human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

寒くても平気なも、民謡を吹こう、今週末は公開講話

前に足袋+一本歯で歩くごとにずれると書きましたが、2足目の下駄で歩くとほとんどずれませんでした。
下駄の重さも違いますがそんなに影響するのかとも思うし、こうなると1足目の鼻緒に問題がありそうです。
いずれすげ替えをしようと思っていたので、近いうちにまた履物屋へ行こうと思います。


昨日今日とまた寒い日が続いていますが(よく雪が降ります。ほとんど積りませんが、こんなに降ったかなあと思うくらいに降ります)、足袋なしで歩いて平気でした、つまり風邪をひきませんでした。

本当は履くつもりだったんですが、現行の25.5がぴったりすぎて少し小さいようで(足のサイズとしてはぴったりなんですが、親指と人差し指の間が小さいようで、鼻緒が指間の奥までかんでくれません。足袋がずれるのはこのせいかもしれません)、26.0を昨日買いに行くつもりで昨日の朝に足袋を洗濯したんですが置いてあるスーパーに行くと改装中だったので乾いてない足袋をコタツやらストーブやらで急遽乾かして履いて出たんですが、冷気(まあ大気ですが)に触れると濡れているように感じだしたので、それなら履かない方がマシだと歩いている途中に脱いで結局昨日はほぼ裸足で歩いたことになって、積らないにせよ雪がちょうどわさわさと降っている頃だったので非常に寒く、しばらく歩いて指の感覚が戻ってきてからも寒いままで(これは前に「歩くうちに足指が暖かくなる」と書いたことに自分で騙されたようで、いくら歩いても指の感覚が戻るだけで暖かくはなりません)、大丈夫かなと心配でしたが帰宅してからすぐプールで泳いだために平気でした。

たぶん足は動いている間は冷えててもよくて、動いたあとに冷えたままだとよくないのだと思います。
なのでプールへ行く日は大雨でなければ(小雨なら平気で、雪の方がむしろ好都合ですね。意外に身体の下へいくほど雨も雪もかかりません)寒くてもナイトウォークに行けるのだとこの2日(と前に風邪を引いた前日と)で確認できました。


p.s.
小島信夫の短編集成を読んでいるとよく「なも」が出てきます。
森博嗣との意外な共通点。

 × × ×

前↓に作った篠笛ケースが活躍しています。

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というのも、いつからか高野川沿いを一本歯で歩く行程の最後らへんで小休止するようになり(休憩後の歩く感覚を確かめる意味があります)、じゃあせっかくだからその間に笛を吹こうと思って篠笛をケースに入れて持って出るようになりました。

それで最初は適当にぴろぴろ吹いて遊んでいるだけでしたが、吹くうちに曲を思いつくというか思い出してきて練習するようになりました。

沖縄民謡の音階は簡単にしてそれっぽいので島唄(「でいごの花が咲き〜」)を最初に思い付き、そういえば昔学校で歌った民謡というのか童歌というのか、以下のような歌を思い出して練習しています。
 ・夕焼け小焼け(「夕焼け小焼けの赤とんぼ〜」)
 ・ふるさと(「うさぎおいしかの山〜」)
以下は思い出しただけでまだ練習していません
 ・われは海の子(「われは海の子しらなみの〜」)
 ・浜辺の歌(「ドドファソラ〜」←歌詞は忘れて音だけ覚えています)

適当にぴろぴろもいいんですが、こういった曲を覚えているとそれぞれの曲に合わせた「ぴろぴろ」ができるので(ジャズでいうコード進行に沿ったアドリブ。ジャズに限った話でもないか)「ぴろぴろ」の幅も広がるし、旅先でも色々吹けるとなにかとよいかもしれません。

ということで、自分の記憶にも限りがあるので民謡集のCDをTSUTAyAで借りて食事中にでも聴いてみようかなと思いつきました。

笛が未調律なのでなかなか音程が怪しく、おさえる指を工夫してそれっぽい音階にはなりますが玄人には厳しいピッチで、しかし相対音感しか持たない僕にとってそれがさほど気にならないことである理由は、民謡とはそういうものという認識があるだけでなく、「完成度」から解放された純粋な遊びだからです。
吹奏楽をやっていた頃(そしてその後のジャズも吹奏楽の延長からなかなか外れることができず苦労しました)からチューナーを肌身離さずピッチ合わせに躍起になっていましたが、そういった感覚(音楽観)がぶり返さなかったのは、最初に買ったのが指穴を等間隔に空けただけの音程無視の(主に音色を楽しむための)篠笛だったおかげもあると思います。

