human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

市原〜雲ヶ畑〜上賀茂with一本歯、とその考察

一つ前の記事の通りに、一本歯デイウォーク実践編(3日目)を、本日挙行しました。

コースは行きは予定通り、帰りは府道61号と38号の交差点で曲がって市原へ戻らずに直進して上賀茂へ下り、MKボウル上賀茂を終点としました。
距離は予定とほとんど変わらず(0.5kmくらい延びたかな?)、概ね20km。
要所の到着時刻や休憩時間は(レシートの裏に)メモしていて、市原駅のそばを出発したのが9:50、MKボウルへ着いたのが15:40で、つまりは今日の行程(道はぜんぶアスファルトでした)で一本歯でのコミコミ歩行速度は 20km/6h = 3.33...km/h と出ました。
休憩などを抜けば、4キロまでは行かずともまずまずの速さになると思われます。

今日は道中(大岩を過ぎたあたり)で同じく雲ヶ畑に向かって歩く元気なおじいさんと出会い、その場で少し喋ったり雲ヶ畑の村街地(?)でばったり出会って同道したりしました。
彼が夜泣き峠から大岩に出てきた時にちょうど後ろに僕がいて、でも一本歯で遅いから離されるだろうと思っていたら意外にこちらの方が少しだけ速く、見つけてから結構時間がかかってから追い抜かんとした時に話しかけられたのでした。
話の内容はここでは割愛しますが、山登りを結構やる(「今度また剣岳に行く」と言っていました)というその75歳のおじいさんより速く歩けたというのが驚きでした。
もちろん彼が焦らずゆったり歩くタイプの人だったからですが。


そういえば今日はネットで購入した鈴をつけて歩きました。
買ったのは熊よけの鈴ですが熊よけのためではなく、遍路の「同行二人」というやつで、杖が大師(=空海)の御身、杖についた鈴が大師の声ということなんですが、僕は杖を持って行かない*1ので単独で鈴を持って行こうと思って買いました。
amazon商品ページのレビューに音声動画が張ってあって、レビューにある通り「風鈴のような音」ではあって敢えて言えば風鈴よりは厚みのある音(ベルの肉厚がけっこう厚いので重量もそこそこあります)なんですが、ズボンのベルト通しにつけて歩くと(ズボンとベルが接触するので)いい具合に反響が抑制されてそれほどうるさくありませんでした。
街中では消音した方がよいでしょうが(消音はネジをひねるだけで簡単にできます)、自然道や周りに建物の少ない車道(遍路の道中ではけっこうあると思います)では鳴らして歩くと心地良さそうです。
大師の声云々に関しては今は何も言えませんが、端的に「雑念退散」の効果があります

この鈴をチリンチリン鳴らしながら歩いていたせいかと思うんですが、市原近くから歩き始めた時に、すれ違った散歩中のおじいさん二人に拝まれました(鞍馬近いですしね)。

ついでに書いておくと、今日の行程の最後の方は上賀茂の住宅街と加茂川沿いを少し歩いたんですが、下校途中の小学生二人(高学年で、何のためか杖を持っていた)に典型的な形式で見物されました。
僕も昔そういうことをやったというのではなく映画やドラマでありそうだという意味ですが、何の気なしにわーっと走って追い抜いていって少し先で立ち止まってこちらを見るともなくじっとしていて僕が通り過ぎてから背中をじーっと観察する
後ろからその視線をひしひしと感じたかといえばまあもともと僕は勝手に人の視線を感じるタイプなのでなんともいえませんが、この「典型的な見物」で間違いはなかろうと思ったのは背中から「すげえ…」とこの「…」が如実に表れた呆然とした声が聞こえたからです。

 × × ×

さて、今までで最も実行程に近い今日の行程を終えて得るものがあったので整理して書いておきます。

本番を前にしての懸念点は次の4つがあります。

 (1) 一日に必要距離(20km以上)を歩けるか
 (2) 何日も連続でその距離を歩けるか
 (3) 歩く中での足の不調と対策
 (4) 花粉症は大丈夫か

一つ目は最初に書いたとおりオーケー。

二つ目ですが、これは事前に何日か連続で歩ければ理想ですが*2、明けて翌日の疲れ方も有力な判断材料の一つになります。実際は身体を慣らしていくことのウェイトが大きいはずで、その「疲れ方」があまりにもひどくなければまあ大丈夫だろうと。

三つ目は上の二つに大いに関わります。
今日は休憩も含めて約6時間歩きましたが、靴と変わらない部分ではふくらはぎが多少痛む点、一本歯独自の部分では右足の親指のマメ(できかけ)、です。
これは前に歩いた時(実践編の二日目だったかな?たしかずっと自然道を歩いた時)と違う部分にできたマメで、下駄の台と指の接触部分のすぐそばにできたので「こすれのしわよせ」的に発生したと思われます。
しかしなぜ右足だけなのだろう? とさっきじっくり考えていたんですが、鼻緒が緩いと台と指がズレやすくなるとは思っていてしかし鼻緒の(親指と人差し指で挟む部分の)長さを左右で比べると右の方がきつくて、それは僕の身体が左足の方が0.5大きいからそんなもんだろうという見当によって左右でつけた差なんですが、それはほんまかいなとメジャーで左右の足回り(指の付け根から少し離れた、鼻緒が締める足の胴体(?)の部分)を測ると左右でほとんど変わらず、「よくわからんけど右はきつすぎてマメができたのかもしらん」という結論に至ってさっき調整しました。
これでマメができなくなれば無敵ですね。
しかし鼻緒の長さがちょっと違うだけで足指にかかる負担ががらりと変わるのであれば(きっとそうなのでしょう)、道中でこまめに微調整をできるようにせねばなりません。
今日の行程は一日アスファルトで鼻緒が伸びるような事態には至りませんでしたが、自然道を歩けばそういう事態はじゃんじゃんでてきます。
とりあえずクジリと布切れがあれば伸びた鼻緒を短くする側に調整できるので、実践編行程でも持ち歩いています。

で、四つ目の花粉症。
今日はだいたいマスクをつけて歩いていましたが、ランニングと違って歩いていてそれほど身体が火照ることもないのでマスクをつけながらでも十分いける…のはまだそんなに気温が高くない今だから言えるだけかもしれません。
今はマスクありならほとんど鼻水は出ません。あと目はまだ目立った症状がありませんが、風の強い夕方に目が乾燥するはずが何やら潤む徴候があったり熱をもったりしたので、旅にゴーグルは入り用かもしれません。
マスクとゴーグルのどちらかならいいとして、両方つけて歩くのはなるべく避けたいですが、これはなるようにしかなりません。

 × × ×

ついでのついでに。

(…)山田氏は汁物用の器に持参の味噌玉を入れ、それを湯で溶き始めた。
 この味噌玉というのは、彼の家に先祖代々伝わる兵糧食だそうで、削った鰹節を炒って粉末にし、葱と共に味噌に突き込んで球状に丸め、焼いたものである。御維新前の騒ぎのときにはおおいに役だったのだそうだ。

