初めてです。

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こねた生地。
なるほどヘラで生地を混ぜる作業は力仕事だと実感。

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1回目に型を抜いた後の、地の側の生地。
このままで焼きたくなる衝動に駆られる。
ラプンツェルだかプレッツェルだか、こういう感じだったような。

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リサイクルショップで買ったただ一つの型はたぶん鳩形。
生地の残りは隙間を埋めるてきとうな形にして*1、いざ投入。

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こんなに膨らむんですね。
隣同士がくっつかないかハラハラしながら見守る。

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焼き上がるとすぐ取り出して冷ます。
長細い余り物には思想が全く感じられない。
あるいは深遠過ぎるのだろうか。

無心に見つめているとシルクハットが連想されました。
昨今の機能的なステッキではない、あの魔法使い仕様の杖ですね。

…ん? 魔法使いはシルクハットを被るのか?

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いくつかつまみ食いして瓶に保存。
これを一度やってみたかった。


ヘルシオレシピに忠実に作って、何の変哲もない素朴な味でした。
今後も作るなら、いろいろ混ぜ込んで*2味の変わり方を研究したいと思います。

しかし自分でクッキーを作ると、バターと砂糖の量に驚きますね。
作った分をそのまま全部食べようという気にはなれませんでした(同じ量でも袋詰めで買ったのなら食べられると思います)。

*1:分量通りに生地を作って(正直にいえば溶き卵1/2を入れる時に白身がギュルッと流れて多めになったが)、成形時の生地の柔らかさにびっくりした。両手で優しく持ち上げないと伸びてしまうのだ。というわけで余り物をステキな形にせんとする美的センスは発揮できませんでした。

*2:今思いつく候補はきな粉、豆乳あたり。トッピング材料を店で選ぶのではなく、ありもの(=普段の食事に使っているもの)を使いたいですね。

サラダを学ぶ(歯応えと温冷のバリエーション)

テーブルと食器棚がなくていくらかの不便が続いていますが、自炊は岩手に来てそれほど経たずに始めています。
近くに食べに行く所が少ないこともありますが(歩いて8分くらいのところに中華料理屋があるのを住み始める前から見つけていましたがまだ行っていません)、もともと食べに行くのがあまり好きではないうえに、今回は自炊をしたくなる動機があるのです。
その話は別の記事に書きます*1

今のところサラダの頻度が高くて(炒め物ができないからです)、特に今日作ったのが美味しかったのでちょっと書いておこうと思いました。

日の早い順に夕食の写真をのせます。

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最初は以前と同じ工夫なしの無骨サラダ。
にんじんと水菜を包丁で刻み、レタスを手でちぎる。
写真ではわかりにくいですが量がすさまじい。
なんでこんなに多いのかというと、よく読む村上春樹のエッセイにたびたび「食事は大量の生野菜」と書いてあるからです。
肉を食べず(魚はたまに食べるのだったかな)、ご飯も食べず(パンは食べる)にあれだけのランニング好適体型になれるのかと単純に納得したこともあり、(これもたぶんハルキエッセイの影響で)ランニングを始めたこともあり(今まで日課にまで昇格したことはないですが)。

そうはいってもこの芸のない単調なサラダ、にんじんの千切りも太すぎて平らげるのに苦労しました。
さすがにおかずがサラダのみはきつくて、納豆とおくらめかぶを足した気がします。


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次は少し勉強してから臨みました。
にんじんはスライサーで薄板状にしてから千切りに。
しめじはオリーブオイルとバターで炒めてトッピングに。
炒める時に醤油を足していればもっと風味が出たと思いますが、まだ買っていませんでした。

味噌汁椀に盛ったのはおかずとしてのじゃがバタですが、サラダと一緒に食べると美味しかったです。
サラダの歯応えにバリエーションがあると量が多くても飽きがこないということを、作り手視点で初めて認識しました。
ちなみにじゃがバタ(のバターを挟む前まで)はヘルシオで作りました。
30分以上かかりましたが、皮にしっかり焼き色がついて濃厚な味わいでした。


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そして今晩は彩りあざやかなコンビネーションサラダ。
上記サラダに使ってもまだ残っているにんじんを違う風に使いたくて温野菜を思いつき、今日買い物に行った時に大根とブロッコリーをそれ用に買いました。
以上3種の温野菜と、ココットに入れた卵を一緒にヘルシオに入れて蒸し焼きにする間、レタスと水菜を刻んで(レタスは気分を変えて幅広の千切りにすると水菜とうまく混ざりました)、フレンチドレッシングを作りました。
『サラダ教本』というレシピ本なのだけど基礎的なことも書いてある本を参考に、(一度作ると頭に入りますね、というアピールを兼ねて書き出しますが)赤ワインビネガ・フレンチマスタード・塩・胡椒を混ぜ合わせ、オリーブオイルを混ぜながら少しずつ加えて作ります。
買ってきたマスタードがペーストでなく粒状だったので仕上がりは本とは変わりましたが(ペーストタイプの方が作りやすいそうです)、粒状マスタードならそれはそれで見た目にアクセントがつきます。
切った生野菜を盛り付け、温野菜を盛り付け、てっぺんにはココットからくり抜いた目玉焼き*2を乗せて、さいごに手製ドレッシングをトッピング。