などと書いているうちにこの竹製の笛への愛着が増してきました。

TSUTAYAへは近いうちに行きましょう(前↓にモーツァルトを借りに行って以来ですね)。

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 × × ×

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3月ほど前の話ですが、当時の宣言↑通りに野口裕之氏の公開講話@京都へ今週末に行ってきます。
昨日予約をしました。

4時間の講話のうち後半は実習らしく、あれば足袋を持参せよとのこと。
何やるんでしょう、楽しみです。

実習、稽古といえば、内田樹氏のブログで読んだ芦屋道場での稽古の風景が連想されます。
二人一組で前後になって歩き、後ろの人が前の人の背中に手を置いて「右に曲がれ右に曲がれ」などと念じて、前の人にそれが伝わって「ん、なんとなく右に曲がりたいな」と思って曲がる以心伝心の訓練、とか。

身体性に深く関わる実習であることに間違いないとすれば、当たらずとも遠からず、といったところでしょうか。

足袋を履いてからんころん

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前回↑のその後ですが、ボンドがほぼ固まったので一度歩いてみると、充填部がほぼ跡形なく(というのはわずかに乾いていなかった白い部分を残して)消失していました。
考えてみればゴムに対して木工用ボンドが接着するはずはないので当然ですね。
乾いた時の固まり具合を串でつついて「完璧だ」と思ったんですが、つるりと滑っていとも簡単に剥がれ落ちてしまったのでしょう。

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ゴムの隙間に砂or泥が詰まって圧迫され、隙間が広がっています。
放置したくないというかなんとか対処したい有様ではありますが、隙間に入り込むのは歯の着地時で、踏み込んで地を蹴る時は隙間が狭まる方向に反発力がかかるはずなので、両者のバランスの問題にはなりますがそう簡単には面取り部ゴムがとれることはないと希望的観測をもっています。

このままでしばらく歩き続けてみます。

 × × ×

14-16日くらいに京都南部では雪が降り、15日は今冬でいちばん積ったんですが、14,15ともいつも通り夕方に一本歯で高野川を歩き(もちろん裸足で)、歩き始めの足の冷たさは尋常じゃなく凍傷にでもなるかとおののきましたが、冷静に考えれば手袋なしで露出している手と同程度なわけで、歩くうちに足指の感覚が復活してきて(この点では手指をどれだけ擦ってもこれほどは暖まりません)、「冬でも素足の下駄で寒くないなあ」などと歩いている間は思っていたんですが、行程の後半で積った雪の上をざくざく鳴らして歩いている時*1に足が濡れてしまったせいか、いやそれ以前の問題かもですが、帰ってすぐ風呂に入ってぬくぬくしたんですが風邪をひきました。

風邪を引いたはずですが体温が多少上がってぼーっとするだけなので特に休養をとるほどでもなく、ナイトウォークも続けていますが(雪中を歩いた翌日も雪だったのでさすがにその日は休みました)、風邪のおかげか「足をあまり冷やしたくない」という発想にようやく至り、前に買って少し試し履きをしただけで放置していた足袋を履いてみることにしました。

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写真を撮るほどでもありませんが、脚絆+足袋を装着した絵。
こういうことになるなら脚絆も白にしておけばすっきりしたのですが、日常履きとしては藍の方が合います(最初に洗濯するまで触るごとに手が真っ青になりましたが)。


足袋+一本歯で歩いた感触ですが、まず裸足に比べて指のグリップ力が断然落ちて歩くごとに足がズレてしまう(一本歯の台と足裏の位置関係がズレる)ことに戸惑いました。
地面を蹴って足を前に振り出す時に、下駄の重みと遠心力によって下駄が脱げる方向にズレてしまうのだと思います。
指で踏ん張ってもこのズレが防げず、ちょっと歩くごとに鼻緒に指を入れ直すというのをやるんですがこれではもちろんスムーズに歩けません。