梨木香歩『村田エフェンディ滞土録』

実践編の日は朝から出るので昼食はおにぎりを作って持って行っています。
具になりそうなものはと冷蔵庫を見ると梅干しと味噌があったのでその二種類にしていたんですが、つい最近『家守綺譚』を読み終えて次に読み始めた本にグッドタイミングなことが書いてありました。
冷蔵庫には味噌汁のトッピング用に「粉末にぼしダシ」があり、食品棚には納豆用の「乾燥九条葱」があって、まさにこの抜粋にある「味噌玉」を作る材料が既に手元に揃っていたのでした
今日さっそくこれを作って(僕の場合はおにぎりの具としてですが)持って行き、雲ヶ畑の家々が並ぶ道を歩きながら食べて、とても美味でした。
ただ今抜粋して気付きましたが丸めた味噌玉を最後に焼くのを忘れていたので、次は焼きます(コンロで直火焼かな)。

*1:平地では全く使わないので。ただ下りの山道では重宝するとは靴の時に経験しているので、もし必要になればその場で見繕おうと思っています。

*2:明日も気温が高いので、雨が小降りなら行きたいところです。雨中の進行は実行程で避けられなかろうと思われるので、むしろ歩けるくらいの雨なら歓迎です。

玉川温泉また行きたい、生活時間シフト、大詰め修行コース

前に一本歯で日中歩いて以来、寒い日は夕方に河川敷を歩かなくなりました。
その分プールで泳ぐ&歩く時間を増やしています。

先週は月〜金でどんどん時間を増やしていき、金曜は4時間近くクラブにいたことなりますが*1、今思えばその日泳いでいる間に咳が出始め、金曜だったか土曜の朝だったかに風邪をひいたようでした。

それで土曜は若干ふらふらしながらもいつも通り夜前にクラブに行ったら祝日営業で閉まる寸前で(祝日なんて知らんよ…)、仕方なく久しぶりに風呂をはって長めに浸かりました(プール用に入れたポカリ800mlを風呂の中で全部飲みました)。

 × × ×

湯にずっと浸かっていると、いつも玉川温泉を思い出します。

温泉の湯自体が手放しで気持ちよかったかといえばそういうわけでもないんですが(短期決戦の治療目的で行ったので「苦行」の面もありました)、ひと風呂にじーっくり2時間かけたり(それを一日4回繰り返したり)その合間に旅館近辺を散策したり畳の部屋でぐったりしたりといった、あそこでの生活全体が懐かしく思い返されるのです。

懐かしいと言っても去年のことで、しかし去年とは思えない遠さを感じます。
今年も行ってもいいかもしれません。

前に大学院の研究室仲間に温泉のことを話したら興味を持ったようでしたが、誰かと連れ立って行くのも楽しそうです。
短くとも1週間はほしいところなので勤め人には難しいかもしれませんが、何がしかの持病(特に医者の手に負えなかったような)を持っている人にはぜひ一度体験してもらいたいですね。

僕は去年は首を治しましたが、今年は手首の腱鞘炎でしょうか(学生時代にタイピング速打ちにハマって腱鞘炎グセがついてしまい、最近再発しました。プールのせいか篠笛のせいか、原因に確証はありません)。
まあ、自覚症状のなかったところが(温泉皮膚炎として)浮き出てくるので、なにもなくとも行きたいとは思いますが。

あまり整理して書いていませんが、去年湯治に行った時の話を含む記事をタグでまとめています。
興味があればどうぞ。
cheechoff.hatenadiary.jp

 × × ×

話を戻しまして。
風邪のおかげで土曜は風呂からあがるとすぐ寝て、たぶん半日くらい寝ました。
土曜日は朝食(10時くらいかな、いつもの時間)と夕食(17時くらい?)の二食。
明けての今日はさらに遅めの朝食(11時頃?)とプール前の昼食(15時前)を食べて、今(20時過ぎ)に至ります。
お腹は減っていません。

食べてすぐ泳いだのは今日が初めて(か覚えてないくらい久しぶりか)で、やはり空腹時に泳ぐのと感覚は違っていて、具体的には体が序盤は重いんですが後々になっても不安が湧いてこない点がいいですね。
不安というのは、なんというか空腹を通り越した後の漠然としたダルさというか、泳いでいると空腹をあまり感じないので本来通り越すべきものがなくて、つまり始まりがよくわからない漠然とした不安のようなもの。
つい最近まで昼食を14時〜15時に食べて、夕食をプール(平日は19時〜21時)後の22〜23時に食べるという生活で、全体的に後ろにシフトしていたんですが、今回風邪をひいて食欲が減退しているのをいいことに食事時間を見直そうと思いつきました。


プール前に夕食を食べるということにすれば、夕食は18時過ぎには食べ終えたい。
すると朝食、昼食も7〜8時、12時と早くなる。

今週は水〜金(土もかな?)が暖かいようなので、それらの日は一本歯デイウォーク、実際に四国遍路で一日歩くくらいの時間を歩くようにしようと思うと、食事時間の前倒しシフトはこれに適います。

前に書きましたが遍路の一日行程は「7時出発15時終了」が目安とのことなので、徒歩開始が移動時間で遅れるデイウォークでは「9時出発17時終了」くらいにすればよさそうです。


修行コースは、ずっとアスファルトで交通量の少ない府道61号線がメインです。
このコースは前に一度↓靴で大岩〜出合橋間を歩き、つい最近一本歯で市原〜大岩間を歩きました。
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googlemapの距離測定機能をつかったものをスクリーンショットで撮りました。
小さくてなにが何やら見えないので、まあいいでしょう。

叡電市原駅から府道38号に入ってすぐ道沿いに何もなくなるので一本歯に履き替えて(スタートはその赤丸)、あとは38号→61号をずっと歩く。
スタート地点から要所(青丸)までの距離は以下の通り。
 ・大岩 - 3.5km
 ・出合橋 - 7.0km
 ・洛雲荘 - 9.5km
歩き始めてからペースと時間と相談して、行けそうな所までいって折り返せば、一日の歩行距離が出ます。
とりあえず計算上で理想の一歩手前の「20km/日」を目指すことにして、すると洛雲荘(前に歩いた時に「あと7km」とかの看板は見たことあるんですが行ったことはまだない)が折り返し地点としてのゴールとなります。

アスファルト道だけでなく自然道も歩こうと思えば、前みたく大岩から二ノ瀬へ抜ける道(東へのびる矢印)と、38号と61号の交差点付近から入って氷室へ抜ける道(西へのびる矢印)の2つがあります。
氷室へ抜ける自然道はまだ歩いたことがないので一度靴で歩いておくべきな気もしますが、当然遍路道はすべて初見なので「そんなこと言っててどうすんだ」という気もします。