一つ上でも書きましたが歯応えのバリエーションがあるとテンポよく食べられるうえに、今晩のサラダで気付いたことには*3、温冷の組み合わせによっても箸が進むのですね。

温野菜サラダは意外にボリュームがあって、一日二食の最近は夕食にご飯を2杯食べていたのですが今日は1杯で十分でした。
そして今日も納豆をおかずに食べましたが、今日のサラダはご飯のおかずとして不足はなかったです。
…いや、たぶん話は逆で、ご飯=玄米*4がサラダと相性が良いということでしょう。
今手元にある「サラダレシピ本」にも玄米サラダはあるが白米サラダはなく、「玄米レシピ本」にももちろん玄米サラダがあります。
食物繊維の作用かわかりませんが、歯応えがあるのがサラダのトッピングに好適なのでしょう。

というわけで今日の発見は、「(うまく作れば)サラダだけをおかずに玄米ご飯が食べられる」でした。

*1:と言いながら簡単に書いておくと、新品で料理本を買うという以前の暮らしからすれば驚きの先行投資をしたのでした。内容は今の自分の思想に合ったもので、「サラダ本」「玄米本」「野菜スープ本」の3冊です。

*2:こういう違う種類のおかずを一度に作れるのがヘルシオのいいところですね。今日やったのはヘルシオレシピにはなくて、目玉焼きは本来「蒸し」ではなく「焼き」モードで作ります。そのせいか今日の卵は若干ブヨブヨしていました。まあ仕上がりの出来の良さよりは要領をそこそこ掴みつつのアレンジによる楽しみを重視するので、調理さえできれば特に問題ありません。今日のは要領がわかる前のフライング実験でしたが、この点を加味すれば大成功でした

*3:と書く前は思ってたんですが、書いてから一つ上の「サラダ+じゃがバタ」も同じことだなと気付きました。しめじは炒めてから時間が経っていたので温かいという印象はありませんでした。これは改善点ですね。

*4:100%の玄米に小豆と古代米を少し足しています

二段階起床/そういえば図書館

雨が降っていましたが、今朝も(一日おいて)ランニングへ行ってきました。
6時起床で、起きがけの出発。

目が覚めてしばらくは「身体は寝ている」わけですが、その状態とは別に「起きている状態に落ち着く」という相があって(身体よりは頭の方かな?)、この相で落ち着く前に家を出てしまうのがよい気がします。
その相で落ち着く時の身体の状態でその日の活動レベルが決定されるのかもしれない、とこれは頭で考えて言っているだけですが。
まあそんな単純な話なら朝走った日は一日元気ハツラツということになりますが、とりあえず今日は短めに走ったためか走り終えた時に爽快感がありました。

コースはおとといとは逆に北へ。
余裕のある間隔で並ぶ家々に混じってアパートもわずかにある住宅地を進み、走りやすそうな西に向きを変えると田んぼが広がって家々はまばらになり、視界が開ける。
空が広いので直線コースではかなり先まで見えて、距離感がぼやけてくる。
そのまま西へ進んで、高速道と交差するところで定常的な車の走行音が聞こえてくる。

高速道の手前で折り返して、たぶん15〜20分くらい走りました。
車通りは少なかったですが(おととい走った道よりは生活道路、近所の人しか使わない道という感じでしたが)、もう少し早起きしてもよさそうです。

それにしても寒かった。

 × × ×

ここ何日か雨が降り続いていて、昨日から冷え込んできました。
部屋では冬用の上着を着ています。
晴れていれば日中は夏服でいられるんですが、やはり北国ですね。
足下にヒーターを点けたいくらいですが、それはやめておきましょう。
季節感を大事にしないと…などと言っていられるかどうか。

雨が降ると買い物に行くのも億劫です。
車なら濡れずにどこでも行ける、と思うのは安直というか無精だという感覚はまだ残っています。
生活の必要(というか「時間の必要」)に迫られればこんなこと言ってられませんが、今はそんな兆候は全くなく(いや、司書講座が始まればイヤでもそうなることが目に見えていますが)、そして食材が冷蔵庫に残っているので今日は家にこもりきりでも大丈夫です。

そういえばおととい気付きましたが家のすぐ近所に「学童クラブ」なる建物というか小屋があって(100mくらい北には小中学校があります)、放課後の時間帯が子どもらの喚声で賑やかになります。
読む本によってはその声が気になるのでちょっと外出しようかという気分にもなるんですが、家のすぐ近所に図書館があるので、夕方の図書館通いを日課にするのもいいですね。
図書館へは家探しに花巻に来た時に一度覗いたきりで、2階の閲覧エリアはまだ行ったことがありません(1階に学習室があって、年配の方々が新聞を読んでいるのをちらりと見ただけです)。

雨が止んだようなので、出掛けてみようと思います。