どうしたものかと歩きながら考えていると、自然と対処法を思いつきました。

歯で地を踏み込んでから、蹴るまでの溜めを長くすると(台がどんどん前方に傾くので)台の前端が地面に当たります。
この当たること自体は地面を蹴る力に加わらないエネルギの純ロスになるので、一歩の歩幅を大きくしようと思うなら前端が地面に当たるギリギリで地面を蹴り出すのが通常はよいということになりますが、足袋履きの今日歩いていて気付いたのは、台の前端を敢えて地面に当てることで(脱げる方向にズレた)足の位置を元に戻すことができるのです。
つまりは一歩ごとに台に対して足が前へ後ろへと位置を変えることになるわけで、これはなかなか難しい。
裸足+一本歯の歩き方とは別物と考えてもよいくらいの違いがあります。

そしてふつうに歩けば一歩ごとに歯底が当たるだけの「カン、カン」という音がしますが、前端を当てて歩けば「カラン、コロン」と鳴ります。一般的な下駄の音もこのように聞こえますが、この一本歯では「カラン」の「カ」が左の下駄前端の音だとすれば「ラン」は右の歯底になります。
リズムと強弱の付け甲斐が増えて、コンクリートアスファルトを歩く面白みがあります

とはいえ、当然ですが裸足よりもずっと寒くなくて(体調が悪化することなく、逆にナイトウォークの後のプール&サウナで回復したかと思ったくらいでした)、冬の間とくに寒い日はこちらが主流になっていくかもしれません(体調が万全で好天なら氷点下に近い気温でも裸足で平気なんですが)。
そして、バリエーションとして旅の道中でも時々足袋で歩くといったことをしてもいいかもしれないと思いました。

足袋を履いた時の(防寒以外の)効果を今後見定めていきます。

*1:ところで雪の上を一本歯で歩くというのはどこか橇(かんじき)に似ているなと思い、あえて言えば「介在する履物の存在感」としてかなと思うんですが、靴に対して接地面積を増やす本来の橇とは思想が逆なわけでとても同列に考えられるはずもないんですが、例えば本来の橇を「S-橇」とすれば一本歯は「M-橇」とでも言えるのではないかと愚考した次第です。ちなみにサイズではありません。

一本歯二足目とクッション取付

二足目を買いました。
試し履きをしたかったので京都の街中でないかと履物屋を探し、錦市場へ行きました。

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左が新しい方で、少し幅が細い。
そのぶん台が薄くて歯が短く、つまり下駄が軽い。
そして歯の前方角部が面取りされています。

クッションをつけるつもりだったので、面取りを加味して工夫しました。
クッションはe-geta.comで購入しました。
リンク先の一番下です。

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歯底から。

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下駄側面から。

クッションのゴムを切断して、歯の底面と面取り斜面のそれぞれに接着剤と釘で固定しました。
底面固定ゴムと斜面固定ゴムの隙間はゴムの切れ端をつくって埋め込みました。
が、大雑把にハサミでじょきじょきやったせいか、一度外を歩いてみると隙間に土や小石が入り込んで一部の切れ端が隙間から追い出されてしまったので、方針を変えて、その土や小石をかい出してから木工ボンドを充填しました。

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隙間の右側1/3弱に充填したボンドを乾かしている途中(二日目)。
たぶん四日で完全に固まる(と透明になる)はずです。
最初から隙間の全部をこうしていれば綺麗な仕上がりになっていたのですが。

ひとまずこれでクッションは完成形のはずで、あとは耐久性がどれだけあるかです。
歩行一日目(いつも通り河川敷を1時間程度)にしてクッションのトゲトゲがいくつか磨耗していて、盤石とは思えませんが、しばらく様子を見ます。


履き心地を比べればクッションありだとまるで靴のようで、石畳やコンクリートを歩いていてもへいちゃらの感があります。
がその裏返しで、地肌とコンクリートとで抵抗反発感に差があまりなく(あるにはありますが)心許ないという言い方は少し変ですが浮き足立ったように感じます。

安全性をとれば(クッションの破壊を考慮の外におけば)クッションありがよいですが、正直にいって、歩くことの充実全般の面ではクッションなしがよいです。
充実の内容は、クッションありよりなしの方が裸足で歩いている感覚に近い、というところに因っています。