このコース(少なくとも「ずっとアスファルトコース」)を数日連続で歩いて問題がなければ、特に心配なく旅立てることになります。
起きないと考える方が楽観的ですが(足指のマメとか、ふつうに靴で歩いていても起きるくらいですから)。

*1:うちサウナは30分くらい。ちょっと前から結跏趺坐を組むようになりました。外でやると右足が痛くて片足のみ(半跏趺坐)になりがちなんですが、サウナ内だと両足でも最初の数十秒を過ぎればいくらでも続けられそうです。危ないので長時間はやりませんが。

篠笛レパートリーのメモ

前の話(の中の篠笛の話)↓の続きです。

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TSUTAYAに借りに行って、「夕焼け小焼け」とかの童歌集みたいなのはなかったんですが(動画で検索すれば出てきそうですがそれはやりません)、探していたものに近いものに「正調日本民謡」があったので借りてみました。
(東日本編は棚になかったんですが、ちゃんと聴き始めるとこちらも聴きたくなってきます)

正調 日本民謡 西日本編

正調 日本民謡 西日本編

  • アーティスト: 堅田喜三久,西田和枝,丸山正子,西富今子,橘ますえ,老成参州,望月太八,美波駒寿美,宮城繁,小山貢
  • 出版社/メーカー: バンダイ・ミュージックエンタテインメント
  • 発売日: 1996/09/21
  • メディア: CD
  • この商品を含むブログを見る

名前を知っている民謡はいくつかあって(阿波踊りとかよさこいとか)、でも名前だけでうたの方を知らなかったんで聴いてみていろいろびっくりしました。
阿波踊りは「おどるアホウにみるアホウ、おなじアホならおどらにゃソンソン」が有名ですがこちらは囃子で、うたの方はコブシというのかビブラートのようなものがうねうねぐちゃぐちゃして音節を圧倒していてなにを言っているのかわかりません)

それはいいんですけど、大体の曲に笛が入っていて、当初の目的(民謡における笛の吹き方を知る)にもかなうし、もっと根本的なところで、ずっと聴いている(ここ一月くらい昼食時に聴き流しています)と日本民謡の「こころ」がわかってくるような気がします。

最近朝食時に読んでいる『あわいの力』(安田登)に、西洋音楽と日本古来の音楽について「未来を先取りするリズムと現在進行形の節」として対比させて書いてある部分があって、録音されたうたのリピート再生だと「現在進行形」の感じは薄れそうですが(民謡はもとは即興だったのでしょう)、この考え方をもって聴けばより「こころ」に近づけるのかもと勝手に納得して聴いています。



さて、今日書こうと思ったのは篠笛のレパートリーの話です。
上記の借りたCDの曲はそのまま吹けるようになることは考えていなくててきとうにぴろぴろやるときの参考になっているんですが、てきとうに吹いているうちに出せる音が増えてきて(教本はあるんですが最初の数ページしか見ていません)、それに連れて吹ける曲や吹けそうな曲も増えてきたのでちょっとメモしておこうと思ったのでした。

前に書いた以外の曲を書き出してみます。
大きな古時計
蛍の光
・???(曲名忘れました。童謡だと思うんですが「なつがく〜ればおもいだす〜」と高めに始まる曲。)
・風のとおり道(「となりのトトロ」の曲です)
DQ3・ジパングの曲*1
パリは燃えているか*2


昔に聴いた曲や好きだった曲が楽器の演奏につられて自分の中からでてくるのはいいものですね。
楽しいのもあるし、人生の蓄積を垣間見るようでもある。
人生というとおおげさですが(そしてまだそれを語るほどの歳でもない)、今まで触れてきた音楽はちゃんと自分の深いところにひっそりといて、あるいは上から(つまり僕の意識が)呼んでくれるのを待っているのだと想像すると、、


なんでしょうね。

*1:懐かしい…民謡を聴き始めてからふと思い出しました。原曲の主旋律が笛を想定しているのかはわかりませんが、篠笛で吹くととても雰囲気が出ます。ちなみにラーミアの曲も原キーで篠笛の音域がカバーできるんですが、低音域で半音で動くところが厄介で今は難しい。

*2:加古隆作曲の、NHK番組「映像の20世紀」だったかのテーマ曲。すごく意外だったんですが、今日おぼえたての半音をぴろぴろやっているうちに曲のはじまりのフレーズに行き着いて、「おっ?」と思って続きを吹いてみると吹けました。主旋律後半の記憶が怪しいのでまた今度聴いてみようと思います。

『家守綺譚』、いまさら反抗期、いやはや花粉症

小島信夫集成シリーズは『墓碑銘・女流・大学生諸君!』を読んでいたところだったんですが、先の一本歯実践編2日とその後の遍路準備的なあれこれがあって間があき、今日4、5日ぶりくらいに続きを読んで「墓碑銘」を読了すると、小島信夫熱が冷めました。

まあそれはそれでいいとして、ではなにが読みたいのかなと本棚を眺めて、引き寄せられるように手に取ったのが、いつ読んでやろうかとストックしていた初読本ではなく、学生時代に一度読んだ『家守綺譚』(梨木香歩

読み始めるとスッと入れて、前に読んだ時に感じたよりも大きな「よい感じ」、安心感というのか、落ち着きを感じています。

寝しなに読んでいる『ねじまき鳥クロニクル』(村上春樹)が主人公の境遇が今の自分とそっくりで、それと似たものを『家守綺譚』にも感じるんですが、それだけでもない。

 × × ×

そのことと関係があるのか、ないのか。

いま自分は何もしたくないのだ、とふと気付きました。
そう自分に認めることを許した、と言ってもよい。

これまで、周りの価値観にのっかるにしろ僕で勝手に思い込むにしろ、生産的なことをやり続けてきたように思います。
ものごころついてからの話ですが、それは生徒であり学生であった頃も含めてのことです。
小島信夫の「大学生諸君!」を読み始めて少しでやめてしまったのは、いま大学生の気分になれないというのではなく、「自由を謳歌する大学生」という名目を当時の当事者であった僕も意識してはいながら、その僕と「大学生諸君!」の学生たちとの間に本質的な、距離は近いながらも目の前を崖に阻まれたような遠さを感じたからかもしれません。
また家にいて工事の音(近くの新設マンション工事は引っ越し当初から続いていましたが、すぐ隣のスポーツクラブの増設工事と鴨川河川敷のおそらくは歩道工事とが始まってからは家のどの部屋にいても日中は工事の音が聞こえてきます)が気にさわるのは、身体レベルでの不快感だけでなく、工事の音が「生産性の象徴」として聞こえてくるからかもしれません

本来の来るべき時に訪れる反抗期を一人前に、または「一人前に半人前に」経なかったのではないか*1と今あらためて思うのは、今の自分が反抗期の中にいるかもしれないという認識で、しかしその中で反抗すべき具体的な対象はもうないのです。
ではいかなるものに反抗しているかといえば、言葉にすれば生産性や効率、または社会といったもので、いやものとは言えない言葉以上のものではない言葉。

時に心に落ち着かさを自覚するのは、ひとつはその具体的な対象がないせいでしょう。

おそらくそれはそういうもので(つい「もの」と言ってしまいますが)、今さら反抗期かと思ってもそれはそれで仕方ありません。
反抗すべき対象のない反抗期ほど始末に負えないものはありませんが、あるいは成長、加齢、老いのステップとして一般的に避けられない(避けないことが推奨される)ことであるのだとすれば、それを経験しておいてもよいのでしょう。


頭のフェーズが切り替わったようなので(これは小島作品に飽きたことを指しています)、ちょっと分析してみました。

 × × ×

遍路地図を1番から88番までたどるように目を通し終えました。
20km/日で毎日宿に泊まれるかどうかを検討しながら見ていて、いくつかの山越え、峠越えを除けば順当に行けそうです。

自然道でも地肌と砂利道とでは歩く速さは大きく変わってくるので、一日山道の日ははたして20kmすら歩けるのか分かりませんが、距離をかせがざるを得ない場合は寺での勤行時に履き替えようと思っているスポーツサンダルを使えばなんとかなるはず。
というわけで一本歯とともにスポーツサンダルでも長時間歩行を一度は経験しておかねばなりません。
よりよくは数日続けての長時間歩行を。

心配事は歩き関連以外では、花粉症がここ数日で持ち上がってきました
シダトレンが効いて今期は対症薬(フェキソフェナジンとアルガードプレテクト)はいらないだろうとタカをくくっていたのが油断大敵火がボーボーで、季節外れに暖かくなった数日前の夜に急に鼻水が出てきてから後悔しました。
(例年は鼻より目に症状が先に出るんですが、鼻が早かったのは昨夏に会社を辞めて以来PCで目を酷使していないからでしょうか)

薬はもう使い続けるしかなくて、出発までに症状が酷くなったりすると考えものですが(マスクとゴーグルをしながら外を一日中歩く気にはなれません)、本格的に花粉が飛び始めるのは出発してしばらくしてからのことで、この点は旅立ってみないことには判断ができません。
出発を秋にする気もないので、あるいは道中であえなくリタイヤということもあり得ますが、これは花粉症に限らず怪我でもいえることで、そうなった場合は仕方がない。

歩き続けるために歩く以上、歩けなくなれば諦めるほかありません。
(そういえばちょっと前に山頭火の日記のことで彼が「歩かざるを得ないから歩く」と書いていたと言いましたが、これは表現が違っていて「歩かずにはいられないから歩く」でした。似ていますが、後者には動機が内的で身体的なものであるというニュアンスがあります

今は身体に従いたくて、つまり、ここぞというときにはなるようにしかなりません。

*1:高校生の頃のことで、具体的な記憶は浮かんできませんが、自分の性質を棚上げして当時の印象を振り返ると反抗し甲斐のない境遇(「反抗を正面から受け止めない(何か別のものに置き換える)母」と「妙に物わかりのよい(当事者的でない)父」)にいたように思います。あるいは自分に原因を求めれば単に反抗の仕方を知らなかったか、兄とは違うことをすることばかり考えていたか。

一本歯実践編2日目、鼻緒の調整法、弾み車を一定の速度で回すこと

昨日も一本歯ウォーキング実践編いってきました。

往路)大文字山登山口(スタート)〜旧登山道〜山頂〜池ノ谷地蔵〜比叡平
復路)比叡平〜池ノ谷地蔵〜大文字山山頂〜火床〜登山口(ゴール)

時間にして4時間ほど、休憩を5、6回しました。
ほんとうは比叡平から車道で滋賀まで抜けたかったんですが、予定していた池ノ谷から比叡平団地に入るまでにあるはずの道路が見つけられず(googlemapの地図表示にはあるんですが、戻ってから航空写真で見ると道があるようには見えませんでした)、団地に少々入ってから引き返したので往復の行程となりました。
復路は旧道ではなく火床経由のメジャーな登山道で、思えば大文字山を一本歯で下るのはこの日が初めてでした。
まだ歩き始めの頃↓に苦戦した凹凸がわかりにくい地肌(これを踏み損なって鼻緒が切れたのでした)は下りでも平気になっていましたが、階段状の地肌で幅が狭くて凹凸の激しいところなんかは見るからに詰んでいるというか「こける以外に手がない」有様で、実際何度かこけました。あとこれは山頂から池ノ谷の間でしたが若干ぬかるんだ地肌斜面を下るのが恐怖で、靴だと「バランスをとりながら靴裏を滑らせて下りる」が大抵の斜面でできるんですが(登山部の頃からよくやってました。下手するとこけるのでわざわざやるものではありませんが)、それと同じことを一本歯の歯裏でやるのが(一度まぐれでできたのを経験して)「恐怖的新感覚」でした。その時に、一本歯で下り斜面を目の前にするのはスノボで急斜面を下る時の感覚に似てるなと思いました。

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(あれからもう4ヶ月も経つのですね…)


昨日は出発前に下駄の鼻緒の調整をしました。
つい数日前に鼻緒のすげ替えをしてもらって(交換前の鼻緒は5年くらい使ったことになるでしょうか)新品なのですが、一昨日の大岩〜二ノ瀬間で何度も足をひねりかけたせいで早速のびてしまったので、今回はこの動画↓の通りにM5&M8ワッシャーを使った留め方をやりました。

一本歯下駄 鼻緒調整 - YouTube

これで留めると鼻緒はほぼのびないらしいのですがやはりそんなはずはなくて昨日の行程でのびてしまいました(結び目が2個だったのが良くなかったのかもですね。きつく結んだつもりが、2個だと緩むんですねえ、びっくり)。
それで今日は雨だったので部屋でどう調整しようかゆっくり考えていたんですが、この留め方は(1)M8ワッシャーに紐二本とも通す(2)M5ワッシャー2つのそれぞれに紐一本ずつ通す、の二段階のあとに固結び(動画では3回推奨)をするというもので、留めて締めた後は穴の上はM8-M5(2つ)-結び目の順で上下に重なるわけですが、鼻緒が伸びてしまった時の調整方法としてはこれら上下に重なる物達の間に何かを噛ませることでできるだろうと考えました。
履物屋で留めてもらうともちろん穴の上にあるのは結び目だけなんですが、この結び目の下に布(僕がやっていたのは手ぬぐいの切れ端)をかませても穴に引きずり込まれたりして噛ませる効果があまりありませんでした。
という経験があったので、今回はM5ワッシャーと結び目の間に布を噛ませることにしました。ちょうどこの間は結び目の根元で紐をくぐらせる輪っか状のスペースがあるため、かませの固定もばっちりです。
(と言葉だけで書くと非常にわかりにくいですね。作業に熱中してしまって写真を撮るのは忘れてしまいました)