硬い地面での長時間歩行に問題なければクッションなしで旅に出たいところです。


そういえば、店で下駄を買う時に「下駄は時々(という以上に)左右を入れ替えて履くものだ」と初めて知りました。
鼻緒の前の穴の位置が台の中央にあいていて左右どちらでも履けるとは知っていましたが、どこか履物として下駄を靴やサンダルと同じものと僕は考えていたようです。
当然ですが、左右を入れ替えて履いていれば歯の減りが外側に偏ることはありません。

このことを知って、クッションなしでもいけるかもしれないという思いを強くしました。
歯がだんだんすり減っていき、それが外側だけすり減って歩きにくくなるのであれば長期歩行には耐えられないと考えていたのですが、歯が左右均等に減って歯の長さがだんだん短くなるというだけであれば、むしろ歯が短くなるのは歩きやすくなることでもあり(減り過ぎるとそりゃあよくないですが)、道中で長さを確認しながら歩いていて「そろそろ交換時かな」と思ったら履物屋に行って買い替えればよい。

歯がだんだん減る、歩き具合が日に日に変わっていくというのは、ただ目的地に達するというだけならともかく、歩くことそのものを経験するうえでは一つの大きな魅力である。ということを高野川ナイトウォークで履き比べをして実感しました。

とはいえ現段階では、クッションありの方も履き慣らしてみるつもりではあります。

ぶち猫の篠笛袋

をありものでつくりました。

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布地は50×50の手ぬぐい(デスクワークをやっていた時にディスプレイをかさ上げする台として数冊の本をくるむために買ったもの)、紐は(たぶん)無印良品で買ったタオル的なものをくるんでいたもの。

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篠笛は竹で穴が等間隔にあいているものです(つまり未調律)。
ピッチは謎ですが音色がステキで、和風にぴろぴろやるには心地良いです。

笛は猫袋に入れて旅に持って行くつもりです。

小島氏短編とT-Gen氏 @図書館

昨日『白衣の女』(ウィルキー・コリンズ)を読了したので、今日府立図書館へ行ってきました。

返すついでに借りたのは小島信夫氏の短篇集成1と『「あの戦争」から「この戦争」へ』(高橋源一郎)。
タカハシ氏の本は偶然見つけ、目次を読むとまさに今借りようとしていた「小島信夫」の文字が見え、最初から2節分くらい読んで、借りることにしました。

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ゲートをくぐったそばの新刊コーナのような所に、池澤夏樹氏が…なんだったかな、「編集統括」だったか忘れましたが、現代語訳日本古典文学全集なるもの(の1巻)が置いてありました。
置いてあったのは古川日出男氏訳の「平家物語」で、末尾にあった全集一覧には、訳者として池澤夏樹氏(『古事記』→そういえば手元にある『ぼおるぺん古事記』(こうの史代)をまだ読んでいませんね)、内田樹氏(『徒然草』←「こういう生活したいなあ」と思いながら訳されたのではないでしょうか)、森見登美彦氏(『竹取物語』←「モリミ・バンブー・カンパニー」代表取締役のモリミー氏にうってつけですね)、いとうせいこう氏(何か忘れましたが二作品)などがありました。

全30巻だそうです。

重しと休憩と「ナンバ歩きの方向転換」のこと

本ブログのタイトルを若干変更しました。
意味不明ですが気にしないで下さい。
正直になった証を立てました。

 × × ×

88回行けば…ということを少し考えていたんですが、一本歯ウォークデイを数えるのはやめました。
毎回書く必要が、最初の頃はあると思っていて実際あったんですが、最近はなくなってきたので。
今日はちょこちょこ書くべきことがあるので書きます。

 × × ×

今日から「重し」を担いで歩くことを始めました。
高校の登山部ではリュックに砂袋を詰めて階段を上り下りするトレーニングをしていましたが、あれと一緒です。
歩き旅では(チャリ旅はぜんぶ自転車に積めたんですが)全ての荷物を背負うことになるので、それを想定して少しずつ重しを重くしていきます。
重しとしてはおあつらえむきな洋書の写真集(前にBookoffのワゴンセールで買いました)が4冊分あって、今日はその1冊と、あと現時点で溜まっている5円玉が入ったメガネケース(特に意味はなく、いろいろ丁度良い入れ物だったので使っている)をリュックに詰めました。
五円玉は現時点で写真集1冊より少し重いくらいの量です。
もちろんまだまだ増えます。