また、調整のついでに、これまで歩いてきて歯がけっこうすり減ってるんですが、すり減った分が木屑になって歯の角にまとわりついていたのを大方カットしました。
木屑と歯側面の間に砂や泥が入り込んでいたのできれいにしたかったんですが、この木屑がさらなるすり減りを抑制している可能性も考えて少しだけ残しておきました。
とはいえ、これで歯もスッキリシェイプになりました。

 × × ×

今日は雨だったし、明日からまた寒くなるので実践編はこの2日で一段落、しばらくおあずけとなります。
2日連続歩いて翌日の今日はふくらはぎがなかなかつらかったですが(山を下ったのが効いたのでしょう。ところで一本歯を履いて斜面を下るのは「とても高い所から下りる感覚」があってそれが恐怖になるわけですが、よく考えると視野の基点が(靴の時より)上になったというだけで下る高さは変わってないのです。火床のすぐそばの階段を下るときなどとてもそんな風には思えなかったんですがきっとこれは気持ちの問題で、慣れれば足への負担は靴とそう変わらない気もしてきます。強がり発言です。これ上に書く話ですね)、それでも夕方にプールへ行って一本歯で歩かない分水中ウォーキングを多めにやったんですが(足指を鍛えるために、プール底のタイルをつかむようにして足指と足の平だけで歩くようにしています)、脚を使い始めるとふくらはぎもわりと平気になってきて、これも慣れればなんとかなるかもしれません。

一日中歩いて宿に泊まって(風呂があれば入って)足をマッサージして、翌朝起きた時は筋肉痛で足が痛んでそろりそろりとしか歩けないように思えても、いざ出発すると足が目覚めてきてふつうに歩ける、というような。

ただ今の生活の中では一本歯で歩いた後にプール&サウナがつきますが、旅の中ではあっても風呂で、疲れは(全身において相対的に、という意味で)足に溜まりやすくなります。
これがどれほどの差となって効いてくるかわかりませんが、旅中ではマッサージを欠かさずやるのが大事だと思われます。

 × × ×

地図を読み始めています。
(下のリンクの一番上の地図です)

へんろみち保存協力会

遍路用品を買ったお店の人(歩き遍路を5回行ったらしい)に聞いた話では、「7時出発15時終了」の予定で歩けば途中で何かが起きても大体予定通り歩けるということで、普通の人なら休憩も込みで平均4km/hで歩くとして一日30kmは歩けるから1200kmの全行程は約40日でいけるとのこと。

これにならえば、一本歯の場合だと、今のところ平地で3km/hといったところなので8時間歩いて休憩の分を考えれば一日20km強、全行程は2ヶ月近くかかるということになります。

日数制限がない以上「どれだけかかるか」よりは「いかに継続して歩けるか」の方が重要なので、行程日数を数える意味はあまりありません(問題といえば、あまり遅いと終盤で日中暑くなってくるくらいでしょうか)。


ところで夕食時(外食はほぼしていません)に村上春樹の本を毎日ちびちび読んでいるのですが、つい昨日『村上春樹 雑文集』を読み終えたので今日から『走ることについて語るとき僕の語ること』を読み始めました。
本棚から選んで夕食をつくって(今日は鍋でした。魚介鍋ということでちゃんこダシに「うるめ若干」を入れてみました。焼き魚の時は頭を残していたんですが、鍋に入れるとなぜか丸ごと食べる気になります。頭をそっと噛むのは、何か尖った部分の心配というよりは情の発露を感じます)食べながら読み始めてから、この本が遍路歩きと深く通じ合いそうだと気付きました。

今日読んだ中では以下の文章に線を引きました。

 我慢強く距離を積み上げて行く時期なので、今のところタイムはさほど問題にはならない。ただ黙々と時間をかけて距離を走る。速く走りたいと感じればそれなりにスピードも出すが、たとえペースを上げてもその時間を短くし、身体が今感じている気持ちの良さをそのまま明日に持ち越すように心がける。長編小説を書いているときと同じ要領だ。もっと書き続けられそうなところで、思い切って筆を置く。そうすれば翌日の作業のとりかかりが楽になる。アーネスト・ヘミングウェイもたしか似たようなことを書いていた。継続すること──リズムを断ち切らないこと。長期的な作業にとってはそれが重要だ。いったんリズムが設定されてしまえば、あとはなんとでもなる。しかし弾み車が一定の速度で確実に回り始めるまでは、継続についてどんなに気をつかっても気をつかいすぎることはない
「2005年8月5日 ハワイ州カウアイ島」p.16

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)

走ることについて語るときに僕の語ること (文春文庫)


いったんリズムが設定されてしまえば、あとはなんとでもなる。

2ヶ月の間歩き続けることも。

市原〜大岩〜二ノ瀬 with 一本歯

今日は日中を歩きました。
一本歯デイウォーク。
ようやくアスファルトを本格的に歩くことになりました。
というのも調べるうちに四国遍路の全行程1200km中自然道は200kmだけ、あとは舗装道だと知ったのです。
最近まで高野川沿い=地肌(とわずかに石畳)ばかり歩いていましたが、数日前からその高野川沿いナイトウォークも途中で一部道路に上がるようにしました。
そうして足慣らしをしての今日。


出発が昼過ぎだったのであまり歩く時間はありませんでしたが、結果的に90分ほど車道or歩道を、120分ほどハードな自然道を歩きました。

車道はまあ、歩行速度が遅い(3km/h)のをそういうものだと思ってしまえばなんとでもなりそうな気がします。
一日に歩く時間を延ばしていって、足にどう負担がかかっていくかをこれから見て行きます。

自然道がハードだったというのは、所々で雪が残っていたり、封鎖といっていいくらい派手に木が倒れて道が塞がっているところが数カ所あったり、とそれらはまあ局所的な難所なんですが、大変だったのは道が落ち葉だらけでその下に隠れている石ころが非常に見にくいことで(しかも今日はメガネを忘れた)、知らずに石ころを踏んでこけそうになることがしばしばあり、極めつけはぬるりと下駄の歯をからめとる腐葉土の存在で、蟻地獄のような感覚で踏み込んでしまうと歯がぐらりと傾いてしかも瞬間的な回避が難しく、今日は腐葉土起因で何度もこけました。
こけた時に思ったのは「鼻緒がある程度緩ければ=あそびがあれば大けがはしない」ということで、石ころなり腐葉土なりのせいで斜めに踏み込んでしまった時に、あそびがなければ斜めになった台にぴったりと足が追随してしまって捻挫ということになるんですが、あそびがあれば台から足裏が離れるわずかな時間ができて、その間に足をかばうことができるのです(例えば足をひねらないような体勢をとってこけるとか。今日一度反射でこれをやりました。両手も上半身も地について「ぐしゃっ」とこけたんですが、足が庇われたことにこけてから気付いて「なるほどなあ」と感心しました)。

所々で休憩*1をはさみながら3時間半歩き、二ノ瀬から叡山で戻ってくるといつものナイトウォークに出れる時間だったのでそのあと高野川沿いを1時間歩いて、今日はぜんぶで4時間半の行程でした。


行程後の足の状態としては、まず鼻緒の圧迫による指の痛みはほぼありません。これは鼻緒にあそびがあったおかげです。
が、それとトレードオフの関係なのですが、親指の平の下部、これは指(主に親指と人差し指)で台に対して踏ん張る時におそらく台と接する部分で、ここがこすれて多少ヒリヒリし、進行すればまめができそうな気配がありました。
今日はこけるたびに鼻緒がのびてしまって行程の後半はゆるゆるだったんですが、その分だけ指で踏ん張らねばならず、親指の平に負担がかかったようです。
今日の感じだと、鼻緒を適切な締め具合に保っていれば、長時間歩行における足指の怪我を防げる気がしました。
まめやたこができるとそこにばかり意識が行って心地良く歩けないので、この点は重要です。
鼻緒が緩んだ時に鼻緒の通し穴にかませる手ぬぐいの切れ端(と、結び目を引き出すペンチ的なものがあればなおよい)は常備するのがよいです。

足指以外では、やはり足首への負担が大きかったです。
こまめに休んでストレッチを加えることで、疲労は軽減できます。
あとはふくらはぎですが、これは脚絆のおかげで筋肉痛の違和感を軽減できたようです。


明日も晴れで少し暖かくなるようなので、足の状態によっては朝から歩き始めたいと思います。

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上の写真が数日前、下が今日の行程後です。
アスファルトと砂利を歩いて少しだけ削れたようです(もともとの傾斜が緩くなったように見えます。僕の癖なのか知りませんが、歯の外側から削れていくのです)。

 × × ×

昨日、遍路用品の店に行ってひととおり揃えてきました。
店主にいろいろ話を聞き、地図も入手したので具体的な予定は立てることができるようになりました。

足慣らしの方の準備とも要相談ですが、日中冷えずに歩けるくらい暖かくなれば出発しようと考えています。

 × × ×

そうだ、忘れてましたがクッションありの一本歯2号ですが、高野川沿いをアスファルトを混ぜて歩いた時に激しく損傷しました。
急な坂を上る時に歯にかかる力の具合で「あ、これはやばいな」と気付いたんですが、そうなんですね、ゴムとゴムの隙間に泥や石ころが入り込むよりも坂を上る時に歯の面取り部ゴムが剥がれるように力がかかる方が問題ですね。
というわけで旅のお供にはつらいだろうと判断しました。
近所を短時間歩くとか、体育館等の室内履きとしては特に問題なく使えそうなんですが。
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*1:もちろん篠笛を持っていったんですが、あたり一帯静けさに満ちた川のそばや林の中で吹くと音が響き渡ってとても気持ちよかったです。もっとうまく吹けるといいなあ、と思ったのでこちらも練習しておきましょう。

公開講話についてのメモ

昨日は野口裕之氏の公開講話を聞きに京都研修会館まで行ってきました。
受付でサインした誓約書に「本講話の内容は公開しないこと」とあったので、ここでは講話の内容についてはほんとうに漠然としか触れないことにします。

 × × ×

メモは許可されていたのでB6のロルバーンのノート2ページほどとったメモを夕食時と帰宅後に読み返しました。

そうだ、研修会館へは行きは三条京阪からバス一本で近くまで行けたんですが(バスが遅れたのと最寄りのバス停に着いてから地図があるのに迷ってしまい20分遅刻しましたが)、帰りは同じバス停から乗ったら京都駅行きらしく、変にルートが長かったので途中の千本丸太町かそこらで下りてあとは歩くことにし(そのバス停で下りた直後に振り返ると三条京阪行きのバスが来ていて、反射的に動けずに乗れなくてそのときは後悔しましたがこれはそのときだけ)、丸太町通を歩いているつもりが千本通だったりしてけっこう歩いたんですが、帰ってから夕食を作る気にはならず途中で食べて帰ろうと思って店を探しながら歩いていて丸太町通の鴨川近くに昔は高級洋食屋だったのが今は魚の定食屋になっているお店を見つけて、入って頼んだハタハタの塩焼き定食の魚がもの凄いボリュームで食べるのに1時間以上かかりましたが(頭部がまるごとでてきました。大きい魚の目玉を食べたのはこれが初めてで、眼球の歯応えの感触が今でもありありと思い浮かびます。喩えればボンドか接着剤かなんかの乾いた塊を切れ味の悪いハサミでぐーっと少しずつ食い込ませながら切断するような感触)大満足で、きちんとした魚を出してくれる食事どころが近くにないので(ちゃんと探していないのもありますが)この発見はとても嬉しかったです。前の店の洋食屋の時に何度か行っていたので空間的にも馴染みがあるのです。しかし魚の定食って食べるのに時間かかるし、席数が少ないのにボリューミーかつあんなに安くて採算がとれるのだろうかと心配です。


それはさておき、講話の中には自分の関心に応えてくれるものや今の生活方針を励ましてくれるものがあり、また実習の中には僕自身の身体運用に対して活用(または応用)できるものがありました。

励ましてくれる、と書いたのは、野口氏が「これからの(ある方面の)若い人々に期待している」と言われた時に、僕はたぶんその「ある方面」に含まれているという気がしたからです。
この言葉を聞いて、今自分がやろうとしていることを成し遂げたいという思いを強くしました。

実習の中で、「身体性を賦活する方法」とでも言えるようなものを教授してもらい、実際に参加者とペアになってその方法の効果を体験することができました。
その体験はとても微かで精妙なものでしたが(このことの意味、すなわち身体の声を聴くためにどれだけ静かな環境でどれだけ耳を澄まさねばならないかを体験できたことの意味はとても大きいと思います)、わずかではあれ体験できた感覚を頼りに、一本歯歩行や水中ウォーキングなどに活かしていこうと思います。


とりあえず整体協会の会員にはならず、次回以降の講話や稽古会には参加しないことにしました。
僕自身の関心にとても深く関わることをされているのですが…理由はいくつかありますが、一つは近く遍路旅に出るし、帰ってきてからの身の振り方(どこに住むかも含めて)が全く立っていないからです。

思ったより早く(早春か、それより前に)出発することになるかもしれません。来週には関西にある遍路用具販売店を訪ね、歩き遍路経験者の方に相談できるようなのでいろいろ聞いて予定を立てたいと思います。