で、重し入りリュックは肩にはさほど負担はないと感じたんですが、一本歯で歩き始めてみると足首への負担が意外なほど大きかったです。
ただその負担も行程後半には慣れてきたし、ポジティブな面としては踏み込みブレが少なくなったようでした。


その足首への負担増からか、高野川河川敷の上り下りの途中で初めて座って休憩をとることにしたんですが、ほんの数分じっとしていただけでふくらはぎの疲労が見違えるようにとれました。
休憩って大事ですね…登山部で散々経験したはずで(山ではちゃんと時間を計って1時間ごとに5分か10分の休憩をとっていました)、忘れていたわけでもないのですが、なぜかこのことをうっちゃっていました。

昔と考え方を変えたからかもしれませんが、ある方面においてとても頭が悪くなっている(あるいは結果としてそうなっているように見える)気がしてなりません。
もちろん、それでいいからそうしているのですが。

というわけで今でも旅でも休憩はこまめにとろうと思います。
高野川河川敷の行程は全体で1時間ちょいで、その終盤で休憩をとりたくなったので、登山部の時と同じく「1時間に1回」が妥当なところですかね。

 × × ×

ところで、今日唐突に、一本歯で(ベランダを)歩いていると「ナンバ歩きの方向転換」の感覚がつかめました。
甲野善紀氏が道場でするすると歩く動画(↓の0:20〜0:50くらいの場面)を前に見た時に真似をしようとして、方向転換の仕方がどうしてもわからなかったんですが、今朝突然わかりました。

www.youtube.com

氏の動きを見ているとほんとに「するする」と表現するしかないように滑らかに回転しながら曲がっています。
一本歯でこの「するする」の感覚がわかったということは、足のある部分の動き(まず間違いなく「ひねり動作」でしょう。「ばね動作」かもしれませんが)を制限することで実現されているということです。

この感覚が一本歯歩行に活かせるかどうかはこれから試行錯誤して考えます。
(動画みたいに手をふとももに沿えてやると「するする」感がもっと出て楽しいです。一本歯でふつうに歩く時にこれをやると疲れるなと今日やってみて思いましたが、それ以外に何かあるかもしれません)

自分の芝で

ちょっと正気に戻りました。

「考えたくないこと」と昨日書いて気にかかっていました。
主観的に言えばそれで間違いはないんですが、ちょっと離れて見ればそれは「考えを強いられること」です。
強いられる、という言葉は強いですが、何事も縁として見る自分にはそう思えます。
そしてその自分のスタンス上、強いられる原因の半分は外部にあるとはいえ、もう半分は自分のせいです。
とはいえ、外から無闇に情報を取り入れる必要は元々なく、自分のスタンスを貫くうえでもそれは衛生上よいことです*1


また、これも昨日書いた「書く姿勢が変わってきた」、「書く目的は書きながら考える」ということも、自分で妙だと思いながら書いたわけですが、それは当たっているのです。
書くことを前提に考えればそうなります。

それで、ちょっとこの前提を外してみようと今朝思いました。
もともとブログを(本気になって)書き始めたきっかけは「過去の自分がなにを考えていたかが全く思い出せずに愕然としたこと」でした。
つまりもともとは記録としての機能をブログに担わせていたのでした。
それから、書きながら考える=書いてこそ生まれる考えがあるという書き方に発展していき、記録以上のものを見出すようになりました。
その記録以上のものを生み出す原動力が自分の分析的思考にある、ということを今朝認識したのです。
もちろん分析的思考を創造的に機能させるうえで連想が欠かせず、連想は自分にとってとても重要な脳内活動で、ふつうの人が思うように「日常生活に支障を来さないために常識的な範囲で制限する」ことをしない努力をしてきました。

その連想を…いや、分析的思考と簡単に切り離せるものではない気もしますが、だから連想の自由度も影響を受けるとは思いますが、言いたかったことは、分析的思考をせずしてブログに書くことは特にないということです。


そしてこれは興味の話ですが、書くことで客観化して生活の秩序を保ってきた面が働いていた頃にせよ今にせよあって、これも一度外してみようと。
「今だからできること」をいろいろやっている中のこれも一つになるのですが、最近さわりを読んだ『村上春樹河合隼雄に会いにいく』に、(社会に対する)デタッチメントとコミットメントの話があって、村上氏の初期の小説はデタッチメントを基調として書かれていて、氏が外国に何年も住むようになってから氏自身の中で考え方が変わってきて、次第にコミットメントについて考えるようになった、といったことが書かれています。
自分は「来る者拒まず」と思うことがコミットメントだと思ってきた節があって、でも「去る者追わず」がその後に付くことで、そして結局は自分から関わる意志がないことでこれはデタッチメントなのだ、と上の本を読んでしばらくして気付きました。

なにが言いたいかというと、自分が自覚していなかったデタッチメントという心情を、自覚して生活してみるとどうなるだろうかと。
外に表れる振る舞いを変えるわけではなく、自分の中の意識が変わる。
その意識が変わることが振る舞いを変えることはあるかもしれない。


たぶん、他人の芝として憧れて見ていたものを、いざその他人の家に住んで庭でぶらぶらしながらもまだ他人の芝として憧れて続けていた、ということだと思います。

「今だからできること」とは、想像の基点を自分の芝に置くことです。

*1:これに関連してfacebookのアカウントを停止しました。完全削除はしていないので、また再開することもあるかと思います。

分析的でない文章、花見の第二十八歩

今日は三食の内容も含めて昨日と同じ、判を押したような日でした。
こういうことになりそうな時は敢えてちょっと違ったことをしてみるのが常でしたが、やってみるとこれはこれで悪くない。

自分がなにを考えているか、というよりはなにを考えたくないかが行動を通してうかがい知れる。


どうも最近は「分析的思考」をあまり好まないようです。
今までさんざんやってきた反動でしょうか。

…分析的でない文章というのは、昔文章を書くのが苦手だったのを苦にせずまず習得したのが分析的な文章ということで、たぶん不得手なのです。
嫌いではなくて(そういう文章を読むのは好きなので)、不得手というのは、自分が書きたいことを書いていて見えてこない(分析的思考に基づいて論理を進めればそれは自ずと導かれることが多い)ことで、それはあるいは書く達成感がないということかもしれません。

書かないと見えてこないわけではない。
書いてみると「あ、そうなんだ」と思い、それでおしまい。
こういう文章は、今まで僕が書いてきたのとは目的が違うのでしょうね。

その目的を書きながら探すのも妙なものですが…

 × × ×

話を戻しまして、昨日に引き続いて今日もナイトウォークへ行ってきました。

脚絆のせいでもないと思いますが、最近また寒くないですね。
秋の服装で出掛けて途中で汗ばむくらいで、帰ってきたら下駄の台も所々が汗で湿っています。
足裏に汗をかくとすべるので台と足裏とが擦れやすくなって、親指の皮がまた剥がれてきそうです。
左足は一度べろりと剥がれて、ようやく再生しそうだというところなんですが。
冬でこれなんだから、春の日中に歩くと大変そうですね。
足裏の保護はやりようがなさそうなので(絆創膏を貼るだけでも下駄の装着具合がかなり変わってしまう。足袋も少し試しましたがやはり脱げやすくなりそうです)、皮剥け等は我慢ですかね。

そうだ、高野川の下り(東岸)は歩道の上に木が枝を伸ばしていて、落葉樹らしく今は寒々とした枝だけなんですが、そういった木々と白い光の街灯というのはなにかよい相性をもっていて、今日はなぜか木々に桜が咲いているような想像をしました(あの木々は桜なのだろうか?)。
涼しめの静かな夜に桜が見られればいいだろうなと思ったのでしょうか。

宇宙刑事の第二十七歩

cheechoff.hatenadiary.jp

前の記事↑の最後に書いた予告通り、高野川を一本歯で歩いてきました。
予告するつもりで書いたのではなく、何げなく書いていて予告しようと思い立ったからなんですが、書くとやはり有言実行で勢いがつきますね。

さて、漢字二字のルールを破っての派手なタイトルですが、予告を読まれた方はもう分かっているとは思いますが、つまりは

 宇宙刑事ギャバン(脚絆)

と言いたかっただけ。(ぎゃふん)