寒くても平気なも、民謡を吹こう、今週末は公開講話

前に足袋+一本歯で歩くごとにずれると書きましたが、2足目の下駄で歩くとほとんどずれませんでした。
下駄の重さも違いますがそんなに影響するのかとも思うし、こうなると1足目の鼻緒に問題がありそうです。
いずれすげ替えをしようと思っていたので、近いうちにまた履物屋へ行こうと思います。


昨日今日とまた寒い日が続いていますが(よく雪が降ります。ほとんど積りませんが、こんなに降ったかなあと思うくらいに降ります)、足袋なしで歩いて平気でした、つまり風邪をひきませんでした。

本当は履くつもりだったんですが、現行の25.5がぴったりすぎて少し小さいようで(足のサイズとしてはぴったりなんですが、親指と人差し指の間が小さいようで、鼻緒が指間の奥までかんでくれません。足袋がずれるのはこのせいかもしれません)、26.0を昨日買いに行くつもりで昨日の朝に足袋を洗濯したんですが置いてあるスーパーに行くと改装中だったので乾いてない足袋をコタツやらストーブやらで急遽乾かして履いて出たんですが、冷気(まあ大気ですが)に触れると濡れているように感じだしたので、それなら履かない方がマシだと歩いている途中に脱いで結局昨日はほぼ裸足で歩いたことになって、積らないにせよ雪がちょうどわさわさと降っている頃だったので非常に寒く、しばらく歩いて指の感覚が戻ってきてからも寒いままで(これは前に「歩くうちに足指が暖かくなる」と書いたことに自分で騙されたようで、いくら歩いても指の感覚が戻るだけで暖かくはなりません)、大丈夫かなと心配でしたが帰宅してからすぐプールで泳いだために平気でした。

たぶん足は動いている間は冷えててもよくて、動いたあとに冷えたままだとよくないのだと思います。
なのでプールへ行く日は大雨でなければ(小雨なら平気で、雪の方がむしろ好都合ですね。意外に身体の下へいくほど雨も雪もかかりません)寒くてもナイトウォークに行けるのだとこの2日(と前に風邪を引いた前日と)で確認できました。


p.s.
小島信夫の短編集成を読んでいるとよく「なも」が出てきます。
森博嗣との意外な共通点。

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前↓に作った篠笛ケースが活躍しています。

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というのも、いつからか高野川沿いを一本歯で歩く行程の最後らへんで小休止するようになり(休憩後の歩く感覚を確かめる意味があります)、じゃあせっかくだからその間に笛を吹こうと思って篠笛をケースに入れて持って出るようになりました。

それで最初は適当にぴろぴろ吹いて遊んでいるだけでしたが、吹くうちに曲を思いつくというか思い出してきて練習するようになりました。

沖縄民謡の音階は簡単にしてそれっぽいので島唄(「でいごの花が咲き〜」)を最初に思い付き、そういえば昔学校で歌った民謡というのか童歌というのか、以下のような歌を思い出して練習しています。
 ・夕焼け小焼け(「夕焼け小焼けの赤とんぼ〜」)
 ・ふるさと(「うさぎおいしかの山〜」)
以下は思い出しただけでまだ練習していません
 ・われは海の子(「われは海の子しらなみの〜」)
 ・浜辺の歌(「ドドファソラ〜」←歌詞は忘れて音だけ覚えています)

適当にぴろぴろもいいんですが、こういった曲を覚えているとそれぞれの曲に合わせた「ぴろぴろ」ができるので(ジャズでいうコード進行に沿ったアドリブ。ジャズに限った話でもないか)「ぴろぴろ」の幅も広がるし、旅先でも色々吹けるとなにかとよいかもしれません。

ということで、自分の記憶にも限りがあるので民謡集のCDをTSUTAyAで借りて食事中にでも聴いてみようかなと思いつきました。

笛が未調律なのでなかなか音程が怪しく、おさえる指を工夫してそれっぽい音階にはなりますが玄人には厳しいピッチで、しかし相対音感しか持たない僕にとってそれがさほど気にならないことである理由は、民謡とはそういうものという認識があるだけでなく、「完成度」から解放された純粋な遊びだからです。
吹奏楽をやっていた頃(そしてその後のジャズも吹奏楽の延長からなかなか外れることができず苦労しました)からチューナーを肌身離さずピッチ合わせに躍起になっていましたが、そういった感覚(音楽観)がぶり返さなかったのは、最初に買ったのが指穴を等間隔に空けただけの音程無視の(主に音色を楽しむための)篠笛だったおかげもあると思います。

などと書いているうちにこの竹製の笛への愛着が増してきました。

TSUTAYAへは近いうちに行きましょう(前↓にモーツァルトを借りに行って以来ですね)。

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3月ほど前の話ですが、当時の宣言↑通りに野口裕之氏の公開講話@京都へ今週末に行ってきます。
昨日予約をしました。

4時間の講話のうち後半は実習らしく、あれば足袋を持参せよとのこと。
何やるんでしょう、楽しみです。

実習、稽古といえば、内田樹氏のブログで読んだ芦屋道場での稽古の風景が連想されます。
二人一組で前後になって歩き、後ろの人が前の人の背中に手を置いて「右に曲がれ右に曲がれ」などと念じて、前の人にそれが伝わって「ん、なんとなく右に曲がりたいな」と思って曲がる以心伝心の訓練、とか。

身体性に深く関わる実習であることに間違いないとすれば、当たらずとも遠からず、といったところでしょうか。

足袋を履いてからんころん

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前回↑のその後ですが、ボンドがほぼ固まったので一度歩いてみると、充填部がほぼ跡形なく(というのはわずかに乾いていなかった白い部分を残して)消失していました。
考えてみればゴムに対して木工用ボンドが接着するはずはないので当然ですね。
乾いた時の固まり具合を串でつついて「完璧だ」と思ったんですが、つるりと滑っていとも簡単に剥がれ落ちてしまったのでしょう。

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ゴムの隙間に砂or泥が詰まって圧迫され、隙間が広がっています。
放置したくないというかなんとか対処したい有様ではありますが、隙間に入り込むのは歯の着地時で、踏み込んで地を蹴る時は隙間が狭まる方向に反発力がかかるはずなので、両者のバランスの問題にはなりますがそう簡単には面取り部ゴムがとれることはないと希望的観測をもっています。

このままでしばらく歩き続けてみます。

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14-16日くらいに京都南部では雪が降り、15日は今冬でいちばん積ったんですが、14,15ともいつも通り夕方に一本歯で高野川を歩き(もちろん裸足で)、歩き始めの足の冷たさは尋常じゃなく凍傷にでもなるかとおののきましたが、冷静に考えれば手袋なしで露出している手と同程度なわけで、歩くうちに足指の感覚が復活してきて(この点では手指をどれだけ擦ってもこれほどは暖まりません)、「冬でも素足の下駄で寒くないなあ」などと歩いている間は思っていたんですが、行程の後半で積った雪の上をざくざく鳴らして歩いている時*1に足が濡れてしまったせいか、いやそれ以前の問題かもですが、帰ってすぐ風呂に入ってぬくぬくしたんですが風邪をひきました。

風邪を引いたはずですが体温が多少上がってぼーっとするだけなので特に休養をとるほどでもなく、ナイトウォークも続けていますが(雪中を歩いた翌日も雪だったのでさすがにその日は休みました)、風邪のおかげか「足をあまり冷やしたくない」という発想にようやく至り、前に買って少し試し履きをしただけで放置していた足袋を履いてみることにしました。

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写真を撮るほどでもありませんが、脚絆+足袋を装着した絵。
こういうことになるなら脚絆も白にしておけばすっきりしたのですが、日常履きとしては藍の方が合います(最初に洗濯するまで触るごとに手が真っ青になりましたが)。


足袋+一本歯で歩いた感触ですが、まず裸足に比べて指のグリップ力が断然落ちて歩くごとに足がズレてしまう(一本歯の台と足裏の位置関係がズレる)ことに戸惑いました。
地面を蹴って足を前に振り出す時に、下駄の重みと遠心力によって下駄が脱げる方向にズレてしまうのだと思います。
指で踏ん張ってもこのズレが防げず、ちょっと歩くごとに鼻緒に指を入れ直すというのをやるんですがこれではもちろんスムーズに歩けません。

どうしたものかと歩きながら考えていると、自然と対処法を思いつきました。

歯で地を踏み込んでから、蹴るまでの溜めを長くすると(台がどんどん前方に傾くので)台の前端が地面に当たります。
この当たること自体は地面を蹴る力に加わらないエネルギの純ロスになるので、一歩の歩幅を大きくしようと思うなら前端が地面に当たるギリギリで地面を蹴り出すのが通常はよいということになりますが、足袋履きの今日歩いていて気付いたのは、台の前端を敢えて地面に当てることで(脱げる方向にズレた)足の位置を元に戻すことができるのです。
つまりは一歩ごとに台に対して足が前へ後ろへと位置を変えることになるわけで、これはなかなか難しい。
裸足+一本歯の歩き方とは別物と考えてもよいくらいの違いがあります。

そしてふつうに歩けば一歩ごとに歯底が当たるだけの「カン、カン」という音がしますが、前端を当てて歩けば「カラン、コロン」と鳴ります。一般的な下駄の音もこのように聞こえますが、この一本歯では「カラン」の「カ」が左の下駄前端の音だとすれば「ラン」は右の歯底になります。
リズムと強弱の付け甲斐が増えて、コンクリートアスファルトを歩く面白みがあります

とはいえ、当然ですが裸足よりもずっと寒くなくて(体調が悪化することなく、逆にナイトウォークの後のプール&サウナで回復したかと思ったくらいでした)、冬の間とくに寒い日はこちらが主流になっていくかもしれません(体調が万全で好天なら氷点下に近い気温でも裸足で平気なんですが)。
そして、バリエーションとして旅の道中でも時々足袋で歩くといったことをしてもいいかもしれないと思いました。

足袋を履いた時の(防寒以外の)効果を今後見定めていきます。

*1:ところで雪の上を一本歯で歩くというのはどこか橇(かんじき)に似ているなと思い、あえて言えば「介在する履物の存在感」としてかなと思うんですが、靴に対して接地面積を増やす本来の橇とは思想が逆なわけでとても同列に考えられるはずもないんですが、例えば本来の橇を「S-橇」とすれば一本歯は「M-橇」とでも言えるのではないかと愚考した次第です。ちなみにサイズではありません。

一本歯二足目とクッション取付

二足目を買いました。
試し履きをしたかったので京都の街中でないかと履物屋を探し、錦市場へ行きました。

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左が新しい方で、少し幅が細い。
そのぶん台が薄くて歯が短く、つまり下駄が軽い。
そして歯の前方角部が面取りされています。

クッションをつけるつもりだったので、面取りを加味して工夫しました。
クッションはe-geta.comで購入しました。
リンク先の一番下です。

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歯底から。

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下駄側面から。

クッションのゴムを切断して、歯の底面と面取り斜面のそれぞれに接着剤と釘で固定しました。
底面固定ゴムと斜面固定ゴムの隙間はゴムの切れ端をつくって埋め込みました。
が、大雑把にハサミでじょきじょきやったせいか、一度外を歩いてみると隙間に土や小石が入り込んで一部の切れ端が隙間から追い出されてしまったので、方針を変えて、その土や小石をかい出してから木工ボンドを充填しました。

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隙間の右側1/3弱に充填したボンドを乾かしている途中(二日目)。
たぶん四日で完全に固まる(と透明になる)はずです。
最初から隙間の全部をこうしていれば綺麗な仕上がりになっていたのですが。

ひとまずこれでクッションは完成形のはずで、あとは耐久性がどれだけあるかです。
歩行一日目(いつも通り河川敷を1時間程度)にしてクッションのトゲトゲがいくつか磨耗していて、盤石とは思えませんが、しばらく様子を見ます。


履き心地を比べればクッションありだとまるで靴のようで、石畳やコンクリートを歩いていてもへいちゃらの感があります。
がその裏返しで、地肌とコンクリートとで抵抗反発感に差があまりなく(あるにはありますが)心許ないという言い方は少し変ですが浮き足立ったように感じます。

安全性をとれば(クッションの破壊を考慮の外におけば)クッションありがよいですが、正直にいって、歩くことの充実全般の面ではクッションなしがよいです。
充実の内容は、クッションありよりなしの方が裸足で歩いている感覚に近い、というところに因っています。

硬い地面での長時間歩行に問題なければクッションなしで旅に出たいところです。


そういえば、店で下駄を買う時に「下駄は時々(という以上に)左右を入れ替えて履くものだ」と初めて知りました。
鼻緒の前の穴の位置が台の中央にあいていて左右どちらでも履けるとは知っていましたが、どこか履物として下駄を靴やサンダルと同じものと僕は考えていたようです。
当然ですが、左右を入れ替えて履いていれば歯の減りが外側に偏ることはありません。

このことを知って、クッションなしでもいけるかもしれないという思いを強くしました。
歯がだんだんすり減っていき、それが外側だけすり減って歩きにくくなるのであれば長期歩行には耐えられないと考えていたのですが、歯が左右均等に減って歯の長さがだんだん短くなるというだけであれば、むしろ歯が短くなるのは歩きやすくなることでもあり(減り過ぎるとそりゃあよくないですが)、道中で長さを確認しながら歩いていて「そろそろ交換時かな」と思ったら履物屋に行って買い替えればよい。

歯がだんだん減る、歩き具合が日に日に変わっていくというのは、ただ目的地に達するというだけならともかく、歩くことそのものを経験するうえでは一つの大きな魅力である。ということを高野川ナイトウォークで履き比べをして実感しました。

とはいえ現段階では、クッションありの方も履き慣らしてみるつもりではあります。