で、脚絆をつけて歩いてみた感想ですが、まずそんなに邪魔というか動きが制限される感じは受けませんでした。
ハーフパンツ型でズボンの上からつけるレインウェアがあるんですが、小雨の天気で歩く時や寒い時に重宝してけっこう使うんですが、前に一本歯でこのレインウェアを使った時に股があまり開かない感じ(つまり「歩幅が狭くなる感じ」)が明らかにあって、それと比べると脚絆の自由度はかなり高いと思います。

そうだ、サイズはなかなか丁度良い感じでした。
メジャーで測ってこれ↓の「大」を買ったのですが、1つのコハゼを留める2ヶ所のうち全部をきつくなる方に留めて、両足とも「緩まないが締まり過ぎない」程度にフィットしました。
ズボンの上からでなく直接ふくらはぎに付けているので、コハゼを緩い方に留めればズボンの上からでも付けられるだろうし、今後ふくらはぎが太くなっても調整が可能なので長く使えそうな気がします。
www.hantenya.com

動きが制限される感じはあまりないと書いたところですが、瞬発的な動きが少し鈍くなるかもとは思いました。
歩くだけなら全然構わないのですが。

あとは膝を大きく曲げる時に抵抗になるので、屈伸がやりにくくなります。
これはこれでしょうがないですが、足の体操の中で屈伸が好きな僕にとっては(好き嫌いあるんですよ、体操にも)大きいことだと思わないでもなくて、いやそう思おうとしたけどそうでもないと思い直したのは、そもそも歩行において「膝を曲げ切る」ような動作がないからですね。
学校の体育ならそういう場面がたくさんあったでしょうが(あったかな…今考えて思いつきませんが)、身体を動かす前の体操として「実際に身体を動かす時よりも過剰な負荷」をかける必要性がどこまであるのかをもののついでに今日考えることになったのでした。
伸脚の深いバージョンとか、ランニング前によくやっていましたが、あれもどうなのかなと今さらながらに…。

まあそれはいいのですが、なんとなく脚絆をつけていると安心感があります。
「長時間歩行における疲労を和らげる」と頭で思っているからかもしれませんが、安心感に加えて、実際に歩行の安定感も増しているような気もします。
1時間かそこらでは疲労云々までは言えませんが。

しばらくは装着しながら歩いてみます。
一日中歩く時もつけてみましょう。

ものういゆうぐれ

膝の調子は相変わらずです。

膝の裏の、膝とふくらはぎの境界あたり(これはふくらはぎなのか?)が、ちょっとした時にぴしっと来ます。
前も書きましたが、歩けるんですが本調子でないという気分は影響が大きくて、一日中歩こうという気にはなれずまた夜前に川沿いを歩くのも躊躇われます(今日は行こうと思っているのですが、さて)。
寝て起きれば治ると思っていましたが時間経過にあまり頓着しないようで、無理する気はないんですがずっと引き蘢っているのも(膝以外の?)身体に悪い。

歩き主体の生活から歩きが奪われるとやはりどうしても気持ちが後ろ向きになってしまいます。
読みたい本があるのでひたすら読むんですが、やり過ぎると背中が痛む(ちょっと前から起床時にずきずきするようになりました。だから背中の痛みのおかげで寝過ぎは防げるという)のでうーんどうしようと思い、少し前から背筋をやることにしまして、これはちょっと効果がある気がしています。


いつの間にやら年末ですが、(会社にいた時も大体そうでしたが)年末年始も特に変わったことはせず淡々と過ごすつもりです。
地元に戻ってきたので会いたい人に会いに行くかもしれませんが、あまり騒がしいところには出向かないと思います。

正月のおおらかなにぎやかさは好きなんですが(年の変わり目に石清水八幡宮に行くたびにそう思います)、それ以外は全部うるさいなどと思ってしまうと社会で何もできませんね。
今はそういう時期だというだけかもしれません。
あるいはもともと自分はこういう人間だったのかもしれません。
遍路へ旅立てばなにがしかヒントが得られることでしょう。

左手首も相変わらず原因不明で痛いですが…そういうものだと受け入れつつ実験的に対処していきましょう。
そうだ、脚絆が昨日届いたので早速使ってみようと思います。
手甲はなんとかなりましたが、サイズは大丈夫かな…?